■ 第二十二章:「進路、あるいは未来への一歩」
彼女が高校二年生の秋を迎えていた。
街路では、イチョウ並木が金色に色づき始め、風が吹くたびに葉がひらひらと舞い落ちていた。あの暑かった夏の日差しはすっかり影を潜め、空気にはどこか寂しげな涼しさが混じり始めている。季節は確かに、次の段階へと移ろうとしていた。
私は十七歳になっていた。大学の早期卒業プログラムは順調に進み、学士号取得まであと一年もかからないはずだ。しかし、私は速度を下げ始めていた。中学一年生の頃、最初に考えていた「大学卒業後に就職する」という目標は弁護士資格によって塗り替えられていたからだ。司法試験に合格し、弁護士登録を済ませた私は、独立し、小さな事務所を構え、実務をこなしながら、大学の授業も並行して受けているという、尋常ならざる日々を送っていた。
――表の顔は「司法試験を目指す研究生」。裏の顔は「現役の弁護士」。その二重生活は、すでに私の日常となっていた。
机の上には、今週処理すべき案件の書類が山積みになっている。その合間に、大学のレポート課題用の参考文献が几帳面に積まれていた。私は、その書類の山を一瞥しながら、ふと、自分の生活がどれほど異常なものになっているかを自覚する。同年代の若者たちが、恋愛や遊びや将来への漠然とした不安に時間を費やしている頃、私は法律の条文と向き合い、未来の災害に備え、そして――たった一人の少女のことを考え続けている。
しかし、私の目は、もう一つの大きな動きを注視していた。
――バブル経済の絶頂と、その先にある崩壊。
日本中が狂乱的な熱狂に酔いしれ、地価は天井知らずに上昇し、誰もが「永遠の繁栄」を信じていた。テレビのニュースでは、連日のように資産運用の成功談が報じられ、街のあちこちで地面を叩きながら「土地が足りない!」と叫ぶ不動産屋の姿が見られた。私の目の前で、時代は確実に狂い始めていた。
しかし、私は知っている。この狂騒が、やがて終わりを迎えることを。バブルは弾け、日本は長い停滞期に突入する。多くの人が夢を見ていたあの黄金の日々は、あっけなく崩壊し、失われた十年や二十年あるいは三十年と呼ばれる時代が訪れる。私はその先の未来も見ている――インターネットの普及、グローバル化、そしてそれに伴う光と影を。
――私は、その崩壊を待っていた。そして、その後に来る「失われた時代」を、彼女と共に生き延びるために、すべての準備を整えていた。
彼女との関係は、順調だった。電話はほぼ毎日、デートは週に一度。彼女の両親も、私を「研究生」として受け入れており、時には食事に招かれることもあった。彼女の母親は、私に「あなたはしっかりしているから、娘を任せられる」と言い、父親も、黙ってうなずくようになっていた。
それは、私にとって驚くべきことだった。かつての人生で、彼女の両親と向き合うことなど、一度もなかったのだから。彼らは、私が「研究生」という仮面を被っているとはいえ、娘を預けてもいいと思える存在として、私を受け入れてくれた。その事実が、私の胸にじわじわと温かいものを広げていく。
――私は、かつての人生で手に入れられなかった「普通の日常」を、手に入れつつあった。それは、私にとって、想像以上の幸福だった。
ある日、彼女が言った。
「ねえ、私、大学に行くかどうか、迷ってるんだ。」
それは、彼女が初めて見せた「将来への迷い」だった。彼女は、幼い頃から頭が良く、高校も進学校であるため、相応の大学に進みたいと言っていた。しかし、実際に進路を決める段階になると、その決断の重さに戸惑っているようだった。私は、彼女の声の端々に、珍しい曇りを感じ取った。
「……どうして?」
私は、できるだけ優しい口調で問いかけた。
「だって、もし大学に行ったら、この街を離れなきゃいけないかもしれないでしょ? そうしたら、あなたに会えなくなる。」
その言葉は、私の胸を、温かく、そして冷たく、同時に貫いた。彼女は、私のために、自分の進路を狭めようとしている。その純粋な思いやりに、心が締め付けられる一方で、私は彼女にそんな選択をさせてはいけないという強い決意も湧き上がった。
――彼女は、私のために、この街に留まりたいと思っている。しかし、私は彼女に、自分の選択をしてほしい。彼女が私を選ぶなら、それは「私を選ぶ」という自由意志であってほしい。強制や罪悪感からではない、彼女自身の意思で。
「……君が行きたいと思った場所に行けばいい。僕は、君がどこに行っても、追いかけるから。」
私は、そう言った。それは、真実だった。彼女がどこに行こうと、私は彼女の後を追う。いや、むしろ、彼女の行く先に、すでに私は準備をしている。どこにでも行けるように、すべてを整えてある。関東であれ、関西であれ、あるいは海外であれ――私は彼女の隣に立つための手段を、すでに確保しているのだ。
「何言ってるの?やっぱり変な人ね。でも、それ、すごく安心する。」
彼女は、そう言って、少しだけ笑った。その笑顔は、かつての「影のある少女」の面影を残しつつも、確かに今の彼女のものだった。あの頃の彼女は、誰にも心を開かず、ただ窓の外を見つめていた。しかし今、彼女は私の前で笑い、そして――私に安心を伝えてくれる。
「……でもね、まだ迷ってるのも事実なんだ。」
彼女は、うつむきながら、続けた。その声は、先ほどよりも少しだけ小さくなっていた。
「大学の文学部に行きたい気持ちはある。でも、本当にそれで食べていけるのか、不安もあるし。それに、もし行ったとしても、本当に自分に合ってるかどうか、分からないし……」
――彼女は、自分の将来に対して、真剣に向き合っていた。それは、彼女が大人になろうとしている証拠だった。かつての彼女は、どこか諦めのようなものを抱えて生きていたように思う。しかし今は違う。彼女は、自分の人生を自分で選び取ろうとしている。その変化が、私はただただ愛おしかった。
私は、彼女に言った。
「そうだね……うん、大学は選択肢を広げる場所だよ。君がそこで何を学び、何を感じるかは、君次第だ。でも、少なくとも、そこで『違う』と感じたら、また別の道を選べばいい。人生は、一つに決める必要はない。」
それは、私が数十年の人生で学んだことの一つだった。人生は、一つの選択で決まるわけではない。選択肢は、常に次に開かれている。私自身、一度の失敗で全てを失ったと思ったこともあったが、それは違った。人生は、思っているよりもずっと柔軟で、許容的だ。
「……あなたは、そういうこと、いつも冷静に言えるんだね。」
彼女は、少し驚いたように言った。
「……君が迷っているなら、一緒に考えよう。僕は、君の選択を、最後まで応援するから。」
その言葉は、偽りではなかった。私は、彼女のために、すべてを準備している。彼女がどのような選択をしても、その選択が彼女にとって最善であるように、私はすでに動いている。それでもなお、彼女が迷うのであれば、私はその迷いの間にも寄り添うつもりでいた。
「うん、ありがとう。」
彼女は、そう言って、静かにうなずいた。
――彼女は、まだ私の正体を知らない。私が弁護士であること、資産家であること、そして未来を知っていることを。彼女は、ただ「ちょっと変わった恋人」として、私の言葉を受け止めている。
しかし、それでよかった。今は、彼女が自分の道を選ぶことが、何よりも大切だった。彼女がいつか私の真実を知ったとき、その選択が彼女自身のものであったという事実が、彼女の支えになるはずだ。
季節はさらに進み、冬が来た。街は、クリスマスのイルミネーションで華やかに飾られ、人々の息が白く染まる季節になった。彼女は、文学部への進学を決めた。そして、地元の国立大学の文学部を目指して、勉強を始めた。
「決めたよ。やっぱり、私は本が好きだから、文学部に行く。」
彼女は、晴れやかな表情で言った。その目には、迷いはなかった。それは、彼女が自分の内なる声に真剣に向き合った末に出した結論だった。
「そうなんだ。それは、良かった。」
私は、心からそう思った。彼女が自分の意志で選んだ道を、私は祝福した。彼女の選択に、私は一切の干渉を加えていない。それだけで、私は自分自身にも少しだけ胸を張れる気がした。
「でもね、もし合格したら、あなたはどこにいるの?」
彼女の問いは、核心を突いていた。私は、まだ彼女に自分の正体を明かしていない。私は、彼女が大学に行く頃には、すでに弁護士としてのキャリアを確立している。しかし、それを言うわけにはいかない。だが、逆に考えると、士業というものは何処ででも出来る便利な職業でもある。弁護士の資格は、場所を選ばない。私は、彼女の行く先に合わせて、いつでも事務所を移せる。
「僕は、どこかにいるよ。君がいる場所に、必ず。」
それは、真実だった。私は、彼女のそばにいる。彼女がどこにいても、私は彼女のそばにいる。そのための準備は、もうとうに整っている。
「仕事を変えても私を追いかけるの?やっぱり変な人ね。でも、それ、信じるよ。」
彼女は、そう言って、笑った。
――その笑顔が、私のすべてだった。
その後、私は使わないかもしれなくなる、西神中央の家の書庫に立ち、震災の日付を頭の中で反芻していた。
――一九九五年一月十七日。午前五時四十六分。あと、ほんの数年。
その間に、私は彼女にすべてを伝えるべきなのか。それとも、震災が終わるまで、何も言わないままにするべきなのか。その問いは、私の頭の中で何度も何度も繰り返された。彼女は今、未来への希望に満ちている。その彼女の光を、震災という現実で曇らせるべきなのか。それとも、備えさせるために、あえてその闇を見せるべきなのか。
その問いに、私はまだ答えを持っていなかった。しかし、彼女が自分の道を選んだ今、私はもう一つだけ確信していた。
――私は、彼女の選択を、最後まで守る。たとえその選択が、震災という現実に直面した後で変わったとしても。私は彼女の隣に立ち、彼女が選んだ未来を、最後まで支え続ける。それが、私の愛の形だ。
書庫の窓から差し込む冬の日差しが、床に長い影を落としていた。私は、その光の中で、そっと目を閉じた。
彼女が選んだ未来。その未来に、私は必ず立っている。それだけが、私の唯一の願いだった。




