■第二十七章:「崩壊、あるいは約束の証明」
一九九一年、バブルは崩壊した。
日経平均株価は二万円を割り込み、地価は下落を始め、多くの企業が倒産の危機に瀕していた。街の空気は一変し、それまでの狂騒が嘘だったかのように、静まり返った。テレビの経済番組では、悲観的な予測が飛び交い、失業の不安が人々を覆っていた。
――私は、この日を待っていた。そして、この日が来ることを、知っていた。
彼女は、大学二年生になっていた。彼女は、私の予言が現実になったことを、目の当たりにした。
「本当に、バブルが崩壊したね。」
彼女は、新聞の経済面を眺めながら、静かに言った。
「ああ。これから、この国は長い停滞期に入る。」
「あなたが言ってた通りだね。」
彼女は、そう言って、私を見た。その目には、驚きと、そして確かな信頼が宿っていた。
「あなたは、本当に未来を見ていたんだね。」
「うん。だからこそ、君を守る準備をしてきた。」
彼女は、その言葉に、少しだけ笑った。
「変な人ね。でも、その変な人が、今の私を守ってくれてる。」
――彼女は、私の真実を完全に受け入れていた。そして、その真実が、彼女の日常に寄り添っていた。
バブル崩壊後、日本は急速に冷え込んだ。
多くの企業が採用を凍結し、新卒者の就職は困難を極めた。彼女の周囲でも、就職活動に苦戦する学生たちが増えていた。
「なんか……先輩が、内定が取れないって言ってた。」
彼女は、食事の席で、そう言った。
「君は、心配しなくていい。」
「うん、分かってる。あなたがいるから。」
彼女は、そう言って、笑った。その笑顔は、かつての「影のある少女」の面影を残しつつも、確かに今の彼女のものだった。
――彼女は、私の妻だった。
私たちは、一九九〇年の秋に正式に結婚していた。彼女が大学二年生になる前のことだ。彼女の両親は、私のことを完全に理解してはいなかったが、娘の幸せを願って、結婚を認めてくれた。
彼女は、私の妻として、大学生活を続けていた。学業に専念できる環境を整え、彼女の学費や生活費は、すべて私が負担していた。それは、彼女が自分の選択に集中できるようにするためだった。
「就職が難しいなら、大学院に進むのもいいかもしれないね。」
私は、ある日、彼女に言った。
「大学院?」
「うん。君が学びたいなら、いつまでも学んでいていい。俺は、君の選択を支える。」
彼女は、その言葉に、少しだけ考え込んだ。
「でも、あなたは、私に何を望んでるの?」
「君が、幸せでいること。それだけだね。」
彼女は、少しだけ首をかしげた。その目には、疑念ではなく——むしろ、理解しがたいものを前にした時の、静かな戸惑いがあった。
「……それだけ?」
「うん。それだけだよ。他に俺が望むことは無いから。俺は……君の幸せを望んでいる。もちろん君と一緒に居たいけど、それで君が幸せじゃないなら、俺は君の前から消えると思うから。」
彼女は、その言葉に、静かにうなずいた。
「そう……ありがとう。でも、私は、あなたと一緒にいるために、何かしたい。あなたが、私のために、すべてを準備してくれたように、私も、あなたのために、何かしたい。」
その言葉は、私の胸に、深く響いた。
――彼女は、私の妻として、自立しようとしていた。それは、彼女なりの成長だった。
バブル崩壊は、日本に長い停滞をもたらした。しかし、私たちにとっては、それはあまり問題ではなかった。私たちは、西神中央の家で、静かで、安定した生活を送っていた。
彼女は、大学を卒業した後、地元の出版社に就職した。それは、彼女が幼い頃から夢見ていた仕事だった。彼女は、その仕事を楽しみながら、私と共に、日常を築いていた。
――私は、彼女が、自分の道を歩いていることを、心から嬉しく思った。それが、彼女の選択であり、彼女の人生だったから。
一九九四年の秋、私は西神中央の家の書庫に立ち、震災の日付を頭の中で反芻していた。
――一九九五年一月十七日。午前五時四十六分。あと、約三か月。
その日が来る前に、私は彼女に、もう一度、すべてを確認した。避難の手順、非常用の持ち出し袋、そして――万が一の時の連絡方法。
「もし、地震が来たら、私は、あなたのそばを離れない。」
彼女は、そう言って、私の手を握った。その手は、温かかった。
「うん。俺は君を守る。」
私は、そう言った。その言葉は、私の本心だった。
――バブルは崩壊した。しかし、私たちの関係は、崩れなかった。むしろ、より強固になった。
愛とは、その人間の自由と幸せをただ祈ることだ。少なくとも私はそう信じている。
それが、私の愛の形だ。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。




