■第三十章:「未来の話、選択しない選択」
震災から数年が経過し、街は完全に復興を遂げていた。
新しいビルが立ち並び、かつて瓦礫の山だった場所には、緑あふれる公園が整備されていた。人々の表情にも、あの頃の暗い影はもうない。彼らは、震災という悲劇を乗り越え、前に進んでいた。私もまた、その一人だった。彼女と共に、新たな日常を築き、その日常の中で、静かに生きていた。
私たちは、西神中央の家で、静かで安定した日常を送っていた。彼女は出版社での仕事を続け、私は弁護士としての活動を続けていた。かつての「影のある少女」は、今や自信に満ちた女性へと成長していた。彼女は、編集者としてのキャリアを積み、数々の本の出版に携わっていた。彼女の名前が、本の奥付に載ることも増えた。私は、そのたびに、誇らしい気持ちになった。
――しかし、私はまだ彼女に話していないことがあった。
それは、震災後の世界――いや、その先の未来のことだった。私は、彼女に伝えていなかった。これから世界がどう変わるのか。どんな技術が生まれ、どんな社会が訪れるのか。私は、そのすべてを知っていた。しかし、それを伝えることが、彼女の人生にどんな影響を与えるのか、考えると、躊躇してしまった。
ある夜、私たちは書庫にいた。背の高い本棚が壁一面を覆い、それぞれの本の背表紙が天井の蛍光灯の光を鈍く反射している。二人分の肘掛け椅子が、向かい合うように置かれていた。暖炉には火が灯り、部屋は柔らかな温もりに包まれている。窓の外では、風が庭の木々を揺らし、その葉擦れの音が、静かに聞こえてくる。
彼女は分厚い小説を膝に載せていたが、しばらく同じページで止まっていた。彼女は、何かを考えているようだった。そして、顔も上げずに、ふと言った。
「ねえ、あなたは、これからの未来も知っているの?」
その声は、本の紙面に向けられていた。しかし、その問いは、かつて彼女がしたものと同じでありながら、以前よりもずっと深い静けさを帯びていた。彼女は、もうその問いを、単なる好奇心から発しているのではない。それは、私という存在の核心に触れようとする、真剣な問いだった。
私は、手にしていた法律書を閉じた。栞を挟む音が、ひっそりとした書庫に響く。その音が、二人の間の沈黙を、優しく切り裂いた。
「うん。知っているよ。」
「どんな未来?」
彼女はようやく顔を上げた。彼女の横のスタンドライトの灯りが、彼女の横顔を柔らかく照らしている。その目には、驚きも恐怖もなかった。ただ、落ち着いた好奇心と、そして――何かを共有しようとする静かな覚悟があった。彼女は、震災を乗り越えたことで、何か大切なことを学んだのだろう。未来への恐怖ではなく、未来と向き合う強さを、彼女は手に入れていた。
私は少しの間を置いた。窓の外では、風が庭の木々を揺らしている。遠くから、犬の遠吠えが聞こえた。その音が、夜の静けさをさらに深めていた。
「これから、世界は大きく変わる。今はまだほとんど誰も知らないけれど、インターネットというものが、やがて世界を変える。そして、その中で、いくつかの企業が、世界の中心になる。」
彼女は本を膝の上に置き、少し身を乗り出した。その仕草は、かつて小学三年生の教室で窓の外を見ていた少女の面影を、一瞬だけ蘇らせた。彼女は、あの頃と同じように、何かに向き合うときは、全身でそれを受け止めようとする。
「企業?」
「Google、Apple、Amazon、Microsoft、そして、いずれMetaと呼ばれるようになるFacebook。マイクロソフトもまだ今は小さいけど、もっと小さな無名の企業、あるいはまだ存在すらしていない企業たちが、やがて世界を支配する。」
彼女は、小さく首をかしげた。その仕草は、昔と変わらない。しかし、その目には、あの頃の孤独はもうなかった。
「Google? Apple? Amazon? Meta? 聞いたことない名前だね。」
「今は、当然だ。GoogleやMetaはまだ創業していない。Appleは倒産寸前だ。Amazonも、まだ小さなオンライン書店にすぎない。でも、二十年後には、それらの企業が世界の価値観を塗り替えている。」
私は、立ち上がって窓辺に歩いた。カーテンの隙間から、月明かりが床に長い帯を描いている。その光が、書庫の床を銀色に染めていた。
「Googleの検索エンジンが世界を変える。AppleやGoogleのスマートフォンが人々の生活を一変させる。Metaや他のソーシャルメディアが人間関係を再定義する。そして――それらがもたらす、光と影。」
背後で、彼女が立ち上がる気配がした。スリッパの足音が、ひっそりと床を鳴らす。彼女は、ゆっくりと私の後ろに立った。
「すごい。そんな未来が、来るんだね。」
彼女の声は、すぐ背後から聞こえた。彼女もまた、窓の外を見ているのだろう。部屋の明かりが、二人分の影を床に重ねていた。その影が、寄り添うように、ひとつに溶け合っている。
「ああ。その未来はきっと来るし、避けられない。」
私は、彼女の方を振り返った。彼女は、私のすぐ後ろに立っていた。かつてはあれほど遠くに感じられた彼女の存在が、今は腕を伸ばせば届く場所にある。そのことが、なぜか不思議でならなかった。数十年という時間を超えて、私は、ようやく彼女の隣に立っている。
「それなら、あなたは、その企業に投資したりするの?」
彼女の問いは、核心を突いていた。しかし、その口調には、もはや疑念はなかった。ただ、私の答えを静かに待つ、それだけの質朴な信頼があった。
「しない。」
私は、きっぱりと答えた。
彼女は、少しだけ目を見開いた。月明かりが、彼女の瞳の奥で、小さな光を反射している。
「え? どうして? あなたは、未来を知っているのに、それを活かさないの?」
「もう、十分な資産がある。これ以上、富を追う必要はない。」
そう。私の知識があれば、破綻寸前のApple株を買い、その株式を担保に銀行から資金を借り入れ、起業当時にエンジェル投資家として投資すれば莫大な資産を築けるだろう。数兆円から十兆円程度。ビットコインも最初はタダ同然だった。十万枚程度買っていても良いかもしれない。しかし、やはりそんな膨大な金は要らなかった。彼女とこれから生まれるであろう子供たち。その数人が不自由なく暮らせる額があれば良い。弁護士としてもしっかりと収入が入ってくるのだから。
「でも、それだけの知識があるなら、もっと稼げるんじゃないの?」
私は、彼女の目を見た。月明かりが、彼女の瞳の奥に小さな光を宿している。その光が、私の決意を静かに受け止めていた。
「稼ぐことは、目的じゃない。君と共に、普通の人生を歩むことが、私の、俺の目的だ。大富豪になって、この人生を逸脱しない事もまた大切な目的なんだ。」
彼女は、その言葉に、しばらく沈黙した。そして、ふと、口元を緩めた。
「今でも十分富豪と呼べるのに、それ以上は稼がないのね。やっぱり変な人ね。」
それは、かつて電話の向こうで聞いた言葉と同じだった。しかし、その響きには、あの頃の困惑や警戒は一切なく、ただ――長い年月を共にした者だけが許される、温かな諦めと親愛が込められていた。彼女は、私の「変な人」という本質を、もう完全に受け入れていた。
「でも、その変な人の考え方、私、好きだよ。」
彼女は、そう言って、そっと私の肩に寄りかかった。その重みが、私の胸に静かに、しかし確かに響いた。彼女の温もりが、私の全身に広がっていく。
「あなたは、未来を知っていても、それに振り回されないんだね。」
「知っているからこそ、選べるんだ。何を取るか、何を取らないかを。」
――それは、私が数十年の人生で学んだことの一つだった。
窓の外で、風が再び木々を揺らした。書庫の中は、相変わらず静かだ。しかし、その静けさは、もはや孤独ではなかった。彼女がいる。それだけで、この空間は、完璧な場所になった。
「じゃあ、あなたは、これからどうするの?」
彼女が、顔を上げて問いかけた。その目は、真剣だった。
「君と一緒に、普通の人生を歩む。それだけだ。」
「普通の人生って、どんなの?」
「朝起きて、コーヒーを飲んで、仕事に行く。週末は、一緒に何かをする。時には喧嘩もする。そして、老いて、一緒に死ぬ。」
「それって、すごく、普通だね。」
「うん。それが、未来の俺が望んでいたものだから――そして、今の俺も、同じものを望んでいる。」
彼女は、その言葉に、静かにうなずいた。そして、もう一度、窓の外を見た。月が、庭の池の水面を銀色に染めている。その光が、彼女の横顔を優しく照らしていた。
「じゃあ、その普通の人生を、一緒に歩もうよ、いつまでも。」
その言葉が、私のすべてを、満たした。
――私は、未来を知っている。しかし、その知識を使わないことを選んだ。彼女と共に、普通の人生を歩むために。
その夜、私たちは書庫で、遅くまで話をした。コーヒーが冷め、暖炉の灰が完全に冷えるまで。未来の話、過去の話、そして――これからの話。彼女は、時折大きな声で笑い、時には真剣な表情で私の話を聞いた。その時間が、私にとって、何よりも大切なものだった。
「ねえ、あなたは、後悔してる?」
彼女が、ふと、言った。彼女は再び肘掛け椅子に戻り、膝を抱えるようにして座っていた。彼女の姿は、かつての少女の面影を残していた。
「何を?」
「未来を知っていることを。知らなければ、もっと楽だったかもしれないのに。」
私は、その言葉に、少しだけ考えた。彼女が欲しがって作った暖炉の前に立ち、冷えた灰を見つめながら。灰は、もう完全に冷え切っていた。しかし、その灰の中に、かすかな温もりが残っているような気がした。
「後悔はしていない。知っているからこそ、君とまた出会い、自分の力で君を守ることができた。そして――」
私は、彼女の方を向いた。彼女の目が、月明かりの中で、静かに私を見つめている。
「――知っているからこそ、普通の人生の尊さを、知ることができた。」
彼女は、その言葉に、少しだけ笑った。それは、ここ数年で何度も見た、穏やかな笑顔だった。その笑顔が、私の胸に、静かに、しかし確かに響いた。
「変な人ね。でも、その変な人と、普通の人生を歩むのは、悪くないかな。」
――それが、私たちの選んだ未来だった。




