■ 第二十六章:「崩壊、そして資産の正体」
一九九〇年秋、日本経済は最後の狂騒を極めていた。
街のあちこちで、地面を叩くように「土地が足りない!」と叫ぶ不動産屋の声が響いていた。テレビの経済番組では、キャスターが「このままいけば、東京の地価はアメリカ全体を買える」と笑顔で語っていた。人々は、札束を握りしめながら、次の投資先を探して街を駆け回っている。繁華街では、高級外車を乗り回す若者たちが、煙草の煙を吐き出しながら、夜の街へと消えていった。
日経平均株価は三万円台を維持し、地価は天井知らずに上昇し、誰もが「永遠の繁栄」を信じていた。駅前の書店には、投資指南書が山積みになり、サラリーマンたちは昼休みにこっそりと株価のチェックに励んでいた。銀行の窓口では、融資の申し込みが絶えず、担当者は疲れ果てた顔で書類をさばいている。
――しかし、私は知っていた。この狂騒が、もうすぐ終わることを。
私は、すべての株式を売却する決断を下した。その決断は、冷徹な計算の末に導き出されたものだった。心の中で、何度も何度もシミュレーションを繰り返した。売却のタイミングを逃せば、資産は紙くずと化す。しかし、早すぎれば、さらなる利益を逃すことになる。私は、その狭間を、慎重に、そして確実に歩いた。
それは、私の資産のほとんどを占める、膨大な株式だった。私は、過去数年間、未来の記憶を頼りに、これから急成長する企業の株を買い集めていた。ソニー、トヨタ、任天堂――そして、まだ誰も気づいていない、これから世界を変えるテクノロジー企業の株を。当時はまだ「パソコン通信」という言葉すら一般的ではない時代だった。インターネットという概念は、一部の研究者たちの間でしか語られていなかった。しかし、私は知っていた。これから訪れるデジタル革命を。その知識が、私に確かな収益をもたらしていた。
その総額は、数十億円に達していた。
正確には、約五十三億円。それが、私がバブル崩壊前に現金化した資産の総額だった。株式の売却益に加え、楽曲著作権収入や、それらと比較すると少ないが、家庭教師の収入、そして弁護士としての報酬が、その数字をさらに押し上げていた。私は、証券会社の担当者から「本当によろしいのですか?まだ上がると思いますが」と何度も引き止められた。彼は、私の判断に困惑し、そして不信感を抱いていた。しかし、私はその言葉を無視した。
――私は、この資産をすべて現金化し、安全な形に変換した。
売却が完了した日、私は自分の小さな弁護士事務所に座り、その数字を頭の中で反芻していた。五十三億円。それは、この時代において、驚くべき金額だった。しかし、私にとっては、ただの「彼女を守るための防壁」にすぎなかった。私は、その数字を紙に書き出し、じっくりと眺めた。しかし、そこには何の感動もなかった。ただ、これで彼女を守るための準備が整ったという、冷徹な確信だけがあった。
彼女は、そのことを知らなかった。
ある日、彼女が私の事務所を訪れた。彼女は、机の上に広がった書類を覗き込み、言った。
「これ、何の書類?」
彼女の指が、一枚の書類を軽くつまみ上げる。その仕草は、何気ないものだった。しかし、その書類には、彼女の想像をはるかに超える数字が記されていた。
「これは株式の売却書類だよ。」
「株式? あなた、株をやってたの?」
「うん。少しだけ。」
「少しだけ、にしては、すごい金額だね……」
彼女は、書類に記載された数字を見て、言葉を失った。五十三億円という数字は、彼女の理解を超えていた。彼女は、何度かその数字を指でなぞり、そして顔を上げた。その目は、驚きで見開かれていた。
「これ、全部、あなたのお金なの?」
「うん。」
「どうやって、こんなに?」
彼女の目は、驚きと困惑が混ざっていた。彼女は、私のことを「変わった人」だと思っていたが、まさかこれほどの資産を持っているとは思っていなかったのだろう。彼女の口が、少しだけ開いたまま、固まっている。
「未来のことを、知っているからだよ。どの株が上がるか、どのタイミングで売るべきか、分かっているから。」
私は、静かに言った。それは、真実だった。しかし、彼女は、その言葉を、どう受け止めただろうか。彼女は、未来の知識を使って利益を得るという行為の、倫理的な重みを、まだ理解していなかった。
「未来のことを、知っているって……あの話、本当だったの?」
彼女の声は、震えていた。私は、彼女の目を見て、言った。
「本当だ。俺は、君に言った通り、未来から来た。そして、この崩壊が来る前に、すべてを現金化した。」
「崩壊?」
彼女の声には、まだ現実感がなかった。
「この景気……後々、バブル景気と呼ばれることになる。これは、もうすぐ弾ける。株価は暴落し、地価は下落し、多くの人が、その影響を受ける。俺は、その前に、すべてを売却したんだ。」
彼女は、しばらく沈黙した。その顔は、驚きと困惑と、そして何か――私には測りかねない感情が混ざっていた。彼女の視線は、机の上の書類と、私とを何度も往復していた。やがて、彼女は深く息を吸い込み、そして吐き出した。
「あなた、本当に、未来から来たんだね。」
彼女の声は、ようやく落ち着きを取り戻していた。
「信じたのか?」
「信じるしかないよ。だって、あなたは、震災のことを見てきたかのように言う。それに、このお金も、未来の知識がなければ、こんなに稼げるわけがない。バブル景気っていうのはわからないけど、今のこれは平成景気じゃなくバブル景気と呼ばれるんだね。」
彼女は、少しだけ笑った。それは、納得の笑顔だった。彼女の目に、ようやく落ち着きが戻ってきた。
「変な人ね。でも、あなたが未来から来たなら、これから何が起こるか、教えてくれるの?」
「そうだね、できるだけ教える。でも、すべてを変えることはできない。俺が知っているのは、起こることの一部だけだしね。それに、もし未来を変えすぎれば、何が起こるか分からない。」
「それでも、教えてほしい。」
彼女は、真剣な目で、私を見た。
「私は、あなたと一緒にいる。あなたが見ている未来を、一緒に見たい。」
その言葉は、私の胸に、深く響いた。
――彼女は、私の真実を受け入れた。そして、私と共に、未来を見ることを選んだ。
その夜、私たちは西神中央の家で、今後の計画を話し合った。書庫の暖炉に火が灯され、部屋は柔らかな光と温もりに包まれていた。彼女は、震災の詳細や、バブル崩壊後の経済について、多くの質問をした。私は、知っている限りのことを、すべて話した。
彼女は、私の話を聞きながら、時折うなずき、時折質問を挟んだ。その姿は、かつての「影のある少女」ではなく、自分の未来を真剣に考えている一人の大人の女性だった。
「一九九五年一月十七日。その日が来るまで、私たちは何をすればいいの?」
「ただ準備を続ける。それだけだ。」
「あなたは、本当に、全部、準備してきたんだね。」
「うん。君のためにね。」
彼女は、その言葉に、少しだけ赤くなった。スタンドライトの光が、彼女の横顔を柔らかく照らしている。
「あなたって、変な人ね。でも、その変な人に、私はついていくよ。」
――それは、彼女が私の狂気を完全に受け入れた瞬間だった。
私は、彼女を抱きしめた。その温もりが、私のすべてを満たした。彼女の心臓の鼓動が、私の胸に伝わってくる。それは、確かに生きている証だった。
「ありがとう。」
私は、そう言った。彼女は、静かにうなずいた。
――これで、私はすべてを手に入れた。彼女の信頼を、彼女の未来を、彼女のすべてを。
翌日、私は弁護士事務所で、バブル崩壊後の資産運用計画を練り直した。五十三億円。この資産を、震災後の世界で彼女と共に生きるために、どのように運用するか。私は、デスクに広げた書類を眺めながら、長い時間をかけて計算を続けた。金利、インフレ率、不動産価格の変動――それらすべてを考慮に入れた上で、最も安全で、最も確実な運用方法を選択した。
――それは、私の愛の形だった。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。




