第74話 文化祭二日目、今度は真白側が危うい
文化祭二日目の朝は、一日目より少しだけ静かだった。
いや、学校全体が静かなわけではない。
校門にはすでに人がいて、昇降口では実行委員が動き回っていて、廊下には昨日の疲れを引きずった生徒たちの声が流れている。
けれど、真白の中は昨日より少しだけ落ち着いていた。
一日目を越えたからだ。
長谷川琴葉が外からの視線に晒されても、A組とB組は崩れなかった。
鳴海詩音の声が拾われかけても、風間先生が流してくれた。
真白自身も、一度だけ誰かに「見たことがある」と言われかけたけれど、ひかりが会話を逃がしてくれた。
危なかった。
けれど、守れた。
だから二日目の朝、真白は少しだけ思っていた。
今日もきっと、なんとかなる。
その油断がよくなかったのかもしれない。
◇
「おはよう」
A組へ入ると、澪が先に来ていた。
「おはよう」
真白が返す。
「早いね」
「真白も」
「昨日、早めに来るって言ったから」
「うん」
「朝倉さんも」
「言ったから」
それだけの会話だった。
けれど、妙に安心した。
昨日の放課後、みんなで言った。
明日も、おはようから始めたい、と。
そして今、本当にそうなっている。
それだけで、文化祭二日目の朝が少しだけ優しく見えた。
「はい、朝の安心感」
ひかりが机の下から顔を出した。
「どこから出てくるの」
真白が言う。
「昨日の飾り、落ちてないか確認してた」
「えらい」
「褒めてる?」
「かなり」
「やった」
ひかりは立ち上がって、入口の飾りを見上げた。
「二日目ってさ」
「うん」
「一日目より慣れてるぶん、油断しがちだよね」
「急に不穏なこと言う」
澪が言う。
「いや、ほんとに。昨日乗り切ったから、今日は大丈夫って思うじゃん」
「……」
「何その顔」
ひかりが真白を見る。
「いや」
真白は少しだけ視線を逸らした。
「ちょっと思ってた」
「やっぱり」
「でも、昨日より動き方わかってるし」
「それもそう」
ひかりは頷く。
「だから今日の合言葉は、“慣れた頃が一番危ない”で」
「交通安全みたい」
「文化祭安全」
少し笑う。
その笑いのあと、真白は入口の向こうを見た。
廊下には、まだ来場者はいない。
けれど、昨日より少しだけ、校舎全体が外に開いているように感じる。
◇
長谷川と鳴海が来たのは、その少し後だった。
「おはよう」
長谷川の声は、昨日より少し明るい。
「おはよう」
鳴海は静かに言う。
鳴海の声も、昨日の午後より少し楽そうだった。
ただ、完全に力が抜けているわけではない。
二日目の朝特有の、昨日を知っている人の慎重さがある。
「鳴海さん、声どう?」
音々が聞いた。
「朝は大丈夫」
「昼前から気をつけて」
「うん」
「水、持ってる?」
「持ってる」
「予備は?」
「長谷川さんが持ってる」
「えらい」
音々が言うと、長谷川が笑った。
「私、今日かなり準備いいよ」
「昨日の反省?」
真白が聞く。
「かなり」
「褒めてる?」
「自分を?」
「うん」
「かなり褒めてる」
教室に小さく笑いが落ちた。
昨日より、みんな少しだけ慣れている。
それは悪いことではない。
でも、ひかりの言う通り、少し怖くもある。
◇
二日目の午前は、昨日より順調に始まった。
A組の展示にも人が入り、B組の前にも来場者が流れた。
けれど、さやかが前日から導線を調整していたおかげで、昨日のように一か所へ人が溜まりすぎることはなかった。
風間先生も、昨日と同じように廊下の少し離れた場所に立っている。
ただ見ているだけに見える。
けれど、その位置にいることで、廊下の空気が妙に崩れない。
長谷川も、昨日より表情が自然だった。
見られることはある。
でも、昨日ほど刺さらない。
鳴海も声を必要最小限にし、案内はできるだけ紙と身振りで済ませている。
真白も、A組の入口近くで来場者に説明をしていた。
「こちらは準備の記録です」
「へえ、写真もあるんですね」
「はい。クラス全体で準備した過程をまとめています」
「生徒さんたちで作ったんですか?」
「そうです」
普通に話せている。
昨日より緊張していない。
そう思ったとき、来場者の一人が言った。
「このBGMって、誰が選んだんですか?」
真白は一瞬だけ止まった。
A組では、昨日から小さな音量でピアノ中心のインストを流していた。
校内の雰囲気を邪魔しないように、音々とひかりが選んだものだ。
ただ、その中の一曲だけ、真白が配信でよく弾く曲調に少し近いものがあった。
「えっと」
真白が答える前に、音々がすっと横に来た。
「クラスで選びました」
「いいですね。なんか、配信で聴いたことある雰囲気に似てて」
「ピアノ系の配信は多いですから」
音々は静かに返した。
「そうですよね」
来場者は納得したように頷いた。
真白は、内心で息を吐く。
早い。
音々の反応が早い。
「大丈夫」
音々が小さく言った。
「まだ雰囲気」
「うん」
「でも、今日そっちもあるかも」
「……」
「真白さん側」
「……だね」
そう。
昨日は長谷川と鳴海の危うさが前に出た。
でも今日、矛先が真白へ向かない保証はない。
◇
午前の中ごろ、A組に一組の男子生徒たちが入ってきた。
外部の高校生だろうか。
制服が違う。
おそらく誰かの友人か、近隣校の文化祭めぐりのつもりなのだろう。
そのうちの一人が、展示よりもBGMに反応した。
「あ、この曲調好き」
「わかる。真昼ましろっぽくない?」
「それな。ピアノの感じ」
真白の手が、紙の端で止まった。
真昼ましろ。
自分の配信名。
学校の中で、その名前が耳に入る。
昨日の鳴海の気持ちが、少し遅れて体の中に入ってきた気がした。
学校の中にまで、外の自分が来る。
それは、思っていたよりずっと嫌だった。
「ましろって、あのVの?」
「そうそう。手元だけ映るやつ」
「あー、ピアノの人」
「紅白出たやつじゃなかった?」
会話は、展示の片隅で普通に続いている。
彼らに悪意はない。
ただ、好きな配信者の話をしているだけだ。
でも真白は、背中が少し冷たくなった。
ここは学校だ。
自分は制服を着て、A組の展示を案内している。
なのに、ほんの数メートル先で“外の自分”の名前が飛び交っている。
近い。
近すぎる。
◇
「真白」
澪が横に来た。
「奥、代わる」
「……」
「今は代わる」
「うん」
真白は小さく頷いて、一歩だけ奥へ下がった。
澪は自然に入口側へ立つ。
「展示、こちらから見るとわかりやすいです」
澪の声は落ち着いていた。
「お、ありがとうございます」
「このBGMはクラス全体の雰囲気に合わせて選んでます」
「あ、そうなんですね」
「ピアノ系、好きなんですか?」
「はい。配信でよく聴くんで」
「いいですよね。作業中にも合うし」
澪は、否定しない。
流さない。
でも、真白へ向かわせない。
会話を“真昼ましろ”から“ピアノ系の配信”へ広げて薄めていく。
その処理が、あまりにも自然だった。
真白は奥で、ゆっくり息を吸った。
助かった。
でも、まだ足の先が少し冷たい。
「大丈夫?」
絵麻が近くで聞く。
「……大丈夫、ではないけど」
「戻れる?」
「うん」
「鳴海さん方式だ」
「うん」
真白は少しだけ笑った。
「今なら、すごくわかる」
絵麻はそれ以上、深く聞かなかった。
ただ、展示の紙を整えるふりをして、真白の近くに立ってくれた。
◇
問題は、それだけでは終わらなかった。
男子生徒の一人が、展示の別の場所を見ながら言った。
「でもさ、真昼ましろって中身高校生説あるよね」
「やめろよ、そういうの」
「いや都市伝説的な」
「紅白のときも顔出しなかったし」
「ピアノの手元だけって逆に気になるんだよな」
真白の呼吸が浅くなる。
その瞬間、ひかりが動いた。
「はいはい、都市伝説コーナーではなく文化祭展示コーナーでーす」
ひかりが軽く笑いながら間へ入る。
「え、あ、すみません」
「大丈夫です。配信者考察は帰ってから各自でお願いします。ここでは文化祭の努力を見てください」
「それ言い方」
男子生徒が笑う。
「文化祭の努力、けっこう手間かかってるんで」
「たしかに、これすごいですね」
「そうでしょう。そこ褒めてください。制作班が報われます」
「じゃあ、すごいです」
「ありがとうございます。今、報われました」
教室に軽く笑いが起きた。
会話が移った。
真白の名前から、展示へ。
外の噂から、学校の努力へ。
ひかりは、笑いながらちゃんと守っていた。
◇
真白は少しだけ教室の奥へ移動し、机の横に手を置いた。
思っていたよりきつい。
昨日、鳴海が「学校の中にまで外の自分の輪郭が入り込む感じ」と言っていた。
あの言葉の意味が、今はっきりわかった。
名前が聞こえる。
自分の外側の名前が、学校の中で誰かの口から出る。
それだけで、教室の床が少し不安定になる。
「真白さん」
鳴海の声がした。
振り向くと、鳴海がA組の入口に立っていた。
いつ来たのか気づかなかった。
「……聞こえた?」
「少し」
「そっか」
「こっち来る?」
「……うん」
真白は鳴海と一緒に、教室の端の椅子へ移動した。
昨日まで鳴海が座っていた、息抜き席。
今日は真白がそこに座る。
なんだか少しおかしかった。
「今度は真白さん側だったね」
鳴海が言う。
「うん」
「嫌だった?」
「かなり」
「だよね」
「……鳴海さん、昨日これだったんだ」
「うん」
「ごめん。わかってたつもりだったけど、ちょっと違った」
「謝らなくていい」
鳴海は静かに言う。
「経験しないとわからない距離ってある」
「……」
「今、近かったでしょ」
「近かった」
「うん」
「すごく、近かった」
鳴海はそれ以上言わなかった。
その沈黙がありがたかった。
◇
澪が少しして戻ってきた。
「流れた」
「ありがとう」
真白が言う。
「ひかりが強かった」
「うん。見てた」
「でも、真白も少し休んだ方がいい」
「……」
「言われる側になったね」
鳴海が静かに言う。
「ほんとに」
真白は苦笑した。
「昨日は鳴海さんに水置いたのに」
「今日は真白さんの番」
「学校って平等だね」
「強い」
鳴海が小さく笑う。
長谷川もやって来た。
「大丈夫ではないけど、戻れる?」
「その聞き方」
真白が笑う。
「昨日学んだ」
「うん」
「大丈夫ではないけど、戻れる」
「よし」
長谷川は頷いた。
「じゃあ戻れるまで、ここで休憩」
真白は、椅子に座ったまま小さく息を吐いた。
昨日は自分が鳴海を心配していた。
今日は自分が心配されている。
不思議だけれど、嫌ではなかった。
◇
風間先生がA組の前を通ったのは、そのすぐ後だった。
先生は教室の中を一度だけ見た。
真白が端の椅子に座っていること。
鳴海が隣にいること。
澪と長谷川が近くに立っていること。
ひかりが入口で来場者を流していること。
全部を一瞬で見たようだった。
「一ノ瀬」
「はい」
「五分休みなさい」
「……はい」
「戻るかどうかは、そのあと決めればいい」
「はい」
それだけ言って、風間先生はまた廊下へ戻った。
真白は少しだけ目を伏せた。
「先生、見えてるね」
鳴海が言う。
「かなり」
「でも、五分って言うの助かる」
「うん」
「永遠に休めじゃなくて、五分」
「戻れる前提」
「そう」
真白は頷いた。
「それが助かる」
五分。
たったそれだけで、少し呼吸が戻る気がした。
◇
五分後、真白は立ち上がった。
「戻るの?」
澪が聞く。
「うん」
「無理してない?」
「少しはしてる」
「正直」
「でも、戻れる」
「なら一緒に行く」
「ありがとう」
真白は入口へ戻った。
男子生徒たちは、もう展示を見終えて出ていくところだった。
ひかりが最後に笑顔で言う。
「ありがとうございました。配信者考察はほどほどに、文化祭の感想は大盛りでお願いします」
「はーい」
「展示よかったです」
「ありがとうございます」
彼らは廊下へ出ていった。
何も知らないまま。
真白のことも、何も気づかないまま。
それでいい。
真白は入口の横に立ち、展示の紙を一枚だけ直した。
「戻れたね」
ひかりが言う。
「うん」
「褒めてる?」
真白が聞くと、ひかりは少しだけ笑った。
「かなり」
真白も少し笑えた。
◇
午後へ向けて、また来場者が増えていく。
今日も、まだ文化祭は続く。
危うい瞬間はきっとまた来る。
真白だけではなく、長谷川にも、鳴海にも、澪にも。
それでも、今は昨日より少しだけわかる。
危うくなったら、誰かが前に出る。
誰かが流す。
誰かが椅子を引く。
誰かが水を置く。
誰かが五分休めと言う。
そして、戻れるなら戻ればいい。
大丈夫ではなくても、戻れる。
その言葉が、今日は真白の中で支えになっていた。
「真白」
澪が小さく呼ぶ。
「何」
「午後、無理しすぎないで」
「うん」
「でも、必要なら代わる」
「ありがとう」
「褒めてる?」
「かなり」
澪は少しだけ笑った。
真白も笑う。
文化祭二日目。
今度は真白側が危うかった。
けれど、まだ守れている。
ただの教室に、まだ戻れている。




