■第十一章:そして七月の試験、聖戦
梅雨の湿った空気が日本列島を重く包み込む頃、私の脳内ではかつての過酷な記憶と、現在の圧倒的なインプットの成果が完全に同期し始めていた。
乾いたスポンジが水を貪るように、若い肉体に宿る瑞々しい脳の神経回路は、次から次へと流し込まれる難解な法律の条文と膨大な判例のデータベースを、恐ろしいほどの効率で吸収していく。常人であれば数年の歳月を費やし、精神をすり減らすような司法試験予備試験の範囲など、私にとっては冷徹なデータ整理のパズルにすぎなかった。
――だが、そのパズルを解くたびに、私は彼女のことを考えていた。
憲法の人権条文を読みながら、私は彼女の人権を誰が守るのかと考えた。民法の契約の条文を読みながら、私は彼女との契約をどう結ぶのかと考えた。刑法の犯罪構成要件を読みながら、私は彼女を傷つける者をどう罰するのかと考えた。
法律は、私にとって「彼女を守るための切れ味の鋭い武器」だった。試験は、その武器を手に入れるための「通過儀礼」だった。
そして、ついにその時が来た。
七月。
中学一年生という、周囲の子供たちが夏休みの部活動や海へのレジャーに浮かれ始める季節の端緒において、私は人生の最初の大きな関門である「司法試験予備試験・短答式試験」の会場へと足を踏み入れた。
試験会場の殺風景な大講堂。椅子が規則正しく並んでいるその空間には、大学の法学部で何年も机を並べてきた大学生や、社会人として人生の酸いも甘いも噛み分けた百戦錬磨の受験生たちがひしめいていた。スーツに身を包んだ大人たちが緊張に顔を引きつらせ、直前まで分厚い参考書をめくっている。
その中にあって、まだあどけなさが残る制服姿の――正確には私服の指定がないため、学校の制服という出で立ちの――中学生の少年の姿は、どう見ても異様だった。
試験監督の係員が、受験票を確認するために私の机の前で足を止める。
年齢欄に記された「十三歳」という数字を見た係員の目が、驚愕で見開かれるのを私は冷ややかな視線で捉えた。だが、彼らが何を思おうと知ったことではない。全日本メンサの合格通知書という最初の免罪符がすでに学校や社会のノイズを消し去っているように、この会場においても私の存在は「奇特な特例」として処理されるだけだ。
――しかし、私は知っていた。彼らが見ているのは、私の年齢ではない。彼らが見ているのは、私の異質性だ。
試験に合格すれば、彼らは私を「天才少年」と呼ぶだろう。しかし、それは間違いだ。私は天才ではない。私は、ただ狂人だ。自分の狂気を、試験という形で具現化しているだけだ。
「――始めてください」
合図とともに、問題冊子がめくられる。
既に冷めきって居た会場の空気が、さらに一瞬で凍りつき、鉛筆が紙を走る無数の鋭い摩擦音だけが空間を支配した。
憲法、民法、刑法、商法、民事訴訟法、刑事訴訟法、行政法の法律基本科目七法。そして一般教養科目。
マークシートの四つの選択肢に目を走らせる。問題文の行間に隠された法的な論点、判例の射程、そして条文の趣旨。かつての人生における老練な記憶の断片と、この二か月の間に徹底的に叩き込んだ最新の法解釈が、私の脳内で寸分の狂いもなく噛み合っていく。迷いなど一瞬たりとも存在しない。選択肢を読み、正解を確信し、マークシートの円を濃く塗りつぶす。
周囲の人間が難問に頭を抱え、冷や汗を流しながら消しゴムを走らせている横で、私は淡々と、しかし機械的な正確さで解答のプロセスを消化していくだけだった。
――だが、その機械的な正確さの背後で、私は常に彼女を感じていた。
彼女は今、何をしているだろうか。彼女は、夏休みの準備をしているだろうか。彼女は、誰かと話しているだろうか。彼女は、一人で居るのだろうか。もしかして彼女は、誰かと共に笑っているだろうか。
その思考が、一瞬、私の手を止めさせた。
――もし、彼女が今、誰かと笑っているとしたら、その笑顔は私のものではない。
その想像が、私の心臓を締め付けた。私は、彼女の笑顔を独占したい。彼女の隣に居たい。彼女のすべてを、私だけのものにしたい。
しかし、今はその時ではない。今は、試験に集中する時だ。私は、自分の思考を冷徹に打ち消し、再びマークシートに鉛筆を走らせた。
「……こんなものか」
試験終了のチャイムが鳴り響く少し前、私はすべての見直しを終え、静かに鉛筆を置いた。
短答式試験の壁など、私の計画の全体像から見れば、単なる通過点の一つにすぎない。問題は、この後に控える九月の「論文式試験」だ。論理の構築力と圧倒的な文章量を要求される記述式の死闘に向けて、私の思考はすでに次のステップへと移行していた。
――だが、試験会場を後にし、夕暮れの街並みを歩きながら、私の脳裏をかすめたのは試験の結果そのものではなかった。
私は、ふと、自分の鞄の中にしまってあるノートのことを思い出した。彼女の名前が書かれた、あの秘密のノートだ。私は、試験中の休憩時間や試験の前後の時間、一度もそのノートを開かなかった。開く必要がなかったからだ。彼女は、私の意識の中に、いつもいた。
――彼女は、私の試験監督だった。彼女は、私の解答用紙だった。彼女は、私の合格基準だった。
私は、彼女のために試験を受けている。彼女のために、この難問を解いている。彼女のために、このマークシートを塗りつぶしている。
そう考えると、試験はまるで聖戦のように思えた。私は、彼女という神のために、この戦いに臨んでいる。この戦いに勝利することは、彼女への献身の証だ。
――しかし、その考えは、明らかに狂っている。
普通の人間は、試験を聖戦とは考えない。普通の人間は、試験を試験として受け止める。しかし、私は普通の人間ではない。私は狂人だ。そして、狂人であることを自覚している狂人は、自分の狂気を信仰としてさえいる。
私は忠義や美徳を重んじ、遠くから姫を静かに見守る誠実な侍などではない。己の強欲と所有欲のためなら、世界の理不尽も、他人の思惑も、神の采配すらも冷徹にねじ伏せてみせる、ただの歪んだ狂人だ。
どのような手段を使おうと、最後に勝利し、彼女の隣に立ってさえいればそれでいい。
夕闇に染まり始めた街路樹の葉が、風に揺られてカサカサと乾いた音を立てる。
短答式試験の合格発表、そして九月に控える論文式試験の準備という目の前の巨大なタスクに意識を戻しながら、私は心の片隅で、祖父の健康診断をそれとなく誘導するための具体的なシナリオを静かに組み立て始めた。
――しかし、そのシナリオの合間に、私はいつものように彼女のことを考えていた。
彼女は、この試験のことを知らない。彼女は、私が法律を学んでいることを知らない。彼女は、私が彼女のためにこの試験を受けていることを知らない。
――彼女は、何も知らない。
それが、私にはなぜか、愛おしかった。彼女が何も知らないからこそ、私は彼女を守れる。彼女が何も知らないからこそ、私は彼女を汚さずに済む。彼女が何も知らないからこそ、私は彼女を純粋なまま、自分のものにできる。
――しかし、その純粋さを、私はいつか壊すのだろう。
彼女にすべてを伝えたとき、彼女の純粋さは失われる。彼女は、私の狂気を知り、私の執着を知り、私の歪な愛を知る。そして、そのとき、彼女は私から逃げるかもしれない。
それでも、私は伝える。なぜなら、私は狂人だからだ。狂人であることを自覚している狂人は、自分の狂気を隠すことができない。自分の狂気を隠すことは、自分自身を隠すことと同じだから。
――彼女は、私の狂気の対象だ。彼女がいるから、私は狂人でいられる。彼女がいなければ、私はただの空っぽの老人だ。私はそのような未来の、そして過去の亡霊として消え去ることを断固として拒絶する。
歴史の改変など恐れるに足りない。
あの「たったひとつのほしいもの」をこの手元に迎え入れるための完璧な箱庭を完成させるためであれば、神の采配すら、私の冷徹な計算の中に捻じ伏せてみせよう。
――そして、その箱庭が完成したとき、私は彼女にすべてを告白するだろう。
私は、彼女を何十年も想い続けてきたこと。私は、彼女のためにこの人生を生き直していること。私は、彼女が私の「たった一つのほしいもの」であること。
――その告白が、彼女を幸せにするか、それとも不幸にするか。それは、私には分からない。
しかし、それでも私は告白する。なぜなら、それが私の歪で純粋な願いだから。彼女を愛し、彼女を求め、彼女を手に入れる。それが、私という人間の、唯一の生きる意味だから。
私は、鞄の中のノートを、そっと撫でた。彼女の名前が書かれた、あのノートを。私は、このノートを、いつか彼女に見せるだろう。そして、そのとき、彼女は私の狂気をすべて知ることになる。
――それでも、私は止められない。
なぜなら、私は狂人だから。狂人であることを自覚している狂人は、もはや戻れない場所に立っている。




