■第十四章:休めない勉強、休む授業、そして彼女の気配
夏休みという季節の全貌が、容赦のない熱気とともに過ぎ去っていった。
周囲の子供たちが宿題の終わらない焦りに冷や汗を流し、あるいは終わらない夏祭りの余韻に浸っていたその期間、私の脳内では休むことなく法学の巨大なピラミッドが組み上げられていた。
血反吐を吐くほどの学習という言葉が生易しく思えるほど、私は自らの神経を極限まですり減らし、論文式試験という難攻不落の城壁を徹底的に分析し尽くした。憲法の基本的人権の制約に関する比例原則のあてはめ、民法の不法行為における因果関係の切断、刑法の共謀共同正犯における承継的共同正犯の論点――それらの複雑怪奇な法理の網の目は、もはや私の脳内でパズルのピースのように一糸乱れず噛み合っていた。
そして、九月。
新学期が始まり、蝉の声が秋の気配を含んだ風へと変わりゆく中、私は司法試験予備試験・論文式試験の会場へと足を踏み入れていた。
この夏をすべて捧げた私にとって、目の前に並ぶ記述式の問題冊子など、ただの確認作業にすぎなかった。
問われている法的紛争の核心を瞬時に見抜き、憲法上の人権保障の文脈から妥当な結論を導き出し、民法や刑法の条文の趣旨に則って論理の糸を一本の美しい線として論文に紡ぎ出していく。シャーペンの走る音が、静まり返った試験会場に規則正しく響く。周囲の受験生たちが制限時間のプレッシャーと焦燥感に顔を歪め、消しゴムのカスを散らかしている横で、私は一分の迷いもなく、圧倒的な分量と緻密な論理構成を持つ答案を淡々と完成させていった。
――結果は、火を見るより明らかだった。
論文式試験の合格通知が届いた日、私はそれを一瞥しただけで、机の引き出しの奥へと無造作に放り込んだ。
周囲の大人たちがどれほど驚愕し、世間が「またしても奇跡を起こした天才少年」と持て囃そうとも、私にとってそれはあらかじめ計算されていた予定通りの通過点にすぎなかった。
――しかし、合格通知を確認した瞬間、私の脳裏を最初によぎったのは、彼女の顔だった。
彼女は、このことを知らない。彼女は、私が論文式試験に合格したことを知らない。彼女は、私が夏の間、血反吐を吐くほど勉強していたことを知らない。彼女は、私が彼女のためにこの試験を受けていることを知らない。
――彼女は、何も知らない。それが、私には、なぜか愛おしかった。
だが、これで終わりではない。
予備試験の最終関門である「口述試験」は、翌年の一月に控えている。そこまでのスケジュールを逆算したとき、私の中に「ここで一息ついて休む」という選択肢は一ミリたりとも存在しなかった。
むしろ、論文式試験をクリアしたことで、私の内なる焦燥感はさらに冷徹な確信へと変わっていた。
もはや、中学一年生という年齢の枠組みに私を縛り付けておく必要性など皆無だった。皆無だ。私という人間の処理能力と目的の巨大さの前に、学校という組織が用意した年齢別のカリキュラムや、無機質な進度の基準などは、ただの邪魔な足枷でしかない。
学校の授業?
笑わせるな、そんなものは私にとって完全に無意味な時間だ。
――しかし、それでも私は学校に通っていた。なぜなら、彼女がそこにいるからだ。
中学校の教室に戻った私を待ち受けていたのは、相変わらず退屈で、そして知性のカケラもない平穏な日常の茶番劇だった。
教師たちが教壇の上で教科書を読み上げ、黒板にありふれた数学の公式や歴史の年号を書き殴る。周囲の生徒たちは、ノートを取るふりをしながら昨日のテレビ番組の話題や部活動の噂話に夢中になっている。
そんな空間に座っていること自体が、私にとっては最大の時間の浪費であり、拷問に等しかった。
――内申点? 単位? そんなものに何の価値があるというのか。私は高等学校へは行かないのと決めたのに。
私は授業中、教師の退屈な声を聞き流しながら、堂々と机の上で密かに大学法学の専門書を開き、行政法や国際公法の難解な判例集を読み進めていた。
通常、このような事を行えば、叱られるのだが、体罰すらも私にとっては「法的には暴行罪」怪我をすれば「傷害罪」である。教師はこの私の冷静な論理に勝てるはずがない。そもそも私の精神年齢も生きてきた長さも、どの教師をも凌いでいる。そのため、私は教師にとっては扱いづらい生徒だっただろう。
学校の定期テストでどれほど良い点を取ろうとも、通信簿に並ぶ数字がどうこうなろうとも、私の人生のグランドデザインにおいては一切のプラスアルファを生み出さない。日本の義務教育のシステムや、高校への進学ルートといった「凡人どもが踏み固めた安全なレール」など、私の冷徹な計画の前には文字通り無価値だった。
――しかし、その「無価値な時間」の中に、彼女は存在していた。
彼女は、同じ学校にいる。彼女は、同じ時間を過ごしている。彼女は、同じ空気を吸っている。
その事実だけで、私は学校という場所を完全に否定することができなかった。彼女がいるから、私はここにいる。彼女がいなければ、私はこの退屈な教室に足を踏み入れることすらしなかっただろう。
出席日数? 単位の修得?
そんなものは、世間の一般人が社会のシステムから脱落しないために用意されたただの首輪にすぎない。私には、そんな首輪を誰かに掴まれている暇などなかった。
学校側の規定や世間の常識がどう言おうとも、私は私自身の基準で動く。
必要であれば、授業など仮病を使わずとも「勉強で忙しい」と言って堂々と休み、自宅で司法試験の口述試験対策と、将来の西神中央における土地買収スキームの構築に全知力を注ぎ込む。教師が私の不規則な欠席や授業中の不遜な態度に苦言を呈そうものなら、あの全日本メンサの会員証と、すでに予備試験の論文まで突破しているという紛うことなき事実を突きつけてやればいい。大人たちは驚愕し、恐怖し、そして勝手に「あの少年にとって普通の学校の授業は退屈すぎるのだ」と都合の良い解釈をして沈黙する。
しかし、教師を彼らの知らない「論理と法律と哲学」で退けることの出来る私には、そんな事は不要だった。
それが、私の選んだ防壁の張り方だった。
――しかし、彼女の前では、私はその防壁を下ろしていた。
彼女がいる時だけ、私は「普通の同級生」を演じていた。彼女の前では、私は天才でも秀才でも狂人でもなかった。ただ、彼女と同じ時間を共有する、一人の少年だった。
それは、計算だったのか? それとも、自然な感情だったのか?
――私には、分からなかった。
放課後の誰もいない教室。
夕暮れのオレンジ色の光が、空っぽの椅子と黒板の空白を照らしていた。
私は部活の部屋から散歩と称して外に出ていた。体育館を少し覗くと、ジャージを着た小さな影が懸命に練習をしているのが微かに見えた。
遠くに見えるその少女の姿を捉えながら、私は冷たく引き締まった唇の端をわずかに持ち上げた。
「そのまま、私のことなど知らずに待っていてくれれば良い。私が進む道に、そして、恐らく君が進むであろう道には、無駄な障害物など一つたりとも残さない。全て私が掃き清めて見せる」
休む暇などない。休んでいる時間などどこにもない。
バブルの崩壊という時代の荒波がすべてを飲み込む前に、そして彼女が大人としての世界に足を踏み入れるその瞬間に間に合わせるために、私の狂気的なまでの準備は、誰にも止められない速度でさらに加速していくのだった。
――しかし、その加速の背後で、私は常に彼女の気配を感じていた。
彼女がそこにいる。それだけで、私は前に進むことができる。彼女がそこにいる。それだけで、私はこの退屈な時間を耐えることができる。彼女がそこにいる。それだけで、私は狂人であり続けることができる。
彼女の存在が私を狂人たらしめているのか、私が狂人だからこそ、彼女を追い求め続けるのか。
――彼女は、私の推進力だった。彼女は、私の原動力だった。彼女は、私のすべてだった。
私は、彼女の名前が書かれたノートを、机の引き出しから取り出し、そっと開いた。そこには、彼女の名前が何度も何度も、同じ文字で、しかし毎回異なる筆跡で書き殴られていた。
私は、そのノートに、もう一度だけ彼女の名前を書き加えた。それは、祈りのように。それは、宣誓のように。それは、狂気の証のように。
――そして、私は、そのノートを閉じた。明日も、また同じ日が来る。彼女のいない時間を、知識という名の砂で埋めながら。
しかし、私は知っている。その砂の山が、いつか彼女を迎え入れるための土台になることを。そして、その土台の上に、私は彼女との未来を築くことを、望んでいる……
それが、私の愛の形だ。歪で、醜く、狂気的で、しかし唯一無二の愛だ。




