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■ 第二十三章:「真実、そして最初の一片」

彼女が高校三年生の夏を迎えていた。


蝉の声が街を包み、陽射しは容赦なくアスファルトを照りつけていた。蝉たちは、短い命を燃やすように、朝から晩まで鳴き続けている。窓を開ければ、熱風と共にその喧騒が流れ込んできた。だが、私の知っている未来程は暑くはない。やはりあの頃の地球は悲鳴を上げて、それを作り出した人類に牙を向いていたのだろう。未来の記憶の中にある灼熱の夏と比べれば、今の暑さはまだ「夏らしい夏」の域を出ていない。それが、なぜか私には奇妙な安堵をもたらした。


私は十七歳。大学の早期卒業プログラムは最終段階に入り、意識的に遅くした学士号取得まであと半年を切っていた。弁護士としての実務も軌道に乗り、西神中央の家は完全に完成していた。あの震災に備えた地下の設備も、書庫も、すべてが整っていた。


――すべての準備は整っていた。あとは、彼女にどのように伝えるかだけだった。


彼女は、受験勉強に励んでいた。机の上には参考書が山積みになり、彼女の部屋の電気は深夜までともっていた。彼女が選んだのは、私が通っているのと同じ国立大学の文学部だった。彼女は、私に「同じ大学に行きたい」と言った。その言葉は、私の胸を温かく、そして同時に冷たくした。


――彼女は、私と一緒にいたいと思っている。しかし、その決断が、彼女自身の選択であることを、私は確かめなければならなかった。彼女の人生は彼女自身のものだ。私が未来の知識を使って彼女を導くことはできても、彼女の意志を無視してはならない。その線引きは、いつも私の頭の片隅にあった。


「本当に、ここでいいのか? 君の行きたい場所は、他にもあるかもしれない。東京や大阪の大学とかは考えてないのか?」


私は、そう問いかけた。彼女は、少しだけ首をかしげて、言った。


「うん、あなたがいる場所が、私の居たい場所だよ。」


その言葉は、あまりにも単純で、あまりにも純粋だった。私は、その純粋さに、自分の歪さを自覚した。彼女は私を肯定してくれている。彼女は私の傍に居たいと言っている。その言葉はどのくらい私の心を救うのか、恐らく彼女はまだ知らない。何十年もの間、私は彼女のいない世界を生きてきた。その空虚を埋めるために、幾度となく他人の手を握り、それでも満たされなかった。彼女のその一言が、そのすべてを一瞬で塗り替えてしまう。


――彼女は、私が何者かを知らない。私が未来から来たこと、彼女のために人生を生き直していること、彼女を何十年も想い続けてきたことを知らない。彼女は、ただ「好きな人」がいるから、その場所を選んだ。それが、私にとっては救いであり、同時に後ろめたさでもあった。


しかし、私は、その選択が、彼女にとって最善であることを願った。彼女が後悔しない未来を、私は必ず用意する。そう心に決めて、私は言葉を紡いだ。


「ありがとう。」私は、それだけ言った。それ以上は、何も言えなかった。


ある日、私たちは彼女の家で夕食を共にした。彼女の母親は、私の訪問をいつものように温かく迎え、父親も、穏やかな表情でうなずいた。食卓には、彼女の母親特製の煮物や、季節の野菜を使ったサラダが並べられていた。その家庭的な温かさが、なぜか胸に沁みた。


食後、私は静かに口を開いた。食器を片付ける音が遠くから聞こえる中で、私の声は妙に大きく響いた。


「お二人に、お話ししたいことがあります。」


彼女の両親は、互いに目を交わし、そして私を見た。彼女もまた、何かを感じ取ったように、真剣な表情で私を見つめていた。食卓の上には、まだ湯気の立つお茶が置かれている。私は、その湯気を見つめながら、言葉を続ける決心をした。


「実は、私は、法律の勉強をしている研究生だとお伝えしていましたが、それは正確ではありません。」


私は、深呼吸をした。この瞬間が、来るべきだった。これまでのすべての仮面は、このためにあった。私は、逃げるわけにはいかなかった。彼女を、私の人生に迎え入れるためには、この真実を乗り越えなければならない。


「私は、既に司法試験に合格し、弁護士として登録しています。大学も、特別なプログラムで早期卒業が決まっています。そして――」


私は、カバンの中に入れていた書類を取り出した。それは、私の弁護士登録証と、大学の卒業見込み証明書だった。紙の端が、緊張で少しだけ震えている。


「――私は、十分な資産を築いています。彼女が大学に進学しても、学業に専念できるだけの環境を、既に整えています。」


彼女の母親は、驚いたように口を開けた。父親は、目を細めて、私の言葉を吟味するように聞いていた。彼女も、驚きと困惑が入り混じった表情を見せていた。誰も、何も言わない。居間には、沈黙だけが流れていた。


「……君は、一体……」


父親が、低い声で言った。その声には、困惑と、そしてわずかな警戒が混ざっていた。


「私は、彼女を、一生大切にしたいと思っています。お二人に、お願いがあります。私と、彼女を結婚させてください。」


その言葉が、静まり返った部屋に響いた。秒針の音が、やけに大きく耳に届く。私は、自分がこの言葉を口にした瞬間の重さを、全身で感じていた。


沈黙。長い沈黙が流れた。彼女の母親は、目を潤ませながら、彼女を見た。彼女は、驚きと戸惑いと、そして何か――私には測りかねない感情を抱えて、うつむいていた。彼女は、何かを考え込むように、両手を膝の上で握りしめていた。


父親が、重い口を開いた。


「一体……君は、何者なんだ?」


その問いは、核心を突いていた。私は、その問いに、どう答えるべきか、考えた。真実を伝えることは、あまりにも唐突で、理解されないかもしれない。しかし、私は、もう隠すことをやめようと思っていた。彼女の両親も、彼女の人生の一部だ。彼らを欺き続けることは、私の誠実さを損なう。


「お話しするには、長い話です。しかし、私は、彼女のことを、何十年も想い続けてきました。この人生を、彼女と共に過ごすために、やり直しているのです。」


それは、真実だった。しかし、その真実は、あまりにも狂気的だった。彼女の両親は、その言葉を、どう受け止めただろうか。彼らは、私を狂人として追い出すだろうか。それとも、信じられない話として、一笑に付すだろうか。


「ん?……何十年? 君は、まだ十代だろう。」


父親の声には、困惑が混じっていた。彼の眉が、わずかにひそめられている。


「はい……そうです。おかしな話です。しかし、私は、彼女のことを、それ以上に長く知っています。それは、説明できないことです。しかし、私は、彼女を決して傷つけません。そのことを、神に誓う代わりに──自分自身の全身全霊をかけて誓います。」


私は、彼女を見た。彼女は、まだうつむいていた。しかし、その耳は、私の言葉をしっかりと受け止めているようだった。彼女の肩が、微かに震えている。その震えが、不安なのか、それとも別の感情なのか、私には判断できなかった。


「私は、彼女を、誰よりも大切にします。彼女が望むなら、彼女の夢を、彼女の選択を、すべて支えます。お二人の娘さんを、私にください。」


その言葉が、部屋の空気を変えた。緊張が、少しだけ和らいだような気がした。彼女の母親が、そっと彼女の肩に手を置いた。彼女は、ゆっくりと顔を上げた。その目には、決意の光が宿っていた。


「お父さん、お母さん。」彼女の声は、震えていた。「私は、彼と、一緒にいたい。」


その言葉は、私の胸を、静かに、しかし確かに満たした。彼女が、自分の口でそう言ってくれた。それだけで、私は何も怖くなかった。彼女の父親は、長い沈黙の後、静かに言った。


「そうか……君のことは、まだよく分からない。だが、娘がそう言うなら、信じてみよう。」その言葉が、許しだった。


私は、深く頭を下げた。「ありがとうございます。」それだけが、やっとの思いで出た言葉だった。


後日、私は彼女と二人で、西神中央の家を訪れた。彼女は、初めて完成した家の全貌を見て、言葉を失っていた。玄関をくぐり、広いリビングを見渡した瞬間、彼女は立ち止まり、何か確かめるように、ゆっくりと周囲を見回した。


「これ、全部、あなたの家なの?」


「将来の君の家でもあるよ。」


私は、そう言った。彼女は、その言葉に、少しだけ赤くなった。


「そうだ、住み込みの家政婦さんも、紹介するよ。君が学業に専念できるように、家事は任せられるように手配したんだ」


「え?……家政婦さん? そんなの、いらないよ。」


彼女は、驚いたように言った。本当に驚いているようだった。彼女の世界には、家政婦などという存在は、縁のないものだったのだろう。


「君が大学に行っている間、俺にも仕事がある。二人で家事をする時間が限られるなら、頼んだ方がいい。俺のためでも、そして君のためでもあるからね。」


彼女は、少しだけ考え込んで、そして言った。


「あなた、本当に、全部、準備してるんだね。」


「うん。君のために、全部、準備してきた。」


「本当に……私が思っている以上に……変な人なのね。」


彼女は、そう言って、笑った。しかし、その笑顔は、かつての「影のある少女」の面影を残しつつも、確かに今の彼女のものだった。あの日、窓辺で誰とも話さずにいた少女は、今、私の目の前で笑っている。その事実が、私には奇跡のように思えた。


――私は、彼女に、すべてを伝える時が来た。


「あと、君に話さなければならないことがある。」


私は、静かに口を開いた。彼女は、その真剣な口調に、言葉を待った。彼女の目が、静かに私を見つめる。


「理解できないかもしれないけど、俺は、未来から来た。数十年後の未来から。」


彼女は、その言葉に、戸惑いの表情を見せた。当然のことだった。誰もが、突然そんなことを言われれば、戸惑う。しかし、彼女は私から逃げなかった。彼女は、その場に立ち、私の言葉を待っていた。


「未来?……何を言ってるの?」


「本当の事だ。俺……僕……いや、私は、君と同じ小学校で、君と出会った。そして、君を想い続けて、死んだ。死んだはずだった。しかし、気が付いたら、中学生に戻っていた。君に会うために。」


彼女の目が、不安そうに揺れた。私は、その揺れを見逃さなかった。しかし、それでも私は続けた。隠し続けることの方が、彼女を裏切ることになる。


「嘘でしょ?……そんなこと、信じられない。」


「うん、そうだね。信じられなくてもいい。しかし、これが、俺の真実だから。」


私は、彼女の目を見て、静かに言った。


「俺は、君を何十年も想い続けてきた。そして、今度こそ、君と共に生きるために、ここにいる。」


彼女は、しばらく沈黙した。時間が、ゆっくりと流れていた。風が窓を叩く音が、遠くから聞こえる。そして、静かに言った。


「朝倉君は変なことを平気で言う、変な人ね。でも、あなたがそう言うなら――」


彼女は、少しだけ間を置いた。その間が、永遠のように長く感じられた。


「――その話、もっと聞かせてよ。」


――それは、彼女が私の狂気を受け入れようとした、最初の一歩だった。


私は、彼女に、すべてを話した。未来の記憶、震災のこと、彼女のために資産を築いたこと、司法試験に合格したこと、すべてを。最初は、彼女は驚きと困惑を隠せなかった。しかし、話を聞くうちに、彼女の表情は次第に落ち着きを取り戻していった。


彼女は、すべてを聞いた後、言った。


「信じられない話だけど、あなたが、私のために、そんなことをしてきたっていうなら――」


彼女は、私の手を握った。その手は、少しだけ冷たかった。しかし、確かにそこにあった。


「――私も、あなたと一緒にいることにするよ。楽に生きられるからじゃないよ?幸せになるためにね」


その言葉が、私のすべてを、満たした。


――これで、私は、すべてを手に入れた。彼女と共に生きる未来を。


それが、私の愛の形だ。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。




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