第73話 秘密を守る日ほど、教室の“おはよう”が大事になる
午後の文化祭は、午前より少しだけ騒がしかった。
昼食を終えた来場者が増え、廊下の声は一段高くなっている。
焼きそばの匂い。
紙コップの飲み物を持って歩く人。
呼び込みの声。
誰かが階段で笑う声。
先生に注意されて慌てて走るのをやめる生徒。
全部、文化祭らしい。
その中で、真白はA組の入口近くに立っていた。
午前中、鳴海の声に来場者が反応しかけた。
長谷川も、学校の中で“アイドルとして”見られた。
真白自身も、一瞬だけ誰かに気づかれそうになった。
けれど、まだ壊れてはいない。
教室は教室のまま。
文化祭は文化祭のまま。
鳴海はB組へ戻り、長谷川はまた笑って来場者に対応している。
澪も自然な位置で動き、ひかりは相変わらず会話を軽く転がし、さやかは廊下と教室を行き来している。
すべてが無事、とは言えない。
でも、守れている。
真白はそう思った。
◇
「一ノ瀬さん、これお願い」
さやかが紙の束を持ってきた。
「何?」
「午後の案内。入口のところに追加で置いて」
「わかった」
真白は受け取って、入口横の机に並べる。
「この位置でいい?」
「もう少し右」
「こう?」
「そう。ありがとう」
「委員長、声が少し枯れてる」
「言わないで」
「休んだ方がいい」
「休みたいけど、休んだら何か崩れそう」
「それ、休んだ方がいい人の言い方」
真白が言うと、さやかは小さく笑った。
「一ノ瀬さんにそれ言われるようになるとは思わなかった」
「どういう意味」
「前なら、自分も休まずに静かに無理する側だったから」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は案内紙の端を揃えながら言った。
「それは否定できない」
「今は?」
「今は、少しなら人に言える」
「かなり進歩」
「褒めてる?」
「かなり」
さやかはそう言って、また廊下へ戻っていった。
その背中を見送りながら、真白は思う。
今日、自分はちゃんと教室の中にいる。
見られたくないから奥へ隠れているだけではなく、必要な紙を置き、来場者に説明し、誰かに声をかけている。
それは少し前の自分なら、考えられなかったことだ。
◇
午後一番の混雑が少し引いたころ、B組から長谷川がやって来た。
「休憩いい?」
「どうぞ」
ひかりが椅子を引く。
「息抜き席、午後も営業中」
「その店名、そろそろ正式採用されそうで怖い」
「店長は鳴海さん?」
「何で」
ちょうど後ろから来た鳴海が、静かに突っ込んだ。
「いるんだ」
真白が言う。
「いる」
「大丈夫?」
「大丈夫ではないけど、戻れる」
「……そっか」
「午前と同じ答え」
「それで十分」
鳴海は長谷川の隣に座った。
午前中より顔色は戻っている。
けれど疲れは残っていた。
声の出し方も、いつもより慎重だ。
音々が近くに来て、鳴海を見る。
「鳴海さん、午後は声を減らした方がいい」
「うん」
「案内、紙を指すだけでもだいたい伝わる」
「そうする」
「水も飲んだ方がいい」
「うん」
「あと、深呼吸」
「瀬川さん、今日けっこう世話焼き」
「音だから」
「それ理由になってる?」
「なってる」
ひかりが即答した。
「かなり」
鳴海は少しだけ笑った。
声のない笑い方だったけれど、午前中よりずっと柔らかい。
長谷川は机に肘をつき、廊下の方を見た。
「午前中、ちょっと嫌だったけど」
「うん」
真白が返す。
「でも、午後になって思った」
「何を?」
「ひとりじゃないと、だいぶ違う」
「……」
「視線が来ても、隣に誰かいると、まだ学校に踏みとどまれる感じ」
「わかる」
鳴海が静かに言った。
「ひとりだと、ただ見られる人になる」
「うん」
「誰かといると、同級生になる」
「……」
真白は、その言葉をしばらく胸の中で転がした。
誰かといると、同級生になる。
それは今日の文化祭をそのまま表していた。
◇
澪が、手に紙コップを持って戻ってきた。
「水、追加」
「ありがとう」
鳴海が受け取る。
「長谷川さんも」
「助かる」
「真白も」
「私も?」
「顔が少し疲れてる」
「出てる?」
「出てる」
「何ミリ?」
ひかりが聞く。
「今日は五ミリ」
「高い」
「文化祭だから」
「単位が文化祭仕様」
小さな笑いが起きる。
真白は紙コップを受け取った。
冷たい水が、思っていたよりありがたかった。
「朝倉さん、午前中ずっと動いてたよね」
長谷川が言う。
「少しだけ」
「少しじゃない」
鳴海。
「私、かなり助かった」
「ならよかった」
「褒めてる」
「かなり?」
「かなり」
澪は静かに笑った。
その笑い方は、いつもの澪より少しだけ力が抜けている。
今日一日、澪もずっと気を張っていたのだろう。
「朝倉さんも休んだ方がいい」
真白が言うと、澪は少し驚いたようにこちらを見た。
「真白がそれ言う?」
「言う」
「……」
「何その顔」
「いや」
澪は小さく笑った。
「言われる側になると思わなかった」
「今日はみんな言われる側」
「文化祭ってそういう行事?」
「たぶん」
また笑う。
少しずつ、空気が戻っていく。
◇
午後の来場者の流れは、完全に穏やかになったわけではなかった。
ときどき、長谷川を見る視線がある。
鳴海の声に反応しかける人もいた。
真白も、一度だけ展示説明をしている最中に「動画で聞いたことある声に似てる」と言われ、ひかりに「今の時代、みんな動画で何かしら聞いてますからね」と流してもらった。
それでも午前中より、みんなの動きが自然になっていた。
長谷川が疲れたらA組に来る。
鳴海が声を使いすぎそうになったら、澪や音々が別の動きを作る。
さやかが導線を調整する。
風間先生が廊下の流れを見ている。
ひかりが会話を明るい方へ逃がす。
絵麻が、誰かの表情が沈みすぎる前に小さな言葉を置く。
木乃葉は、なぜか必要なときだけ起きて「そこ危ない」と言う。
誰も完璧ではない。
でも、ちゃんと回っている。
それが少し、文化祭らしかった。
◇
夕方近くになり、一般来場者の数が減り始めた。
廊下の騒がしさが少しずつ遠のいていく。
展示を見に来る人もまばらになり、呼び込みの声もどこか疲れたものになる。
A組の中も、少し空気がゆるんだ。
「終わった……?」
ひかりが机に手をつく。
「まだ片づけがある」
さやかが言う。
「委員長、そこは一回夢を見せて」
「片づけまでが文化祭」
「現実が強い」
木乃葉が伏せたまま言った。
「今日は木乃葉さんもけっこう働いたよね」
絵麻が言う。
「概念的には」
「物理的にも少し働いてた」
「じゃあ褒めて」
「かなりえらい」
「受け取る」
教室に笑いが落ちる。
そこへ、長谷川と鳴海がやって来た。
「B組も一段落」
長谷川が言う。
「お疲れ」
真白が返す。
「そっちも」
「疲れたね」
「疲れた」
鳴海が短く言う。
「でも、終わった」
「一日目は」
さやかが訂正する。
「明日もある」
「言わないで」
長谷川が机に突っ伏す。
「それ、B組でやらなくていいの?」
「今はA組の方が静かだから」
「褒めてる?」
ひかり。
「かなり」
鳴海は、いつもの席に座った。
もう誰もそこを不思議がらない。
真白はそれを見て、少しだけ笑った。
「何?」
鳴海が聞く。
「いや」
「また何か考えてる」
「うん」
「何を?」
「今日、ちゃんとここが避難場所になってたなって」
「……」
「避難場所」
長谷川が顔を上げる。
「うん」
「たしかに」
鳴海も小さく頷いた。
「A組、今日はかなり助かった」
「それは」
ひかりが言う。
「褒めてる?」
「かなり」
長谷川と鳴海が、ほぼ同時に答えた。
その重なり方が少しおかしくて、教室が笑った。
◇
片づけが始まる前の、ほんの短い休憩時間。
誰も大きな話はしなかった。
ただ、疲れた顔で水を飲んだり、椅子にもたれたり、机に突っ伏したりしていた。
でも、その沈黙が心地よかった。
今日一日、みんな何かを守っていた。
大げさに言えばそうなる。
けれど本人たちにとっては、たぶんもっと小さい。
隣に立つ。
声を流す。
紙を渡す。
椅子を引く。
水を置く。
先生を呼ぶ。
目立たない位置へ移動する。
見られすぎないように、ただの同級生として話す。
その積み重ねで、一日目は何とか守れた。
「ねえ」
絵麻がぽつりと言った。
「何?」
真白が見る。
「明日の朝も、普通におはようって言えたらいいね」
「……」
誰もすぐには返事をしなかった。
でも、その沈黙は同意だった。
文化祭はまだ明日もある。
危うい場面はまた来るかもしれない。
今日よりもっと近いところまで、外の視線が入ってくるかもしれない。
それでも、明日の朝、この教室で普通に「おはよう」と言えたなら。
それはきっと、かなり強い。
「うん」
真白は小さく頷いた。
「明日も、おはようから始めたい」
「それ、いいね」
長谷川が言う。
「明日もそれでいこう」
「うん」
鳴海も頷く。
「おはようから」
澪が真白の方を見る。
「真白」
「何」
「明日も早めに来る?」
「来る」
「じゃあ、私も」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「それも、ちょっと安心する」
「褒めてる?」
「かなり」
「受け取る」
教室にまた小さな笑いが落ちた。
◇
そのあと、片づけが始まった。
紙コップを捨てる。
入口の案内を明日用に直す。
倒れかけた飾りを補強する。
不要な紙をまとめる。
机の位置を少しだけ戻す。
疲れているのに、みんな手は動いた。
「このテープ、まだ使う?」
鳴海が聞く。
「使う」
さやかが即答する。
「文化祭二日目の朝、絶対どこか剥がれてる」
「経験則?」
「学校の法則」
「また出た」
長谷川が笑う。
ひかりが入口の紙を見ながら言う。
「明日は、今日より混むかな」
「たぶん」
澪。
「午前より午後が怖い」
音々。
「音で?」
「人の流れで」
「やっぱり音なんだ」
「うん」
真白は、その会話を聞きながら紙をまとめていた。
明日への不安はある。
でも、今日の朝ほどではない。
一日目を越えたからだ。
誰かが危うくなっても、完全には壊れなかったからだ。
そして何より、自分たちはもう、守り方を少し知っている。
◇
帰り際、教室の電気を消す前に、真白は一度だけ振り返った。
文化祭仕様のA組。
少しだけ乱れた机。
壁の掲示。
入口の案内。
端に置かれた椅子。
そこには、今日一日の疲れと、守れたものの跡が残っていた。
「どうしたの?」
澪が聞く。
「いや」
「うん」
「今日、ここがあってよかったなって」
「……」
「何その顔」
「今の、かなりわかる」
澪が言う。
「私も、そう思う」
廊下の向こうから、長谷川の声がした。
「明日、遅れないでよー」
「そっちこそ」
鳴海が返す。
「私は起こす側」
「怪しい」
「ひどい」
その会話が遠ざかっていく。
真白は小さく笑った。
秘密を守る日ほど、教室の“おはよう”が大事になる。
今日、それが少しだけわかった。
外の視線が入ってきても。
見られたくない人が廊下にいても。
それでも、朝に戻れる場所があれば、たぶん人は少し強くいられる。
明日もまた、おはようから始めよう。
真白はそう思いながら、A組の電気が消えるのを見届けた。




