■第二十章:「両親、あるいは最初の壁」
五度目のデートは、私が電話したときに、彼女から誘われた。
「今度、うちに来ない? 母が、私に電話をしてくる『少し変わった昔の同級生』に会いたいって言ってて。」
電話の向こうで、彼女は少し照れくさそうに言った。その声には、前回よりも確かに親しみが増していた。彼女は、私を「変わった同級生」から「付き合う約束をした、ちょっと気になる存在」へと、少しずつ位置づけを変えつつあった。
私は、一瞬、言葉を失った。
――彼女の家。彼女の両親。
それは、私がこれまで計算してきた計画の外側にある、予期せぬ壁だった。私は、彼女との関係を築くことには成功した。しかし、その関係を「家族」という単位で認められるためには、周到に準備を行っていた別の戦略が必要だった。
私は、自分の正体を思い浮かべた。
弁護士。大学生。資産家。未来人。K.S.
これらの肩書きのどれも、彼女の両親に明かすことはできない。特に「大学生」という肩書きは、彼女と同じ年でありながら大学に通うという、説明がつかない異常性を含んでいる。もし明かせば、彼らは私を「異質な存在」として警戒するだろう。彼らが知るべきなのは、ただの「娘の友達」としての私だけだ。
――私は、仮面を被る。完璧に、徹底的に。
私は、自分の身分をどう説明するか、事前に綿密にシナリオを組み立てていた。
――「私は、地元の国立大学で研究生をしています。法律を勉強しています。高校は中退しましたが、学びたいことがあって、特別に許可をいただいて研究室に通わせてもらっています。」
これは、真実ではない。しかし、完全な嘘でもない。私は確かに大学に通っており、経営として法律を学んでいる。ただし、その「大学」が飛び級であり、私はすでに弁護士として登録しているという事実は、もちろん言わない。
「研究生」という立場は、正式な学生ではないため、年齢の不自然さを説明しやすい。また、「学問に励む真面目な若者」という印象を与えられる。高校を中退しているという部分は少しマイナスだが、それを「学びたいことがあった」という前向きな理由で覆せば、両親に「情熱のある若者」として映るはずだ。
――少なくとも、そう信じたかった。
約束の日、私は彼女の家の前で、深呼吸をした。彼女の家は、彼女の性格を映すように、清潔な一軒家だった。庭には小さな花のプランターがあり、手入れが行き届いていることが伝わってくる。
インターホンを押すと、彼女が出てきた。彼女は、少しだけ緊張した笑顔を見せた。
「どうぞ、入って。」
私は、靴を脱ぎ、彼女に促されるままにリビングへと通された。そこには、彼女の母親と父親が待っていた。
母親は、優しそうな目をした、普通の主婦だった。父親は、やや厳しげな表情をしているが、どこか温かみのある中年男性だった。私は、彼らを見た瞬間、自分が何をすべきかを理解した。
――私は、彼らにとって「危険な存在」であってはならない。私は、「信頼できる若者」でなければならない。
「こんにちは。突然お邪魔してすみません。」
私は、最も標準的な挨拶を、最も標準的な笑顔で述べた。それは、数十年の人生で培った「仮面の技術」の結晶だった。
彼女の母親は、微笑みながら言った。
「いえいえ、娘がいつもお世話になってるって言ってますからね。あなたが、あの……小学校の時の?」
正確には小学校の時だけではない、中学でも同じ学校だった。私は、その質問に一瞬だけ過去を反芻し、そして口を開いた。
「はい。同じクラスだったんです。ずっと覚えていて、最近ようやく連絡を取り始めたんです。」
私は、そう言いながら、彼女の方を一瞥した。彼女は、少し赤くなって、うつむいていた。
「まあまあ、そうなんだ。それで、今は何をしてるの?」
母親の質問は、当然のものだった。
――ここが、最初の関門だ。
私は、用意していたシナリオを、冷静に、そして自然に口にした。
「地元の国立大学で、研究生として法律を勉強させてもらっています。高校は中退したんですが、どうしても法律を学びたくて、特別に許可をいただいて研究室に通っています。」
母親は、少し驚いた表情を見せた。
「えーと……研究生? 高校を中退して、大学で勉強してるの?」
「はい。学校のカリキュラムよりも、自分で学ぶ方が合っていると感じたんです。今は、民法と憲法を中心に勉強しています。将来は、人の役に立てる仕事ができたらと思っています。」
それは、真実だった。私は、彼女のために、法律を学び弁護士となった。彼女のために金を稼ぎ、彼女のために、人の役に立つ仕事を選んだ。
「ふむ、高校中退か。でも、学びたいという熱意があるのは、いいことだな。」
父親が、初めて口を開いた。その声は、少し低く、どこか試すような響きがあった。
「ただ、研究生というのは、いつまでも続けられるものじゃないだろう? 将来のことは、ちゃんと考えているのか?」
――父親は、核心を突いてきた。
私は、その質問を予期していた。事前に準備していた答えを、冷静に紡ぐ。
「はい。研究生としての期間は、あと一年ほどです。その後は、司法試験を受けるつもりです。合格すれば、弁護士として働くことができます。もし、難しいようであれば、別の道を考えますが――今は、この道に集中したいと思っています。」
それは、真実だった。私は、すでに司法試験に合格し、弁護士として日本弁護士連合会に弁護士登録している。そして所属する弁護士会へ入会も果たしている。
しかし、それを言うわけにはいかない。
「……司法試験か。それは、簡単な道じゃないぞ。」
父親の目が、わずかに厳しさを帯びた。
「分かっています。だからこそ、今は勉強に専念しています。結果を出すまでは、何も言えません。ただ――」
私は、彼女の方を、一瞬だけ見た。
「――自分が信じた道を、最後まで貫きたいと思っています。」
その言葉は、彼女に向けたものだった。自分が信じた道、それは彼女と歩む道だ。しかし、相手を誤解させるトリックには以前の人生で精通している。私はただ、相手が誤解してくれることに背中を推しているに過ぎない。
彼女は、その言葉に、少しだけ目を見開いた。
父親は、しばらく沈黙した。その間、居間の時計の秒針が、やけに大きく耳に響いた。そして、静かに言った。
「そうか……まあ、頑張りなさい。」
その言葉には、多少の警告と、しかしわずかな好意的な感情が含まれていた。私は、その変化を見逃さなかった。
――好印象。第一段階クリア。
その後、私たちは、彼女の家でささやかな食事を共にした。彼女の母親の手料理は、家庭的で温かかった。私は、その味を、記憶に刻みながら食べた。――かつての人生では、彼女の家の味を味わうことはなかった。それは、私が手に入れられなかった「普通の幸福」の一つだった。
食事中、彼女の母親が言った。
「そういえば、あなた、娘に指輪をくれたんだって?」
――その言葉に、私は心臓が止まるかと思った。
「あ、はい。ちょっとしたシルバーのファッションリングです。」
私は、平然を装って答えた。彼女は、右手の薬指にそのリングをはめていた。母親は、それを見て、微笑んだ。
「まあ、あなた、その年で、気が利くのね。」
――彼女は、何も知らない。そのリングが、やがて左手の薬指を飾るための、最初の一歩であることを。
私は、その微笑みの裏で、冷徹な計算を続けていた。彼女の母親は、私に対して好意的だ。父親も、少なくとも警戒は解いた。しかし、これで終わりではない。彼らは、まだ私の「正体」を知らない。もし、私が弁護士であり資産家であることを知ったら、彼らはどう思うだろうか。
――彼らは、私を「娘に相応しい男」として認めてくれるだろうか。それとも、「何か裏がある」と警戒するだろうか。
その問いに対する答えは、まだ出ていなかった。しかし、少なくとも今日は、勝ち逃げするのが得策だった。
「あの、私、そろそろ失礼します。」
私は、適度なタイミングで席を立った。彼女が見送りに来た。玄関で、彼女は言った。
「母さん、あなたのこと、気に入ったみたい。父さんも、まあまあかな。」
「それは、良かった。」
私は、心の中で安堵した。しかし、同時に、別の感情が湧き上がっていた。
――私は、仮面を被っている。彼女の両親も、彼女も、私の本当の姿を知らない。私は、彼らに「研究生」という仮の身分を演じている。
そのことが、なぜか、私を苦しめた。
「今日は、ありがとう。」
彼女が、そう言った。その言葉は、私の胸に、温かく、そして冷たく、同時に響いた。
「次も、また来ていいのかな?」
私は、自分の声が少しだけ上擦っているのを自覚しながら、彼女に問いかけた。
「うん。その時はまた言うよ」
彼女は、そう言って、小さくうなずいた。
私は、彼女の家を後にし、夜の街をバス停まで歩きながら、考えた。
――彼女の両親は、私を好意的に受け入れた。しかし、それは「研究生」という仮面の私に対してだ。もし、彼らが私の本当の姿を知ったら、彼らはどう反応するだろうか?
その問いに答えることは、私にはできなかった。しかし、私は知っている。いつか、私は彼らに真実を伝えなければならない日が来る。その日が来るまで、私は仮面を被り続ける。
――それが、私の愛の形だ。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。
その夜、私は、彼女の右手の薬指のサイズを思い出しながら、ジュエリーショップに送ったサイズの数値を再確認した。
恐らくあまり大きなダイヤは彼女が拒むだろう。ならば0.7カラット程度で、クラリティはVVS1かIF、可能ならフローレス。ダイヤの価値は彼女には分からないだろうが、フルオーダーメイドで最高のものを贈りたい。
――あと少し。もう少しで、すべてが完成する。
私は、そう思いながら、西神中央の家の設計図を、もう一度、広げた。




