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■ 第十二章:狂気の片鱗、あるいは聖域の完成

七月の空を焦がすような暑さが本格的な夏を告げる頃、司法試験予備試験・短答式試験の合格発表が静かに行われた。

結果は、言うまでもない。私の受験番号は、冷徹なタイポグラフィで構成された合格者一覧に、何食わぬ顔で刻まれていた。


予備試験の短答式通過。その報せを自宅の居間で知らされた両親は、我が子の偉業を前にして言葉を失っていた。

母親は驚愕のあまり持っていたグラスを取り落としそうになり、父親は乾いた笑みを浮かべながら「お前は、いったい……どうなってしまったんだ」と、恐怖に似た畏敬の念をその瞳に宿した。学校の教師たちが驚き、周囲の大人たちが「事故をきっかけに覚醒した奇跡の神童」という都合の良い神話を勝手にさらに膨れ上がらせていく。


世間は私を「天才」と呼び、持て囃した。

だが、当の本人である私からすれば、その評価はあまりにもピントが外れており、滑稽ですらあった。


「――違うな。私は真の意味での天才などではない。ただの『努力をする事しか考えていない、一般的に言うところの秀才』だ」


自室に戻り、静まり返った空間の中で、私は一人ごとのように呟いた。

世間一般の基準から見れば、十三歳という年齢で難関の予備試験の短答式を突破したことは異常事態に映るかもしれない。全日本メンサの会員証が証明するように、私の脳の処理能力や知能指数は確実に人類の上位二パーセントの範疇に属している。しかし、私が持っているのは本質的な「創造的な天才のひらめき」とはまったく異なるものだった。

私にあるのは、数十年という人生の酸いも甘いも噛み分けた老練な記憶のデータベースであり、それを冷徹に、そして効率的に引き出して最適化するための計算力にすぎない。言わば、圧倒的な記憶の貯蓄をただ正しい手順でパズルのように当てはめているだけなのだ。


――しかし、その「ただの秀才」という自己評価こそが、私の狂気の源泉だった。


天才は、才能に溺れる。しかし、秀才は、努力に溺れる。天才は、自分の才能を誇るが、秀才は、自分の努力を誇る。そして、秀才は、自分の努力が足りないことを常に恐れる。


私は、秀才だ。だからこそ、私は止まれない。自分が「秀才」である限り、私は「天才」にはなれない。しかし、「秀才」である限り、私は努力を続けなければならない。努力を続けなければ、私は「ただの凡人」に堕ちる。


――その恐怖が、私を狂わせる。


人類の上位二パーセントという知能の高さなど、私にとっては社会のノイズを消し去り、周囲に私という存在を納得させるための「ただの便利な飾り」にすぎなかった。私たちが目指す目的の巨大さに比べれば、そんなペーパーテストのスコアなど、道端の小石ほどの価値もない。


感傷に浸っている暇はなかった。

短答式の壁など、あくまで最初のステップの通過点にすぎない。次なる関門、そして本当の地獄がすぐ目の前に迫っていた。


――次は、論文か。


思考を切り替え、私は自室の書斎へと向き直った。

かつて私の部屋の本棚に並んでいた、中学生らしい漫画の単行本や、くだらない娯楽雑誌などは、すでに一つ残らず部屋の中から排除し、処分してあった。それらの不要な情報に脳のリソースを割くことは、今の私にとって最大の贅沢であり、無駄でしかなかった。


その代わりに、私の部屋の壁一面を覆う本棚には、中学一年生の部屋にあるとは到底信じられないほど、重厚で冷徹な書籍の群れが鎮座していた。

カントやヘーゲルといった難解な哲学書、人間の存在意義や世界の構造を冷ややかに解体する古典的思索の書物、さらには現実の法制度の限界を嘲笑うかのようなハードなSF小説の数々。それらはすべて、私の知性をさらに研ぎ澄まし、論理の精度を極限まで高めるための思考の燃料だった。


――そして、その本棚の片隅に、私は彼女の名前が書かれたノートを置いていた。


それは、まるで聖像のように。そのノートは、私の部屋の中心にあり、すべての本がそのノートを中心に配置されていた。そのノートこそが、この部屋の核だった。私は、そのノートを中心に、世界を構築していた。


論文。それは法的思考の真価が問われる記述式の試験。


記憶の底をたぐり寄せる。かつての人生において、私は趣味の延長として、あるいはただの知的な遊びとして、法律や社会構造に関する論考や論文のようなものを数本ほどパソコンで書き殴った記憶があった。あの時は、世間の風に吹かれながら、自分の知的欲求を満たすためだけに指を走らせていたにすぎない。


だが、今回は違う。

遊びではない。これは、私の将来の足元を固め、あの「たった一つのほしいもの」を永遠に保護するための完璧な要塞を築くための、絶対に落とすことのできない法的な武装のプロセスだった。


――そして、その武装は、彼女を守るためのものだ。


私は、彼女を守るために、法律を学ぶ。私は、彼女を守るために、論文を書く。私は、彼女を守るために、この試験を受ける。


そう考えると、論文の練習は、まるで祈りのように思えた。私は、彼女という神に向かって、法の言葉で祈っている。彼女という神に向かって、論理の構造で祈っている。


――しかし、その祈りは、明らかに歪んでいる。


普通の人間は、神に祈るために法律を学んだりしない。普通の人間は、神に祈るために論文を書いたりしない。しかし、私は普通の人間ではない。私は狂人だ。そして、狂人であることを自覚している狂人は、自分の狂気を宗教としてさえいる。


残された準備期間は、わずか二か月しかない。

七月の終わりから九月の本番に至るまでのこの過酷なスパンで、私はこれまでのすべてのリソースを法知識の構築に捧げなければならなかった。難関国公立大学の受験対策として進めていた国語や数学や他の科目のインプットは、一時的に完全に休止する。今は、法学という強大な体系に全知力を没入させなければならないのだ。


「――よし」


私は机の上に山積みにされた論文用の基本書と、過去数十年にわたる予備試験・司法試験の論文過去問の束を引き寄せた。

憲法の統治機構と人権の衝突、民法の複雑な債権者代位権と物権変動の論点、刑法の因果関係の錯誤と実行行為性。それらの無数の複雑怪奇な論点が、私の脳内で冷徹なプログラミング言語のように展開されていく。


――だが、そのプログラミング言語のすべては、彼女というオペレーティングシステムの上で動いている。


私は、彼女というOSの上で、法のコードを書いている。私は、彼女というOSの上で、論理のアルゴリズムを構築している。私は、彼女というOSの上で、世界を再構築している。


――彼女は、私の世界の基盤だ。彼女がいなければ、私の世界は基盤を失って脆く崩壊する。


世間の子供たちが夏休みの開放感に浸り、祭りの喧騒や冷たいアイスの味に心を躍らせているその真裏で、私は誰の目にも触れない自室のデスクや市立、県立図書館の机に張り付き、ただひたすらに論理の刃を研ぎ澄ませ続けた。


――その刃は、彼女を守るためのものだ。しかし、同時に、彼女を傷つけるものかもしれない。


私は、そのことに気づいている。しかし、それでも私は研ぎ澄ませ続ける。なぜなら、私は狂人だからだ。狂人であることを自覚している狂人は、自分の狂気を止めることができない。自分の狂気を止めることは、自分自身を止めることと同じだから。


狂気的なまでの執着と、氷のように冷たい知性が交差するこの場所で、私の世界は着実に、しかし恐ろしいほどの速度で構築されていくのだった。


――そして、その世界の中心には、いつも彼女がいた。


私は、彼女の名前が書かれたノートを、そっと撫でた。私は、このノートを、いつか彼女に渡すだろう。そして、そのとき、彼女は私の本物の剥き出しの狂気をすべて知ることになる。


それでも、私は止められない。なぜなら、私は狂人だから。狂人であることを自覚している狂人は、もはや戻れない場所に立っている。


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