■ 第十七章:遠い約束、まだ見ぬ未来、そして十六歳の弁護士
一九九一年、バブルは崩壊した。
その日は、特別に何かが起きたわけではなかった。朝のニュースが、淡々と株価の下落を伝えた。キャスターは、いつものように読み上げていた。しかし、その数字は、これまでにないものだった。日経平均株価は二万円を割り込んだ。たったそれだけのことだった。しかし、その「たったそれだけ」が、日本という国を根本から変えてしまった。
私は、そのニュースを、弁護士事務所の小さなテレビで見ていた。画面の中では、証券取引所の様子が映し出されている。トレーダーたちは、青ざめた顔でディスプレイを見つめ、電話を握りしめていた。彼らの叫び声が、テレビ越しに聞こえてくるようだった。私は、その光景を、ただ静かに見つめていた。驚きも、恐怖も、喜びもなかった。ただ、予定通りに事が進んだという、冷徹な確信だけがあった。
地価は下落を始め、多くの企業が倒産の危機に瀕していた。街の空気は一変し、それまでの狂騒が嘘だったかのように、静まり返った。繁華街からは、高級外車の姿が消え、代わりに「売ります」という貼り紙が目立つようになった。テレビの経済番組では、悲観的な予測が飛び交い、失業の不安が人々を覆っていた。かつて「永遠の繁栄」を語っていたキャスターたちは、今や「失われた時代」という言葉を口にし始めている。
――私は、この日を待っていた。そして、この日が来ることを、知っていた。
彼女は、大学二年生になっていた。彼女は、私の予言が現実になったことを、目の当たりにした。彼女は、朝刊を手に取り、その見出しを何度も読み返していた。その指が、新聞の端をぎゅっと握りしめている。彼女は、何かを確かめるように、何度もその記事を目で追っていた。
「本当に、バブルが崩壊したみたいだよ。」
彼女は、新聞の経済面を眺めながら、静かに言った。その声には、驚きと、そしてどこか納得したような響きがあった。
「ああ。これから、この国は長い停滞期に入る。」
「あなたが言ってた通りだね。」
彼女は、そう言って、私を見た。その目には、驚きと、そして確かな信頼が宿っていた。彼女は、もう私の言葉を疑っていなかった。私は、その信頼が、少しだけ重く感じられた。
「あなたは、本当に未来を見ていたんだ。」
「うん。だからこそ、君を守る準備をしてきた。」
彼女は、その言葉に、少しだけ笑った。
「変な人ね。でも、その変な人が、今の私を守ってくれてる。」
――彼女は、私の真実を完全に受け入れていた。そして、その真実が、彼女の日常に寄り添っていた。
バブル崩壊後、日本は急速に冷え込んだ。街のあちこちで、「リストラ」という言葉が飛び交い、企業は次々と採用を凍結した。テレビのニュースでは、ハローワークに並ぶ人々の列が映し出され、その列がいつまでも途切れることがない様子が報じられていた。新卒者の就職は困難を極め、大学のキャンパスでも、学生たちの間には暗い影が落ちていた。
彼女の周囲でも、就職活動に苦戦する学生たちが増えていた。彼女の先輩の一人は、百社以上にエントリーシートを送ったが、一社も内定をもらえなかったと言っていた。彼女は、その話をするとき、いつも複雑な表情を浮かべていた。
「なんか……先輩が、内定が取れないって言ってた。」
彼女は、食事の席で、そう言った。その声には、やりきれなさが混ざっていた。
「君は、心配しなくていい。」
「うん、分かってる。あなたがいるから。」
彼女は、そう言って、笑った。その笑顔は、かつての「影のある少女」の面影を残しつつも、確かに今の彼女のものだった。彼女は、もう一人じゃなかった。それが、彼女にとってどれほどの安心だったのか、私は想像できた。
――彼女は、私の妻だった。
私たちは、一九九〇年の秋に正式に結婚していた。彼女が大学二年生になる前のことだ。彼女の両親は、私のことを完全に理解してはいなかったが、娘の幸せを願って、結婚を認めてくれた。結婚式は、ごく小さなものだった。彼女の希望で、親族とごく近しい友人だけを呼んで、静かに行われた。私は、その日、彼女の白いドレス姿を見て、何も言えなくなった。ただ、彼女の手を握り、その温もりを確かめることしかできなかった。
彼女は、私の妻として、大学生活を続けていた。学業に専念できる環境を整え、彼女の学費や生活費は、すべて私が負担していた。それは、彼女が自分の選択に集中できるようにするためだった。彼女は、感謝しつつも、時折「自分で稼ぎたい」と言った。しかし、私はそれを許さなかった。彼女には、自分のやりたいことに集中してほしかった。それが、私の願いだった。
「就職が難しいなら、大学院に進むのもいいかもしれないね。」
私は、ある日、彼女に言った。彼女は、ソファに座りながら、本を読んでいた。その本を閉じて、彼女は私を見た。
「大学院?」
「うん。君が学びたいなら、いつまでも学んでいていい。俺は、君の選択を支える。」
彼女は、その言葉に、少しだけ考え込んだ。彼女の視線が、窓の外へと向かう。秋の日差しが、庭の木々を金色に染めていた。
「でも、あなたは、私に何を望んでるの?」
「君が、幸せでいること。それだけだね。あと、ついでに自分の幸せもかな?もうすでに俺は幸せだけどね。」
彼女は、少しだけ首をかしげた。その目には、疑念ではなく——むしろ、理解しがたいものを前にした時の、静かな戸惑いがあった。彼女は、私の言葉の裏に何かを探しているようだった。
「……それだけ?」
「うん。それだけだよ。他に俺が望むことは無いから。俺は……君の幸せを望んでいる。もちろん君と一緒に居たいけど、それで君が幸せじゃないなら、俺は君の前から消えると思うから安心していいよ。」
彼女は、その言葉に、静かにうなずいた。そして、少しだけ笑った。
「そう……ありがとう。でも、私は、あなたと一緒にいるために、何かしたい。あなたが、私のために、すべてを準備してくれたように、私も、あなたのために、何かしたい。」
その言葉は、私の胸に、深く響いた。彼女は、私に何かを返そうとしている。それが、彼女なりの誠実さだった。
――彼女は、私の妻として、自立しようとしていた。それは、彼女なりの成長だった。
バブル崩壊は、日本に長い停滞をもたらした。しかし、私たちにとっては、それはあまり問題ではなかった。私たちは、西神中央の家で、静かで、安定した生活を送っていた。彼女は、大学を卒業した後、地元の出版社に就職した。それは、彼女が幼い頃から夢見ていた仕事だった。彼女は、その仕事を楽しみながら、私と共に、日常を築いていた。
――私は、彼女が、自分の道を歩いていることを、心から嬉しく思った。それが、彼女の選択であり、彼女の人生だったから。
一九九四年の秋、私は西神中央の家の書庫に立ち、震災の日付を頭の中で反芻していた。書庫の窓からは、紅葉した木々が見える。風が吹くたびに、葉が落ち、地面を赤く染めていた。
――一九九五年一月十七日。午前五時四十六分。あと、約三か月。
その日が来る前に、私は彼女に、もう一度、すべてを確認した。避難の手順、非常用の持ち出し袋、そして――万が一の時の連絡方法。彼女は、真剣な表情で、私の話を聞いていた。
「もし、地震が来たら、私は、あなたのそばを離れない。だってすごく怖いから」
彼女は、そう言って、私の手を握った。その手は、温かかった。彼女の指が、私の指に絡まる。その感触が、私に確かな安心を与えた。
「うん。俺は君を守る。」
私は、そう言った。その言葉は、私の本心だった。
――バブルは崩壊した。しかし、私たちの関係は、崩れなかった。むしろ、より強固になった。それは、彼女が私を信じ、私が彼女を守るという、単純な約束が、すべてを支えていたからだ。
愛とは、その人間の自由と幸せをただ祈ることだ。少なくとも私はそう信じている。それが、私の愛の形だ。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。




