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■第十五章:そして合格へ、武器の完成

予備試験の論文式試験という難所を圧倒的な論理と分量でねじ伏せたあと、私のスケジュールに停滞という二文字は存在しなかった。

確かに、世間一般の基準において「司法試験予備試験」という壁は、法科大学院を経ずに挑む者にとって、人生の壁とも呼べるほど途方もなく高く、険しいものとしてそびえ立っている。何年もの間、人生のすべてを六法全書に捧げ、血の涙を流しながらも合格点に届かず散っていく大学生や社会人が山ほどいるのが現実だ。


「……まあ、一般的な人間が相手であれば、の話だがね」


自室のデスクに座り、私は静かに冷笑を浮かべた。

私自身、その試験が持つ構造的な難易度や、要求される知識の膨大さについては十分に理解していた。だからこそ、あの夏を血反吐を吐くような学習に捧げ、短答式から論文式に至るまでのすべてのプロセスを完璧にハッキングし尽くしたのだ。


結果として、私はそれをクリアした。

十三歳という、世間一般ではまだ義務教育の途中に居る年齢でありながら、数パーセントの狭き門をこじ開けた。


――しかし、その「こじ開けた」という表現が、すでに狂気の片鱗を含んでいることに、私は気づいていた。


普通の人間は、司法試験予備試験を「こじ開ける」とは表現しない。普通の人間は、そこに「挑戦」と「成功」いう言葉を使う。しかし、私にとってそれは「挑戦」ではなかった。それは「攻略」だった。戦略的な攻略だった。私は、試験というシステムを、敵陣として認識していた。そして、その敵陣を、冷徹に、そして完全に攻略した。


だが、これで完全に終わったわけではない。

論文式試験の合格から、次の関門である最終の「口述試験」に至るまでの間には、数か月のインターバル――一月の本番まで続く期間が存在していた。


論文試験を終えたとはいえ、気を抜くことなど微塵も許されない。

しかし、残された最後の関門である口述試験に関しては、これまでの筆記試験とは性質が大きく異なっていた。法律実務基礎科目に関する試験官との個人面接。それは、条文の暗記量や論証パターンの美しさを競うものではなく、法曹としての基本的な倫理観、そして予期せぬ法的トラブルに直面した際の実務的な即応性が冷徹に審査される場だった。


そして、その口述試験の対策においてこそ、私の持つ最大の武器が真価を発揮することになる。


「――これは、私の過去の人生がそのまま生きる領域だな」


呟きながら、私は鉛筆を回す。

中学一年生という、実社会の泥臭さも、大人の利害関係の絡み合った修羅場も何も知らないはずの年齢の肉体に閉じ込められていながら、私の精神の深層には、数十年という人生の酸いも甘いも噛み分けた老練な経験値と、無数の人間模様を見てきた記憶のデータベースが刻み込まれている。形式的な法律の解釈論だけではなく、実際の社会のなかで法律がどのように運用され、人と人との利害の衝突がいかにして調停されるのか。その「生きた実務の空気感」を、私はすでに過去の人生において嫌というほど知悉していた。


――しかし、その「生きた実務の空気感」は、同時に「彼女を守るための実務」でもあった。


私は、この試験に合格することで、法的な防壁を手に入れる。その防壁は、彼女をあらゆる理不尽から守るためのものだ。彼女が将来的に何らかの困難に直面したとき、私は法律という武器で彼女を守ることができる。彼女が誰かに傷つけられそうになったとき、私は法律という盾で彼女を守ることができる。


――そのことが、私の原動力だった。


およそ中学生という存在には絶対にありえないはずの高度な社会的知見、そして人間の心理の機微を読み解く知能。それらを備えた私であれば、試験官が繰り出すどんなに意地悪な実務上の想定問答であっても、動揺することなく最適解を導き出すことができるはずだった。

口述試験の面接室という密室で求められるのは、小手先のテクニックではなく、揺るぎない「大人としての据わった精神」なのだから。


――そして、その「大人としての据わった精神」は、私の過去。いや、未来を生きた記憶と、それに彼女への想いによって支えられていた。


私は、彼女のために、大人に戻る。私は、彼女のために、精神をさらに据える。そして私は、彼女のために、この試験に合格する。それが早すぎる間違いだとしても。


脳内で予備試験の最終段階に向けたシミュレーションを冷静に行いながらも、私の手はすでに別の、より先を見据えた動きへと移行していた。


――さて、口述試験の対策と並行して、次はどこにリソースを割くべきか。


私は机の端に放置していた、赤茶色の表紙を持つ難関国公立大学の「赤本」へと手を伸ばした。

本来のスケジュールであれば、予備試験のすべてが完全に決着し、中学二年生の春を迎える頃に本格再開するはずだった大学受験の勉強。だが、私の脳の処理能力と現在のインプットの効率は、当初の予測を遥かに超えるスピードで最適化されていた。


――そして、口述試験の日が来た。


一月の冷たい空気。試験会場は、司法試験委員会が指定した建物の一室だった。そこには、重厚な机と、厳格な表情をした三人の試験官がいた。


私は、その前に座った。年齢のことは、一言も触れなかった。彼らは私の受験票を見て、驚愕の表情を浮かべたが、それ以上は何も言わなかった。彼らはプロフェッショナルだった。そして、私もまた、別の意味でプロフェッショナルだった。


「――では、始めます」


試験官の一人が、静かに口を開いた。


質問は、想定通りの範囲だった。民事訴訟における証拠の評価、刑事事件における供述調書の取扱い、そして、法曹としての倫理に関する抽象的な問い。私は、それらのすべてに対して、一分の隙もなく、そして圧倒的な「大人の精神」で応答した。


――その間、私は常に彼女のことを考えていた。


私は、彼女のために、この質問に答えている。私は、彼女のために、この試験官と対話している。私は、彼女のために、この合格を手に入れる。


その思考が、私の応答に、不思議なほどの落ち着きと説得力をもたらしていた。


「――以上です」


私が最後の質問に答え終えると、試験官たちは互いに目を交わし、そして、一人が静かにうなずいた。


「結果は……楽しみにしておいてください」


その言葉を聞いたとき、私は何も感じなかった。驚きも、喜びも、安堵も、何もなかった。ただ、一つの冷徹な事実だけが、私の脳内に刻まれた。


――これで、私は彼女を守るための武器を手に入れた。そして、その武器は、彼女を閉じ込めるための武器でもある。


私は、その矛盾を自覚しながら、試験官に礼を述べ、静かに試験会場を後にした。


外の空気は、冷たく、そして澄んでいた。

私は、鞄の中のノートを、そっと撫でた。彼女の名前が書かれた、あのノートを。


――私は、この合格を、彼女に伝えることはないだろう。伝える必要がないからだ。この合格は、彼女のためのものだが、彼女はそれを知る必要はない。


私は、彼女のために、武器を手に入れた。しかし、その武器は、彼女が知らぬ間に、彼女のために使われる。


それが、私の愛の形だ。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。


――そして、私は、次の戦いへと向かう。司法修習。大学飛び級。資産形成。震災対策。


それらのすべてが、彼女へと至るための、ただの通過点にすぎない。


私は、彼女の名前が書かれたノートを、鞄の奥深くにしまい、冷たい冬の空気の中を歩き始めた。


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