表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
28/33

■ 第二十八章:「震災、守り抜いた約束」

一九九五年一月十七日、午前五時四十六分。


私は、その瞬間を待っていた。


その夜は、特別に冷え込んでいた。窓の外では、澄んだ冬の空に星がまたたいていた。月明かりが、庭の木々を銀色に染め、地面には霜が降りていた。私は、布団の中で、彼女の寝息を聞きながら、じっと時計の針を見つめていた。秒針が、規則正しく動いている。その音が、やけに大きく耳に響く。


あの日、西神中央の家の寝室で、私は彼女の隣に横たわっていた。彼女は、静かな寝息を立てていた。私は、彼女の顔を見つめながら、時計の針がその時刻に近づくのを、静かに数えていた。彼女の髪が、枕の上に広がっている。その一筋一筋を、私は目で追っていた。何度も何度も、彼女の顔を見つめた。彼女のまぶたが、微かに動いている。彼女は、何かの夢を見ているのだろう。私は、その夢を、邪魔したくなかった。


――私は、この瞬間を、何年も待っていた。


この日のために、私はすべてを準備してきた。司法試験も、資産形成も、震災対策も――すべては、この瞬間のためだった。私は、彼女が目を覚ます前に、この揺れをやり過ごすつもりだった。しかし、自然は、私の思い通りにはならなかった。


そして、その時が来た。


最初に感じたのは、低い、地鳴りのような音だった。それは、地下深くから響いてくる、重く鈍い音だった。次に、ゆっくりとした横揺れ。そして――激しい縦揺れが、家全体を揺さぶった。壁が軋み、窓ガラスが震える音が聞こえる。あらかじめ固定してある家具は倒れなかったが、それでもその衝撃は、私の全身に伝わってきた。


彼女が、目を覚ました。


「え? 何? 地震?」


彼女の声は、眠気と緊張が混ざっていた。彼女の目が、大きく見開かれる。その瞳には、一瞬の恐怖が走った。


「大丈夫。ここにいれば、安全だから。」


私は、彼女を抱きしめながら、静かに言った。彼女の身体は、最初は硬直していた。しかし、私の言葉を聞いて、少しだけ力が抜けた。彼女は、私の胸に顔を埋め、小さな声で息を吐いた。


揺れは、さらに強くなった。家具が倒れる音、ガラスの割れる音が、遠くから聞こえてきた。しかし、家は、揺れに耐えていた。免震構造が、その効果を発揮している。私は、その事実に、心の中で安堵した。設計図を何度も何度も確認し、施工会社と何度も打ち合わせを重ねた甲斐があった。


「この家、本当に、地震に強いんだね。」


彼女は、驚きと安堵が混ざった声で言った。彼女の声は、まだ少し震えていたが、さっきよりは落ち着いていた。


「そうだね。君を守るために、作ったから。」


私は、そう言った。彼女は、その言葉に、少しだけ笑った。その笑顔は、緊張の中にあっても、確かにそこにあった。


「変な人ね。でも、その変な人が、今、私を守ってくれてる。」


――その言葉が、私のすべてを、満たした。


震災は、私たちの街を、容赦なく襲った。


揺れが収まった後、私たちは家の地下にある備蓄倉庫に移動した。そこには、食料と水、そして必要な物資がすべて備蓄されていた。彼女は、その光景を見て、言葉を失っていた。彼女は、ゆっくりと周囲を見回し、棚に並べられた缶詰やペットボトルの水、毛布や救急用品を、一つひとつ確かめるように見つめていた。


「これ、全部、準備してたんだね。」


「そうだよ。君のためにね。」


「……ありがとう。」


彼女は、そう言って、私の手を握った。その手は、温かかった。彼女の指が、私の指にしっかりと絡まる。その感触が、私に確かな安心感を与えた。


数時間後、私たちは、自家発電機の作り出す電気を使って、テレビで神戸の街の様子を確認した。画面に映し出されたのは、知っては居たが、想像を絶する光景だった。高速道路は倒れ、家々が倒壊していた。道路は亀裂が入り、あちこちから火の手が上がっていた。煙が、灰色の空に立ち上っている。その下で、人々が助けを求めて走り回っている。サイレンの音が、テレビ越しに聞こえてくる。


彼女は黙ってその映像を見ていた。そして、静かに言った。


「あなたが言ってた通りだったね……」


その声には、恐怖よりも、私への確かな信頼が込められていた。彼女は、私を信じていた。その事実が、私の胸に、深く響いた。


――しかし、西神中央の街は、ほとんど無事だった。


私は、その光景を見て、静かに安堵した。私は、この場所を選んだ。震災の影響が比較的少ないこの地に、家を建てた。それは、未来の記憶に基づいた、冷徹な計算だった。地盤の固さ、断層からの距離、液状化のリスク――それらすべてを考慮した上で、私はこの場所を選んだ。その選択が、正しかったことを、今、目の当たりにしていた。


「西神中央は、ほとんど無事みたいだよ。」


彼女が、言った。その声には、驚きと、そしてわずかな安堵が混ざっていた。


「ああ。ここを選んだのは、予定通り正解だった。」


「あなたは、本当に、全部、計算してたんだね。」


彼女は、そう言って、少しだけ笑った。その笑顔は、かつての「影のある少女」の面影を残しつつも、確かに今の彼女のものだった。彼女は、もうあの頃の少女ではなかった。彼女は、私と共に、この震災を乗り越えたのだ。


私たちは、私用のランドクルーザープラドで彼女の家に向かった。もう一台、彼女のために用意したパオは、今回は使わなかった。道路には、所々に亀裂が入っていたが、通行できないほどの損傷ではなかった。私は、慎重にハンドルを操作しながら、彼女の家へと向かった。


彼女の両親は、無事だった。彼女の家も、倒壊は免れていた。彼女は、その安否を確認し、ほっとした表情を見せた。彼女は、両親と抱き合い、涙をこぼした。私は、その光景を、少し離れた場所から見守っていた。


「お父さん、お母さん、無事でよかった。」


「うん。本当に、よかった。」


私は、そう言った。しかし、その言葉は、心からのものだった。


――私は、彼女の家族を守ることも、準備していた。しかし、それは、彼女に伝えていなかった。彼女に、余計な心配をかけたくなかったからだ。


その後、私たちは、私の両親の家にも向かった。私の両親も、無事だった。私の親戚たちも、全員が無事だった。私は、その安否を確認し、静かに安堵した。彼らは、私が事前に「震災対策」として勧めた補強工事を、面倒くさがりながらも行ってくれていた。そのおかげで、彼らの家も被害を免れていた。


「あなたの家族も、無事でよかったね。」


彼女が、言った。


「わかっていたことだけどね。本当に、よかった。」


――私は、震災のことを、彼女以外には話していなかった。誰にも、信じてもらえないと思ったからだ。しかし、その結果、彼女だけが、私の狂気を共有していた。その事実が、私には少しだけ、特別なものに思えた。


その後、私たちは、避難所の運営に協力した。西神中央は無事だったが、隣の街は大きな被害を受けていた。私は、弁護士としての知識を活かし、被災者の相談に乗った。彼女は、物資の配給を手伝い、被災者たちの話を聞いた。彼女は、黙って被災者の話に耳を傾け、時には一緒に涙を流した。その姿は、かつて誰とも関わろうとしなかった彼女とは、まるで別人のようだった。


「あなた、弁護士として、頼りにされてるね。」


彼女が、言った。その声には、誇らしさが混ざっていた。


「思ってたのと違うけどね。でもこれは、君のためでもある。君のために、弁護士になったんだ。」


「変な人ね。でも、その変な人が、今、たくさんの人を助けてるんだね。私も少し誇らしいかな」


その言葉が、私のすべてを、満たした。彼女が誇らしいということは、幸せであるということだった。それだけで、私は十分だった。


震災から数日後、私たちは西神中央の家に戻った。家は、もちろん無傷だった。私たちは、その家で、静かに、日常を取り戻し始めた。彼女は、台所に立ち、久しぶりに温かい食事を作った。その匂いが、家中に広がる。私は、その匂いを嗅ぎながら、彼女がここにいてくれることの幸せを、噛みしめていた。


「これから、どうなるんだろう?」


彼女が、言った。食卓の向こうで、彼女が箸を持ったまま、窓の外を見つめている。


「復興には、長い時間がかかる。しかし、俺たちは、生き延びた。それで、十分だ。」


「うん。あなたと一緒にいられるなら、それで十分だよ。」


彼女は、そう言って、私の手を握った。その手は、温かかった。


――その日、私は、約束を果たした。彼女を守るという約束を。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ