■第十八章:電話の向こう、そして箱庭の完成
私が考えていた以上に、資産は着実に増えていた。
私は「K.S.」という「彼女の苗字と名前の頭文字」をペンネームにして、未来のヒット曲を次々と世に送り出していた。平成初期から後期にかけての名曲たち――それらを、あたかも自分が生み出したかのように発表する作業は、倫理的な呵責を伴わないわけではなかった。しかし、私はその罪悪感を、冷徹に押し殺した。すべては、彼女のためだ。彼女を迎え入れるための箱庭を、より強固に、より完璧にするために、私はあらゆる手段を使う。
楽曲が徐々に認知され始め、ラジオから私の曲が流れることも増えた。著作権使用料は、株式投資とは別の、安定した収入源として機能し始めていた。私はその資金を、すべて株式と西神中央の高台に建設中の家へと注ぎ込んだ。
――その家は、単なる住居ではなかった。それは、震災という未来の災害から彼女を守るための、完璧な要塞だった。
私は、阪神淡路大震災のすべてを知っている。いつ、どこで、どのような規模の揺れが発生し、何が破壊され、何人が犠牲になったのか。その知識を、私は設計図に落とし込んだ。
家の構造は、通常の耐震基準をはるかに超えるものだった。基礎は地盤改良を施し、免震構造を導入した。柱や壁は全て鉄筋コンクリート構造とし、窓は全てこの時代最新の強化ガラスにした。外観は周囲の風景に溶け込む落ち着いたデザインでありながら、その内側には、未来の災害を見据えた冷徹な計算が詰め込まれていた。
――私は、震災後の「生活」も見据えていた。
都市ガスは震災で供給が途絶える。しかし、プロパンガスはタンクさえ無事であれば使用可能だ。私は、都市ガスとプロパンガスの両方に対応できるハイブリッドシステムを導入した。電力についても、太陽光発電と蓄電池、そして非常用の大型発電機を備えた。ついでにタンクによる燃料保管のための危険物乙四の資格も取っていた。
水も同様だった。震災で水道が止まることを見越して、雨水を浄化できる設備を地下に構築した。貯水タンクは、四人家族が一ヶ月間生活できるだけの容量を持っている。さらに、冗長性を持たせるために深い井戸も掘った。
――この家は、震災が起きても、彼女を守り続ける。そのついでに私をも。
私は、その確信を持って、設計図を何度も何度も書き直したのだ。建築会社の設計士や技師たちは、私の異常なまでのこだわりに戸惑いながらも、巨額の報酬に目を輝かせて作業を進めた。彼らには、私が何を求めているのか、理解できなかっただろう。彼らには、これがただの「贅沢な住宅」に見えたはずだ。しかし、私にとってそれは、彼女を守るための聖域だった。
家の骨格が出来上がり、内装工事が進むにつれ、私は別の計画を実行に移す時が来たことを悟っていた。
――彼女に電話をする。あの、果たされなかった約束の、その始まりとして。
私は、弁護士としての身分も、大学生であることも、楽曲の作者であることも、すべて隠して、過去、いや未来と同じく電話をかけることに決めた。もし彼女の親や姉が出てしまえば、その時は適当な名を名乗って間違い電話を装うつもりだった。
その日の夜、私は自宅の廊下にある電話の前に立っていた。私は以前の人生では携帯電話やスマートフォンで電話をかける時には感じなかった緊張をその時は確かに感じていた。受話器を握る手が、微かに震えている。
私は、数十年という時間を超えて、再び彼女に電話をかけようとしている。かつての人生では、高校二年生の時だった。今は、彼女が高校一年生。本来のタイムラインより一年早い。
――それでも、十分な生活力を手に入れてしまった私は待てなかった。
幸いこの時代には未来にはありえない連絡網、中学の学年全ての生徒の家の電話番号が書かれた藁半紙の一覧表の束がある。私はその、個人情報保護法が出来る前の時代に感謝した。
過去の人生で、私はこの一覧表に書かれた番号を使って、電話を十数回、いや数十回はかけていた。しかし、その後に続く約束を果たせなかった。大学に落ち、恥ずかしくて連絡を取れず、そのまま彼女との接点を永遠に失った。あの「もしも」が、私の人生を決定づけた。
今度は、違う。
私は、その決意を胸に、その電話番号を間違わないように震える指で押していく。そのプッシュ音。そして呼び出し音。一回、二回、三回。
――出てくれ。お願いだ。君が出てくれ。
四回目の呼び出し音の途中で、受話器の向こうから、あの声が聞こえた。未来の私からは既に遠ざかり、今の私にもほとんど聞いたことのない、最も聞きたかった声だ。
「はい、もしもし?」
――彼女だ。
その瞬間、私の心臓は、何十年という時間を超えて、小学生のあの日に戻った。彼女の声は、記憶の中のそれと変わらず、少しだけ低く、そしてどこか影を帯びていた。しかし、それは確かに、私が夢に見続けてきた声だった。
私は、一瞬、言葉を失った。あれほど準備した台詞が、喉の奥で詰まった。
「……もしもし。突然すみません。俺は、あなたと同じ小学校と中学校に通っていた同級生の朝倉です。」
緊張で喉が詰まりそうになりながら、私は言葉を絞り出した。老人の精神が、十六歳の声帯を通して、少女に語りかける。あまりにも不釣り合いで、あまりにも狂気的な光景だった。
「……え?」
彼女の声に、困惑が混じる。当然だ。何年も会っていない、ほとんど記憶の片隅にあるような同級生から、いきなり電話がかかってくるなど、誰もが戸惑う。
「あの、小学校三年生の時に、統廃合で転校してきた……覚えていますか? 俺は、いつも窓の外を見ていた、あなたのことを、ずっと覚えています。」
沈黙が、数秒続いた。呼吸の音だけが、受話器越しに聞こえる。
「……ああ。朝倉くん?」
彼女の声が、少しだけ変わった。記憶を手繰るような、遠くを見つめるような響きだった。
「そうだ、あの時の……うんうん、あなた、ずっとテストで満点を取っていた、変わった子でしょ?」
――彼女は、覚えていた。
「跳び箱を八段、普通じゃない飛び方で飛び越えていた、変な男子でしょ?シンゴロちゃんでしょ?」
その言葉に、私は笑いそうになった。彼女は、あの頃の私を、そのように記憶していたのか。変なやつ。確かに、私は変だった。そして今も、変わっていない。いや、今の方が、もっと変だ。老人の精神を宿した、十六歳の怪物だ。
「うん、そう、そのシンゴロちゃん。そうだね、それです。俺は、あなたのことを、ずっと覚えています。」
言い終えた瞬間、私は自分が何を言っているのかに気づいた。あまりにもストレートすぎた。ずっと覚えている?それは初恋なのか、それとも執着なのか?しかし、もう引き返せない。
「……え?」
彼女の声が、わずかに戸惑いを含んでいた。
「突然でごめんなさい。でも、俺は、あなたのことを、あの日からずっと忘れられませんでした。そして、今もそうです。もしよかったら――」
私は、深呼吸をした。廊下の光が、電話をかける私の影を床に落としている。
「――あの……僕と、付き合ってくれませんか?」
間違えた。過去のセリフと全く違う。「大学生になったら」を入れずに「付き合ってくれ」と言ってしまった。これは私の暴走だ。しかし、それは本心だった。
沈黙。
世界が、止まったかのような時間が流れた。遠くで、救急車のサイレンの音が聞こえる。虫の声が、夜の闇に溶けていく。
「……え、えっと……今、突然すぎて……」
彼女の声は、明らかに動揺していた。当然だ。高校一年生の少女が、ほとんど記憶にない、しかも違う学校に居るはずの同級生からいきなり告白されるなど、誰もが驚く。しかし、あのときはどうだったのだろう?思い出せない。ただ、大昔では十数回、もしくは数十回の電話の末に告白したのだ。少なくとも今回よりも遥かに多くの時間を掛けていたはずだ。
「ごめん、いきなりすぎた。でも、俺は本気だ。小学校のあの日から、ずっと君のことを考えてきた。」
私は、心の奥底に隠していた言葉を、すべて吐き出した。しかし、軌道修正は可能だ。数々の女性を口説き落としてきた老練な言葉を操る十六歳の私。過去には心臓がバクバクしたものだったが、今の私は違う、どのようにでも修正は出来る。まずは、訂正ではなく、追加の情報を放り込めば良い。
「君が高校を卒業するまで、待つから。それまでは何も求めない。ただ、君のことを考えている人間がいるということを、知っていてほしい。そして、もし君がよかったら――その時に、もう一度、この話をさせてほしい。」
「……卒業するまで、待つって……三年も待つってこと?」
この年齢の若者にとっては三年という期間は長すぎるだろう。しかし私にはさして長くはない。十六年を生きただけの彼女と、数十年以上を生きた記憶のある私の時間感覚は既にズレているのだ。
「ああ。何年でも待つ。君のために、その準備はもうできている。」
計画では卒業するまで待つ事はしない。無いとは思うが、彼女が高校生の間に彼氏を作ってしまう可能性もある。私は既にこの世界の歴史のほんの小さな部分だが、確かに変えてしまっていたのだ、それがどう影響するのか私にも分からない。
「……準備?」
彼女は私の言葉の意味は分からないだろう。それで良い、今はそれで。驚かせるつもりはないが、前世の私の失敗を繰り返すという愚行は犯さない、今度こそ彼女との約束を守りたい。
「うん。君が、安心して過ごせるように。君が迷わずに生きることが出来るために。そのための、すべての準備を。」
彼女は、しばらく沈黙した。長い沈黙だった。私は、その沈黙が、拒絶ではないことを祈りながら、ただ待った。老人の精神が、十六歳の肉体の中で、少女の答えを待つ。あまりにも不釣り合いで、あまりにも狂気的な時間だった。
そして、彼女は静かに言った。
「……シンゴロちゃんって、昔からやっぱり変な人なんだね。」
でも、その声には、嫌悪はなかった。むしろ、どこか困惑したような、それでいて少しだけ興味を含んだような、そんな響きだった。私は呼吸をすることも忘れて、次の言葉を待っていた。恐らくOKがもらえるはずだ。期待と少しの恐怖を抱えながら、私は唾を飲み込んだ。固唾を飲むというのはこういうことなのだろうか。
「でも、あなたが、あの頃からずっと私のことを覚えていたっていうなら――」
彼女は、少しだけ間を置いた。
「――ちょっとだけ、話してみてもいいよ。」
――それは、未来の約束よりもずっと早い、彼女からの初めての「許可」だった。
私は、受話器を持ちながら、静かに、しかし確実に微笑んだ。その笑みは、誰にも見えなかった。しかし、私の胸の中で、確かに熱を帯びていた。欲しかった言葉。二回目の許可。そして今回は絶対に叶えたい願い。
私は全身から力が抜け落ち、電話の台に左手だけで体を支えた。確かに手に入れた言葉だったのだから。
「ありがとう。」
それから、私たちは短い会話を交わした。彼女の学校のこと、私の好きなTV番組こと、普通の高校生なら当たり前のことばかり。話はほとんど一方的なものだったが、それはあの時と同じだ。そして彼女は相槌をうち、少しだけ話をしてくれる。
私は、彼女の言葉の一つ一つを、逃さないように、心に刻んだ。数十年の間、夢の中で聞きたかった声を、今、現実の耳で聞いている。その感覚は、あまりにも甘美で、そして、あまりにも切なかった。
電話を切った後、私はしばらく電話の前に立ち尽くしていた。出来た。昔はこの初めての電話をするのに何週間かかったのだろうか?数週間?数ヶ月?私はひどく悩んだ末に勇気を出して、かけたはずだ。
――彼女は、私の申し出を受け入れた。完全なOKではない。しかし、拒絶でもない。彼女は、私という存在に、ほんの少しだけ興味を持ったのだ。
その事実が、私の胸の奥で、熱く、そして確かに燃えていた。それは、過去の人生でも感じていたはずの、しかし今の私にとっては初めての感覚だった。
私は後日、ピンクナンバーの原付スクーターに乗り、現在も工事中の未来の自宅へと向かった。工事中のその家は、震災を見据えた完璧な要塞として、静かに佇んでいた。月明かりが、コンクリートの壁面を銀色に染めている。地下に設置された雨水浄化システム。都市ガスとプロパンガスのハイブリッド設備。非常用の発電機。そして、彼女のために用意した、広い書庫。シアタールームも作ろう。今の媒体はビデオテープだが、2000年頃にはDVDで映画がリリースされることになる。
――この家は、彼女を守る。震災からも、未来の不確かさからも、すべてから。
私は、彼女とのこの先の普通の人生、それだけを考えていた。
『いや、まだ早すぎる。彼女が大学生になったら付き合うという約束だ。』
はやる気持ちを押さえつけて、数年後のこの家での人生を考えていた。
以前の私は大学受験に失敗して、連絡が出来なくなってしまったが、今は違う。
大学生であり、弁護士であり、資産家でもある。容姿はともかく同年代の男子よりは魅力はあるだろう。
いや、これは私の考える一般的な女性の思考だ、彼女は違う思考をしているだろう。
なぜなら、彼女は昔の私を受け入れてくれたのだから。
――だからこそ私は、待つ。彼女が高校を卒業し、いつかこの家に来る日まで。
しかし、もう待つだけの時間ではない。私は、彼女と話した。彼女は、私のことを覚えていた。そして、彼女は、私の申し出に「話してみてもいい」と応えた。
――あとは、時間が過ぎるのを待つだけだ。話を重ね続けるだけだ。出来れば同じ道を二人で歩いてみたい。喫茶店に、図書館に、買い物に行ってみたい。これは強欲なのかもしれないが、夢を一人で見るだけなら問題は無いだろう。
私は、内装途中の家の窓から、西神中央の街並みを眺めて考えていた。月明かりと街灯が、街を静かに照らしている。この街は、数年後、あの震災で破壊を免れる。しかも、この家は、そのすべてを乗り越える。
――そして、彼女も……確かに、この家と共に生き延びる。
自宅に帰宅し、私は机の引き出しから、彼女の名前が書かれたノートを取り出した。新しいノートだ。電話をかける前に買ったものだ。私は、そのノートの最初のページに、今日の日付と、彼女の声のことを書き留めた。
「彼女は、私のことを覚えていた。変なやつ、と。」
その文字を見つめながら、私は静かに微笑んだ。
――彼女は、私の狂気の証だ。彼女がいるから、私は狂人でいられる。彼女がいなければ、私はただの空っぽの老人だ。だが、今は彼女が居る。私に少しだけ興味を持ってくれているのだろう。それは私という狂人にとって、たった一つの希望だった。
私は、そのノートを閉じ、引き出しの奥深くにしまい込んだ。そこは、私の狂気が眠る聖域だった。
外の世界では、秋の虫の音が、静かに響いていた。誰も知らない夜の帳の中で、私はただ、次の「接触」を計算しながら、ペンを走らせた。
――そのペンは、彼女への想いを書き継ぐペンだった。
それが、私の愛の形だ。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。




