■第十章:入学最初の二か月、死の猶予
中学校の門をくぐり、真新しい制服の袖を通してから、まだわずか二か月ほどの月日が流れたに過ぎない。
世間の新入生たちにとっては、新しい友人関係に胸を躍らせ、部活動の勧誘に戸惑い、ようやく中学生としての生活リズムを掴み始めたばかりの、のどかな季節であるはずだった。
だが、私という存在の内部で流れる時間の速度は、彼らのそれとは根本的に異なっていた。
私には時間が無い。いや、正確に言えば、私個人の人生の可処分時間という点においては十分すぎるほどの猶予があるように思えるかもしれない。しかし、この日本という国家のタイムラインに目を向けたとき、残された時間は驚くほどタイトだった。
――バブル崩壊まで、あと数年。
それは歴史の必然であり、あらかじめ確定している未来の崩壊点だった。
日本中が狂気的な地価の高騰と札束の舞い散る浮世離れした熱狂に酔い痴れ、誰もが永遠に続く繁栄を信じて疑わないその黄金のバブルの絶頂期。その巨大な経済のバブルが破裂し、国全体が長い「失われた時代」へと転がり落ちていくその瞬間までに、私はすべてを終わらせておかなければならなかった。
西神中央の高台にある土地の買収、法的防壁の構築、そして社会的な信用の獲得。
それらの布石を完璧なタイミングで打ち込むためには、私自身が「社会的に自立した人間」としての身分を確立していなければならない。高校という無駄なモラトリアムを合法的にスッ飛ばすだけではなく、その先の大学教育すらも異例のスピードで駆け抜け、誰もが不可能だと言い張る「飛び級に近い大学卒業」という偉業を、この若年な肉体のままに成し遂げる必要があった。
法科大学院を介さない司法試験予備試験の突破。そして難関国公立大学の全課程の修了。
それらをすべて逆算したとき、中学一年生の春、この入学最初の二か月間という期間に私が何をなすべきかは、冷徹なまでに明確だった。
「悠長に学校の授業の進度に合わせてなどいられないな」
私は自室のデスクに座り、山のように積み上げられた大学受験の参考書と、予備試験の難解な基本七法のテキストを睨みつけながら、そう独り言をつぶやいた。
学校の授業で教師が黒板に書き殴る「中学生レベルの基礎事項」など、わざわざ聞くまでもない。教科書のページを数秒でめくり、そこに記されている情報を脳内のデータベースへ一方的に流し込むだけで十分だった。授業中の時間は、私にとって睡眠を補う時間か、あるいは頭の中で法解釈の論点を整理するための内省の空間にすぎない。
――しかし、その内省の空間で、私は常に彼女のことを考えていた。
彼女は今、教室で何をしているだろうか。彼女は、数学の授業を退屈そうに受けているだろうか。彼女は、国語の教科書を眺めながら、窓の外の雲を数えているだろうか。彼女は、私と同じように、この時間を無駄に感じているだろうか。
――彼女は、私のことを、少しでも考えているだろうか。
その問いは、私の脳内を何度も何度も循環した。彼女が私を考えるはずがない。彼女は、私のことをほとんど知らない。しかし、それでも私は、彼女が一瞬でも私のことを考えてくれている可能性を、夢見ずにはいられなかった。
入学最初の二か月。
この期間に私が実行すべきミッションは、大きく分けて三つあった。
一つは、学校という組織における「手のかからない奇妙な優等生」という立ち位置の完全な固定化。
教師たちがこれ以上私に干渉してこないよう、提出物は完璧な精度で期日通りに納め、定期考査の予行演習としての小テストでは満点を連発し、しかし無駄な愛想は一切振りまかない。あの階段からの転落事故以降、周囲が勝手に作り上げた「ちょっと危うさを秘めた天才」という幻想の枠内に、私を綺麗に収めておくこと。それによって、学校側から「これ以上の詮索は無用だ」という無言の免罪符を引き出す。
二つ目は、司法試験予備試験の短答式試験に向けた基礎構築の完了。
七月に控える最初の関門を突破するためには、憲法、民法、刑法といった主要三法をはじめとする七法の条文と判例の枠組みを、この二か月の間に完全に頭脳のハードディスクへと刻み込まなければならない。ただ暗記するのではない。それぞれの条文が背負う法的な趣旨と、実社会のトラブルにおける適用限界を、パズルのピースを嵌めるように立体的に理解していく。
そして三つ目は、西神中央の土地取得に向けた水面下での資金調達とルートの確保。
音楽著作権のマネタイズシステムがいずれ生み出す莫大な印税収入の受け皿と、まだ世間がその価値に気づいていない不動産の地価変動データを照らし合わせ、誰の目にも触れない形で確実に資産をシフトさせるための法的・経済的スキームの設計。まだ中学生である私が直接動けない以上、いかにして信頼できる代理人を立てるか、あるいは法律のスキマを縫って未成年名義での契約を合法的にクリアするかという実務的な壁を、この二か月の机上の空論の中で完全にハッキングし尽くさなければならなかった。
――しかし、これらのタスクのすべての背後に、一つの共通した目的があった。
彼女が成長する前に、私は「完成された存在」でありたい。
彼女がいつか大人になり、世界を理解し、自分自身の判断で誰かを選ぶようになったとき、私はすでに「完成された存在」として、彼女の前に立っていなければならない。彼女が迷い、苦しみ、助けを求めるようになったとき、私はすでに「確立された存在」として、彼女に手を差し伸べていなければならない。
――私は、彼女に「未完成の自分」を見せたくない。
彼女の前では、私は完璧でありたい。彼女の前では、私は強くありたい。彼女の前では、私は揺るがない存在でありたい。
それは、彼女に対する誠実さの裏返しだった。彼女に弱さを見せることは、彼女を不安にさせることだ。彼女に迷いを見せることは、彼女を惑わせることだ。だからこそ、私は彼女に会う前に、すべてを完成させておかなければならない。
――だが、その思考は、明らかに逆説的だ。
私は、彼女が大好きだ。過去の記憶を探れば、愛しているとすら言えるかもしれない。しかし、私は彼女に「愛している」と言えない。なぜなら、私は彼女に「未完成の愛」を渡したくないからだ。私は、彼女に「完成された愛」を渡したい。しかし、愛は完成されるものではない。愛は、共に育んでいくものだ。
私は、そのことに気づいている。しかし、それでも私は、彼女に「未完成の自分」を見せることができない。それは、私のプライドなのか。それとも、私の恐怖なのか。あるいは、私の狂気の一部なのか。
――おそらく、そのすべてだ。
「……これだけのタスクを、この二か月で軌道に乗せる」
外の世界では、新緑の季節が訪れ、若葉が眩しい光を浴びて風に揺られていた。
だが、私の世界に春の浮かれた空気など一片たりとも存在しない。窓の外の穏やかな景色を冷徹な視線で遮断し、私は新しく買ったシャープペンシルのノック音を合図に、再び膨大な六法全書のページを開いた。
――そのページを読む合間に、私はいつものようにノートに彼女の名前を書いた。
「……もう一度だけ。」
私は、彼女の名前の下に、もう一度だけ、彼女の名前を書いた。それは、まるで祈りのようだった。彼女が、いつかこの行動の意味を理解する日が来るだろうか?いや、来ないだろう。しかし彼女が、この名前を書いた男のことを、少しでも考えてくれる日が来るように。
バブルの崩壊という時代の荒波が来る前に、彼女を迎え入れるための完璧な要塞の設計図を完成させる。
そのための最初の、そして最も重要な助走期間が、今まさにこの静まり返った自室の机の上で音もなく進行していた。
――しかし、私は知っている。この要塞が完成したとき、私は彼女をその中に閉じ込めるのだろう。そして、そのことが、本当に彼女の幸せなのかどうかは、私には分からない。
それでも、私は止められない。なぜなら、私は狂人だからだ。狂人であることを自覚している狂人は、自分の狂気を止めることができない。自分の狂気を止めることは、自分自身を止めることと同じだから。
――彼女は、私の狂気の証だ。彼女がいるから、私は狂人でいられる。彼女がいなければ、私はただの空っぽの老人だ。
私は、そのことを胸に刻みながら、シャーペンを走らせた。彼女の名前が書かれたノートを、机の引き出しの奥にしまいながら。




