■第二十五章:「日常、しかし過保護の証明」
一九九〇年春になる前、彼女は大学に合格した。
合格通知が届いた日、私は彼女に電話をかけた。
受話器の向こうから聞こえてきた彼女の声は、いつもより少しだけ高く、弾んでいた。彼女の喜びが、電話越しに伝わってくる。それは、何年もの間、彼女が積み重ねてきた努力の結晶だった。私は、その声を聞きながら、自分が彼女の合格を何よりも確信していたことを思い出していた。未来の記憶は、彼女がこの大学に合格することを教えてくれていたからだ。しかし、その知識は、彼女の努力を軽くするものではなかった。
彼女が選んだのは、私と同じ国立大学の文学部だった。合格通知を受け取った日、彼女は私の前で、初めて涙を見せた。それは、嬉しさの涙だった。彼女は、自分の選択が正しかったことを、その涙で証明していた。
「やったよ。合格した」
彼女は、声を震わせながら言った。その目から、涙がこぼれ落ちる。私は、その涙を見て、何も言えなくなった。彼女の努力を知っているだけに、その涙の重みが理解できた。彼女が、どれだけの夜を徹して勉強したのか。どれだけの参考書を読み込んだのか。どれだけの不安と戦いながら、それでも前に進み続けたのか。
「君ならあの大学は簡単だったでしょ?でも、よくやったね。」
私は、そう言って、彼女の頭を撫でた。その仕草は、老人のように自然だった。何十年もの人生を生きてきた手つきで、私は彼女の髪に触れた。彼女は、その仕草に、少しだけ違和感を覚えたようだったが、何も言わなかった。ただ、私の手に、少しだけ身を預けるようにして、うつむいていた。
――彼女は、まだ私のことを完全には信じていない。しかし、それでよかった。時間が、すべてを解決する。私は、そう信じていた。
春、彼女は大学生になった。キャンパスには、新入生たちの華やかな姿があふれていた。桜が満開に咲き誇り、その花びらが風に舞って、道を染めている。彼女も、その中にいた。新品のバッグを持ちながら、初めての講義に向かう彼女の背中は、どこか誇らしげだった。彼女は、何度も振り返っては、私に手を振った。そのたびに、周囲の新入生たちが「あの人、誰?」というような視線を向ける。彼女は、それに気づいているのかいないのか、ただ笑顔を絶やさなかった。
私は、大学の早期卒業プログラムを修了し、学士号を手にしていた。弁護士としての実務も軌道に乗り、私は「若きホープ」として一部で名前が知られるようになっていた。しかし、それらはすべて、彼女のための布石にすぎなかった。世間の評価や名声は、私にとってはただの飾りだった。私の目的は、ただ一つ――彼女を迎え入れるための箱庭を完成させることだけだった。
しかし、私は、彼女のために、もう一つ準備をしていた。
――彼女の大学の近くに、万が一のための彼女用のアパートメントを借りておいた。正確には、住居用のアパートメントではなく、彼女がいつでも休憩できるための空間として設計された、小さな隠れ家のような場所だった。そこには、彼女の好きな本が何冊か並べられ、机の上には新しいノートとペンが置いてある。彼女がもし疲れた時に、誰にも邪魔されずに過ごせるように――そんな配慮が、すべて詰まっていた。
彼女は、その家を見て、驚いた。鍵を渡すと、彼女はしばらくそれを見つめてから、顔を上げた。
「え? ここ、あなたが借りたの?」
「うん。君が大学に通う間、ここを借りておこうと思って。」
「でも、ここ、すごくいいマンションだよ。家賃、高くない?」
彼女の目は、心配そうに揺れていた。彼女は、私が自分のためにどれだけのことをしているのか、まだ理解しきれていなかった。彼女の指が、受け取った鍵のギザギザをなぞっている。その仕草が、無意識のうちに彼女の不安を表していた。
「気にしなくていい。君が安心して通えることが、大事なんだ。」
彼女は、その言葉に、少しだけ首をかしげた。彼女の視線が、部屋の中をゆっくりと巡る。壁に飾られた小さな絵、窓辺に置かれた観葉植物、本棚に並ぶ本の背表紙。一つひとつを確かめるように見つめながら、彼女は言った。
「貴方って本当に変な人ね。でも、ありがとう。」
――彼女は、まだ「変な人」という言葉で、私の行動を片付けていた。しかし、その言葉には、もはや警戒はなく、ただの困惑と、わずかな感謝が混ざっていた。彼女の口元には、ほのかな笑みが浮かんでいた。
しかし、私の「変な行動」は、それだけでは終わらなかった。
彼女の大学入学と同時に、私はトヨタセンチュリーを一台、運転手付きで手配した。黒くて重厚なその車は、彼女を送迎するために、毎朝彼女の家の前に現れた。最初は私を助手席に乗せて。私は、彼女が玄関を出るのを待ちながら、車の中で今日のスケジュールを確認している。朝の光が、車のフロントガラスを通して差し込んでくる。その光の中に、彼女の姿が現れた。
初めてセンチュリーを見た彼女は、目を丸くした。彼女が玄関を出ると、黒塗りの自動車が静かに待っていた。運転手が白い手袋をはめた手でドアを開ける。その光景は、まるで映画のワンシーンのようだった。彼女は、一瞬、その場に立ち尽くし、そして私を見た。
「えーと……これ、何?」
「君の送迎車だよ。君を大学に送っていくための移動手段だね。」
私は車の助手席から降りて、左後部のドアを開けた。彼女は、しばらくその場に立ち尽くしていたが、やがて恐る恐る車に乗り込んだ。シートに座ると、彼女はその感触を確かめるように、ゆっくりと身体を沈めた。
「え? こんなの、いらないよ。私、バスと電車で行けるし。」
「バスや電車は混む。それに、何があるか分からない。君の安全が、何より大事だ。」
「もう……変な人ね。でも、これ、すごく目立つよ。」
彼女は、そう言って、苦笑した。確かに、トヨタセンチュリーは、大学のキャンパスに停まっているには、あまりにも異質だった。周囲の学生たちは、好奇の目でその車を見つめ、彼女が降りてくるたびに、囁き声が聞こえた。
「あの子、誰? すごい車で送ってもらってるよ。」
「お嬢様なのかな?」
彼女は、その噂を気にしているようだった。時々、車の中で「今日もまた見られちゃったよ」と、ため息混じりに言うことがあった。しかし、彼女は私に、そのことを直接言わなかった。彼女は、私が彼女のためにそこまでしていることを知ったら、余計に気を使うだろうと、察していたのかもしれない。
――彼女は、私の過保護を、受け入れていた。それが、彼女なりの優しさだった。
ある日、彼女が言った。
「ねえ、あの話、本当に信じていいの?」
それは、震災の話だった。彼女は、あの日、私が地下の設備を見せてから、ずっとそのことを考えていたようだった。彼女の声には、これまでにない真剣さが混ざっていた。彼女は、私の目を見て、問いかけてきた。その目は、揺れていた。
「君が信じるかどうかは、君の自由だ。ただ、俺は、そのために準備をしている。」
「もし、本当に地震が来るなら、みんなに教えた方がいいんじゃないの?」
「誰も信じない。ジョン・タイターもアメリカ内戦で騒いだけど、何もなかったし、第三次世界大戦も起きなかったよ?未来から来た、って、そんな話をしても、ただの狂人扱いされるだけだ。それに――」
私は、彼女の目を見て、言った。
「――僕が知っているのは、その地震が来るということだけだ。その原因も、防ぎ方も、何も知らない。ただ、来ることを知っているだけだ。」
しくじった、ジョン・タイターが現れるのはインターネットが十分に世界に広がった時代だ。今はインターネットすら無く、軍事用ネットワークのアーパネットがその前身としてひっそりと運用されている程度だ。私は、自分の失言を心の中で呪いながらも、平静を装った。彼女に、余計な混乱を与えたくなかったからだ。
彼女は、しばらく沈黙した。車の窓の外には、春の街並みが流れている。桜の花びらが、風に舞いながら道路に落ちていた。彼女は、その花びらを目で追いながら、何かを考え込んでいるようだった。そして、静かに言った。
「ジョン?タイター?そんな人知らないけど……もし、本当に来るなら、そのときは、あなたをもっと信用できるんでしょうね」
その言葉は、私の胸に、静かに、しかし確かに響いた。彼女は、すべてを信じたわけではない。しかし、少なくとも、私が何かを隠しているのではなく、彼女を守ろうとしているのだということを、感じ取っていたのだ。
――彼女は、まだ信じていない。しかし、信じなくても、私のそばにいることを選んだ。それで、十分だった。
季節は巡り、夏が来た。バブルの狂騒は、まだ続いていたが、その終焉は確実に近づいていた。株式市場は不安定に揺れ動き、金融機関の不動産融資は限界を超えていた。街の空気には、どこか焦燥感が漂い始めている。人々は、まだ気づいていない。この熱狂が、いつまで続くのか。しかし、私は知っていた。
私は、西神中央の家の書庫に立ち、震災の日付を頭の中で反芻していた。書庫の窓からは、夏の日差しが差し込み、床に長い影を落としている。本棚に並ぶ本の背表紙が、その光を受けて、鈍く輝いていた。
――一九九五年一月十七日。午前五時四十六分。あと、約四年半。
その間に、私は彼女にすべてを伝えるべきなのか。それとも、震災が終わるまで、何も言わないままにするべきなのか。彼女は今、大学生としての新しい生活に慣れ始めたばかりだ。友達もでき、サークルにも入り、楽しそうにしている。この前も、彼女は「今日はサークルの先輩たちと飲み会なんだ」と、嬉しそうに話していた。その彼女の日常を、震災という重い現実で壊すべきなのか。
その問いに、私はまだ答えを持っていなかった。しかし、彼女は、震災の話を聞いた後も、私のそばにいることを選んだ。それは、彼女なりの決断だった。彼女は、信じる信じない以前に、私という人間を信じることにしたのだ。その信頼を、私は決して裏切らない。
「俺は……君を、絶対に守る。」
私は、そう呟きながら、窓の外の夏空を見上げた。青い空に、入道雲がもくもくと立ち上っている。その雲の下で、彼女は今日も何かを学び、誰かと話し、そして、おそらく笑っている。その日常を、私は必ず守り抜く。
――それが、私の愛の形だ。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。




