■第二十四章:「震災、選ばれた未来」
彼女が大学受験を控えた冬、私は十七歳の終わりを迎えようとしていた。
窓の外では、冷たい北風が枯れ枝を揺らしていた。この街の冬は、いつもこんなふうに、静かで、そしてどこか厳しい。私は、その冬の始まりの空気を吸い込みながら、彼女と共に歩む未来と、震災という現実の間で、静かに揺れていた。
あの日から、私たちの関係は変わった。彼女は、私が未来から来たという話を、完全には信じていないようだった。しかし、少なくとも、私が「何か特別な事情を抱えている」ことだけは認めていた。彼女は、それ以上は問い詰めず、ただ私のそばにいることを選んだ。
――それが、彼女なりの優しさだった。私は、その優しさに甘えていた。彼女は私の話を半分は冗談として、半分は真実として受け止めているようだった。その絶妙な距離感が、私には救いだった。もし彼女が完全に信じていれば、彼女の日常は壊れてしまう。もし彼女が完全に否定していれば、私は孤独に戻ってしまう。
しかし、私は伝えなければならないことがあった。震災のこと。一九九五年一月十七日、午前五時四十六分。あの日、何が起きるのか。そのすべてを、彼女に伝えなければならない。それは、彼女を守るための最後の鍵だった。
ある日、私たちは西神中央の家の書庫にいた。エアコンの暖房が部屋を柔らかな温もりで包んでいる。彼女は、本棚に並ぶ本を眺めながら、言った。
「あなた、この家の地下に、何かあるんでしょ?」
彼女の声は、どこか確信めいていた。彼女は、私が隠していることを、感じ取っていた。それは、彼女の鋭い直感だった。何年もの間、彼女は誰にも心を開かずに生きてきた。だからこそ、人の隠し事には敏感だったのかもしれない。
「うん、あるよ……見せようか?」
私は、彼女を地下へと案内した。階段を下りるたびに、空気が少しずつ冷たくなっていく。コンクリートの壁には、手すりがしっかりと取り付けられ、足元は滑りにくい素材で覆われている。すべては、万が一の時のために設計されていた。
そこには、震災に備えたすべての設備が整っていた。免震構造の基礎、都市ガスとプロパンガスのハイブリッドシステム、雨水浄化設備、非常用発電機、そして――貯水タンクと食料備蓄庫。壁には、非常用の懐中電灯やラジオ、救急用品が整然と並べられている。
彼女は、その光景に、言葉を失っていた。口を開けたまま、ゆっくりと周囲を見回す。その目には、驚きと困惑が混ざっていた。
「これ、全部、何のため?」
「震災に備えてるんだ。」
「震災?」
彼女の声には、まだ理解が追いついていない様子があった。
「うん……一九九五年一月十七日。午前五時四十六分。淡路島と明石から神戸、大阪くらいまでは、大きな地震に襲われる。」
私は、すべてを話した。阪神淡路大震災のことを。どのくらいの規模で、何が壊れ、誰が犠牲になったのか。そのすべてを。高速道路が倒れ、家々が崩れ落ち、火の手が街を包んだこと。多くの人が、一瞬のうちに日常を失ったこと。そして――その中で、どれだけの命が失われたのか。
彼女は、黙って聞いていた。その顔は、驚きと恐怖と、そして何か――私には測りかねない感情が混ざっていた。彼女の手が、わずかに震えている。私は、その震えを見て、自分の言葉が彼女に与えた重みを実感した。
「そんなこと、本当に起こるの?」
彼女の声は、かすれていた。
「起こる。俺は、いや……私はそれを知っている。」
私は意図的に一人称を変えた。今の俺ではなく、未来の私として、その言葉に責任を与えるために。
「それなら、どうすればいいの?」
彼女の目は、真剣だった。恐怖の中にも、彼女は現実を受け入れようとしていた。
「この家にいれば、大丈夫。この家は、震災を乗り越えるように設計してある。」
私は、地下の設備を一つ一つ指さしながら説明した。免震構造がどのように揺れを吸収するのか、備蓄品がどれくらいの期間持つのか、発電機がどのように作動するのか。彼女は、黙ってうなずきながら、私の言葉を聞いていた。
彼女は、しばらく沈黙した。暖炉の火が、地上で静かに燃え続けている。地下にも、温風が循環するようになっており、寒さは感じなかった。そして、静かに言った。
「あなたは、それを知っていて、ずっと準備してきたの?」
「うん。君を守るために。君という俺の大切なたった一人にだけは不自由をさせないためにね」
彼女は、その言葉を聞いて、何かを考え込むように、うつむいた。その横顔は、かつて小学三年生の教室で見たあの日と同じように、静かで、そしてどこか遠くを見つめているようだった。しかし、今は、あの時とは違う。彼女は、私の存在を、その視界の端に捉えている。
そして、顔を上げたとき、その目には、決意が宿っていた。
「じゃあ……私も、あなたと一緒に、準備する。何から始めようか?」
その言葉は、私の胸に、深く響いた。彼女は、私の狂気を受け入れた。それだけではない。彼女は、私と共に、未来を生きることを選んだ。それは、彼女自身の意志だった。彼女は、私に操られたのではなく、自分の判断で、その決断を下したのだ。
――彼女は、私の狂気を受け入れた。それだけではない。彼女は、私と共に、未来を生きることを選んだ。
それから、私たちは震災に向けた準備を、さらに進めた。彼女は、家の備蓄品を確認し、非常用の持ち出し袋を準備した。彼女は、避難訓練のシミュレーションを何度も行い、万が一の時の行動を覚えた。ただし、この家に居る限り、それは杞憂に終わるだろう。それでも、彼女は真剣に取り組んでいた。
「もし、本当に地震が来たら、私は、あなたのそばを離れない。この家から出ない」
彼女は、そう言って、私の手を握った。その手は、温かかった。彼女の指が、私の指に絡まる。その感触が、私の心臓を高鳴らせた。
「うん……ありがとう。」
私は、それだけ言った。
しかし、同時に、私は彼女に伝えていなかったことがあった。震災の後、この神戸という街がどうなるのか。どれほどの時間が、復興に必要だったのか。そして――彼女の両親が、どうなるのか。そのすべては、まだ話していなかった。
――彼女は、知るべきだ。しかし、知ったとき、彼女はどれほどの衝撃を受けるだろうか。
その問いに、私はまだ答えを持っていなかった。
季節はさらに進み、真冬が来た。彼女の大学受験まで、あとひと月。彼女は、受験勉強に励みながらも、毎週のように家を訪れ、数年後に来る震災のための準備を手伝っていた。彼女の姿を見るたびに、私は思う。この日常が、あの震災によって壊されるのだと。しかし、その日常を守るために、私はすべてを賭けているのだと。
「ねえ、もし地震が来たら、この家は本当に大丈夫なの?」
彼女が、何度目かの同じ質問を繰り返した。
「大丈夫。設計段階から、すべてを計算してある。」
「あなた、本当に全部、計算してるんだね。もう怖くはないけど、不思議な人だよ」
彼女は、そう言って、少しだけ笑った。
「本当に変な人ね。でも、その変なところが、私には安心できる。」
――彼女は、私の狂気を、もう「変な人」という言葉で片付けていた。しかし、その言葉には、もはや警戒はなく、ただの親愛が込められていた。私は、その言葉に、救われていた。
冬が深まり、新年を迎えた。一九九〇年。バブルはまだ続いていたが、その終焉は確実に近づいていた。私は、彼女と共に、新しい年を迎えた。除夜の鐘が、遠くから聞こえてくる。彼女は、私の隣で、静かにその音を聞いていた。
「今年は、受験や入学があるから、忙しくなるよ。」
彼女は、そう言って、笑った。
「でも、あなたがそばにいてくれるなら、大丈夫。」
その言葉が、私のすべてを、満たした。
――私は、彼女を守る。震災からも、未来の不確かさからも、すべてから。それが、私の愛の形だ。
翌日、私は弁護士事務所で、バブル崩壊後の資産運用計画を練り直していた。バブルが弾ければ、多くの資産が価値を失う。しかし、その後に来る「失われた時代」の中で、彼女と共に生きるための基盤は、すでに整っている。私は、デスクの上に広げた書類を見つめながら、すべてが予定通りに進んでいることを確認した。
――あとは、彼女が、私と共にいることを選び続けるかどうかだけだ。
彼女は、震災の話を聞いた後も、私のそばにいることを選んだ。それは、彼女なりの決断だった。私は、その決断を、決して裏切らない。
「俺は……君を、必ず守る。絶対にだ」
私は、そう呟きながら、窓の外の冬空を見上げた。一九九五年一月十七日まで、あと五年。その日が来る前に、私は、彼女にすべてを伝える。そして、彼女と共に、その日を乗り越える。
――それが、私の愛の形だ。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。




