最終話 学校では誰にも知られずに卒業したい
文化祭二日目の午後、真白は知った。
秘密というものは、暴かれた瞬間にだけ壊れるわけではない。
誰かの視線が、ほんの少し長く留まる。
誰かの言葉が、聞き慣れた名前を学校の中へ持ち込む。
誰かのスマートフォンが、何気なくこちらを向く。
それだけで、教室の床は少し揺れる。
A組の入口で、真白は展示の紙を直していた。
「このピアノの雰囲気、やっぱり真昼ましろっぽいよな」
廊下の方で、誰かがそう言った。
昨日なら、体が固まっていたかもしれない。
午前中なら、呼吸が浅くなっていたかもしれない。
けれど今は、違った。
「配信者考察はほどほどに、文化祭の感想は大盛りでお願いします」
ひかりが笑いながら流した。
「この展示、準備写真がけっこう面白いですよ」
絵麻が自然に来場者の視線を別の方へ向けた。
「通路は立ち止まらないでください。奥へ進む方は左側を空けてください」
風間先生の声が、廊下の流れを戻した。
そして澪が、何も言わずに真白の隣へ立った。
それだけで、真白は大丈夫ではなくても戻れた。
大丈夫ではない。
でも、戻れる。
その言葉を教えてくれたのは鳴海詩音だった。
今、鳴海はB組の前で長谷川琴葉と並んで立っている。
声を張らず、でも逃げずに、文化祭の案内をしている。
長谷川は昨日よりも少しだけ自然に笑っている。
“アイドルの琴葉”ではなく、B組の長谷川琴葉として、来場者に展示を勧めている。
澪は、何かあればすぐ動ける位置にいる。
音々は廊下の音を聞いている。
さやかは実行委員として導線を整えている。
木乃葉は相変わらず机に伏しているが、必要な瞬間だけ「そこ詰まる」「右、危ない」と刺してくる。
誰も派手なことはしていない。
でも、みんなで守っていた。
ただの教室を。
ただの文化祭を。
ただの同級生でいられる時間を。
◇
文化祭が終わったのは、夕方だった。
片づけの時間になると、校舎の中から少しずつ外の音が引いていった。
来場者の足音が減り、呼び込みの声が消え、廊下に残ったのは生徒たちの疲れた笑い声と、段ボールを畳む音だった。
「終わった……」
ひかりが机に突っ伏した。
「まだ片づけがある」
さやかが言う。
「委員長、最後まで現実が強い」
「現実を直視しないと明日の学校が始まらないの」
「明日の学校って言わないで。今だけ余韻に浸らせて」
「五秒なら」
「短い」
教室に笑いが起きた。
その笑いの中で、真白は入口の案内紙をはがした。
昨日貼ったもの。
今日、何度も来場者が見たもの。
今はもう、役目を終えた紙。
それを剥がすと、少しだけ寂しかった。
「真白」
澪が横に来た。
「うん?」
「終わったね」
「うん」
「守れたね」
「……うん」
その言葉に、真白はすぐには返せなかった。
守れた。
たしかにそうだった。
誰かの秘密が完全に暴かれることはなかった。
長谷川は、最後まで学校の中でアイドルとして消費されきることはなかった。
鳴海は、声を拾われかけても、学校側へ戻ってこられた。
澪も、歌う人ではなく同級生としてそこにいられた。
真白も、真昼ましろではなく一ノ瀬真白のまま、文化祭を終えた。
「すごいね」
真白が言う。
「何が?」
「ただの文化祭を守るのって、こんなに大変なんだって」
「うん」
澪は小さく笑った。
「でも、守りたいんでしょ」
「……うん」
「私も」
そこへ長谷川と鳴海が入ってきた。
「終わったー」
長谷川が椅子に座り込む。
「終わった」
鳴海も静かに言って、いつもの席に腰を下ろした。
もう、それを誰も不思議がらない。
「鳴海さん、そこ完全に定位置だよね」
ひかりが顔だけ上げて言う。
「卒業までには名札つける?」
「やめて」
鳴海が少し笑う。
「でも、いても変じゃない」
絵麻が言った。
「うん」
真白も頷く。
「全然変じゃない」
鳴海は少しだけ目を伏せた。
「それ、文化祭で一番うれしかったかも」
「何が?」
「いても変じゃないって言われること」
「……」
「褒めてる?」
鳴海が聞く。
真白は笑った。
「かなり」
◇
風間先生が教室に来たのは、その少し後だった。
「片づけは順調ですか」
「概念的には」
木乃葉が伏せたまま言った。
「柊木」
「はい」
「物理的にもお願いします」
「努力します」
「今してください」
教室に笑いが落ちる。
風間先生は表情を変えずに教室を見回した。
疲れた顔の生徒たち。
机に残ったテープ。
はがされた掲示。
少しだけくしゃくしゃになった案内紙。
そして、A組に自然にいるB組の二人。
たぶん、全部見えている。
「二日間、お疲れさまでした」
風間先生は言った。
「大きな事故もなく終えられました。皆さんが、それぞれ自分の役割を果たしたからです」
その言い方が、とても先生らしかった。
誰かの秘密を守ったとは言わない。
誰が危なかったとも言わない。
ただ、役割を果たしたと言う。
「明日は通常授業です」
「うわ」
ひかりが本気で嫌そうな声を出した。
「小鳥遊」
「すみません、心の声が」
「聞こえています」
「文化祭後に通常授業、厳しくないですか」
「学校ですので」
「強い」
真白が思わず言う。
風間先生は真白を見た。
「一ノ瀬」
「はい」
「文化祭は、学校の中でやるものです」
「……はい」
「そして明日も、学校です」
「……はい」
その言葉が、真白には不思議と嫌ではなかった。
明日も学校。
それは現実で、少し面倒で、でも今は少しだけありがたかった。
◇
文化祭が終わってからの日々は、拍子抜けするくらい普通だった。
朝になれば授業があり、提出物があり、小テストがあり、委員会があった。
長谷川はB組で普通にノートを忘れた。
鳴海はA組へ消しゴムを借りに来た。
ひかりは文化祭の写真を整理しながら「これ卒業まで使えるネタ」と言ってさやかに怒られた。
木乃葉は文化祭疲れを理由に三日ほど概念化した。
絵麻は文化祭の空気をもとに、短いアニメ企画のメモを増やした。
音々は「廊下の音が元に戻った」と言った。
澪は真白に「今日の放課後、少しピアノの話をしていい?」と聞いた。
何もなかったわけではない。
外の世界は、相変わらず近かった。
真昼ましろの配信は伸び続けた。
澪の歌は、また新しい仕事へつながった。
絵麻の原案企画は、少しずつ大人たちの会議へ上がっていった。
長谷川は、小さなライブで少しずつファンを増やした。
鳴海の声は、画面の向こうで多くの人に届いていた。
木乃葉の小説は、学校の誰かが気づかないまま読んでいた。
それでも、学校では。
朝になれば、おはようから始まった。
◇
季節は変わった。
文化祭が終わり、冬が来て、春が来て、学年が上がった。
真白たちは三年生になった。
受験。
進路。
仕事との両立。
学校行事。
外の舞台。
何度も危うい瞬間はあった。
放送室で、鳴海の声が拾われそうになった。
学校外の小さなライブで、長谷川がA組の誰かを見つけて泣きそうになった。
澪と真白が別の仕事現場で鉢合わせし、学校では言えない笑いをこらえた。
絵麻の原案作品に鳴海が関わりそうになって、ひかりが「点と点、つながりすぎ問題」と言った。
木乃葉の小説をクラスの誰かが絶賛し、本人が机に伏したまま耳だけ赤くなった。
さやかは最後まで委員長のようなことをしていたし、風間先生は最後まで風間先生だった。
そのたびに、誰かが流した。
誰かが止めた。
誰かが水を置いた。
誰かが五分休めと言った。
そして、完全には壊れないまま、時間だけが進んでいった。
◇
卒業式の日。
真白はいつもより少し早く学校へ来た。
校門の前には、もう何人かの生徒がいた。
写真を撮っている人。
泣きそうな人。
まだ実感がない顔をしている人。
真白も、実感がなかった。
この学校を卒業する。
この教室へ、毎朝来ることがなくなる。
そう思うと、胸の奥が少しだけ空いたような感じがした。
「おはよう」
声がした。
澪だった。
「おはよう」
真白は返す。
その一言で、急に胸が詰まりそうになった。
ずっと言ってきた言葉。
何でもない朝の言葉。
でも今日は、最後の制服の日の、おはようだった。
「泣く?」
澪が聞く。
「まだ」
「まだなんだ」
「たぶんあとで」
「じゃあ私もあとで」
「合わせなくていい」
「でも、たぶん同じくらいに来る気がする」
「何それ」
「予感」
二人で少し笑った。
◇
A組へ入ると、もう何人かが来ていた。
ひかりは黒板に「卒業おめでとう」と書きながら、なぜか自分で泣きそうになっていた。
絵麻は教室の風景をノートに描いていた。
木乃葉は机に伏していたが、今日は寝ているのではなく、顔を隠しているようだった。
音々は窓際で、最後の朝の音を聞いていた。
さやかは配布物を整えていた。
「卒業式の日まで配布物?」
真白が言うと、さやかは顔を上げた。
「最後まで学校は学校なの」
「それ、すごくさやかさん」
「褒めてる?」
「かなり」
「受け取る」
ドアが開き、長谷川と鳴海が入ってきた。
「おはよう」
長谷川が言う。
「おはよう」
鳴海も言う。
A組の教室に、B組の二人がいる。
卒業式の日でも、それはもう変ではなかった。
「最後まで来るんだ」
ひかりが笑う。
「来るでしょ」
長谷川が言う。
「ここ、半分くらいうちの休憩所だったし」
「息抜き席、卒業営業終了です」
「寂しいこと言わないで」
鳴海が静かに言った。
その一言で、ひかりが本当に泣きそうな顔をした。
「ちょっと待って、鳴海さんのそれはずるい」
「何が」
「静かに刺してくる」
「褒めてる?」
「かなり」
笑いが起きた。
でも、その笑いの奥に、別れの気配があった。
◇
風間先生が入ってきた。
いつも通りの顔。
いつも通りの間。
でも、少しだけ空気が違う。
「おはようございます」
「おはようございます」
最後のホームルーム。
風間先生は出席を取った。
いつも通りに。
一人ずつ名前を呼んだ。
その声を聞きながら、真白は思う。
この人は、最後まで学校を学校のままにしてくれた。
誰の外の顔も、教室の真ん中へ無理に引きずり出さなかった。
でも、必要なときは守ってくれた。
全部わかっているのに、全部を言わない大人。
その存在が、どれほど大きかったのか。
卒業の日になって、やっと少しだけわかった気がした。
風間先生は全員を見回してから、静かに言った。
「卒業おめでとうございます」
教室が静かになる。
「皆さんは今日、この学校を卒業します。ですが、ここで過ごした時間が、今日で消えるわけではありません」
「……」
「学校という場所は、将来の肩書きを作るためだけにあるのではありません。肩書きになる前の自分でいられる時間を持つためにもあります」
「……」
「皆さんには、それぞれ外で背負うものがあるでしょう。名前、仕事、評価、期待、責任。ですが、どれだけ大きなものを背負っても、ここでただの同級生として過ごした時間を忘れないでください」
真白は、息を止めた。
それは、あまりにも風間先生らしい言葉だった。
何も暴かない。
でも、全部知っている。
「最後に」
風間先生は少しだけ声を落とした。
「皆さんは、よく守りました」
「……」
「自分自身を。友人を。そして、この教室を」
「……」
「それは、とても立派なことです」
誰かが鼻をすすった。
ひかりだった。
「先生、それはずるいです」
「小鳥遊」
「はい」
「泣くのは構いませんが、式の前に顔を整えてください」
「最後まで現実」
「学校ですので」
教室に笑いが落ちた。
泣き笑いだった。
◇
卒業式は、滞りなく終わった。
体育館。
校歌。
卒業証書。
拍手。
先生たちの言葉。
保護者の涙。
体育館の天井に反響する足音。
すべてが、ちゃんと卒業式だった。
真白は壇上から降りるとき、少しだけ思った。
結局、自分は学校では誰にも知られずに卒業できたのだろうか。
完全には、違うかもしれない。
A組の何人かは知っている。
B組の二人も知っている。
風間先生は、たぶん最初からかなり見えていた。
でも、暴かれなかった。
消費されなかった。
教室の真ん中へ引きずり出されなかった。
学校では、最後まで一ノ瀬真白だった。
それなら、きっと。
叶ったのだと思う。
◇
式のあと、A組の教室には自然と人が戻ってきた。
写真を撮る人。
泣く人。
笑う人。
黒板に寄せ書きをする人。
長谷川は「最後だから」とA組の黒板にも小さく名前を書いた。
鳴海は迷った末に、その横へ小さく「また」と書いた。
「鳴海さん、それ短すぎない?」
ひかりが言う。
「でも、これがいい」
「何で?」
「終わりじゃない感じがするから」
「……」
「うわ」
ひかりが泣きそうになる。
「何その“うわ”」
「今の、かなり刺さる」
「褒めてる?」
「かなり」
絵麻は黒板の端に、小さな教室の絵を描いた。
木乃葉はその横に「概念的青春」と書いて、さやかに「最後まで何それ」と突っ込まれていた。
音々は、教室の音を忘れないようにするみたいに、しばらく黙って立っていた。
澪は、真白の隣に来た。
「卒業したね」
「うん」
「誰にも知られずに?」
「……」
真白は少し笑った。
「完全には無理だった」
「うん」
「でも、知られ方がよかった」
「……」
「壊されなかったから」
「うん」
澪は黒板を見た。
「それでいいんじゃない」
「うん」
「学校では、真白は真白だった」
「……」
「真昼ましろじゃなくて」
「……うん」
その一言で、真白は少しだけ涙が出そうになった。
◇
帰り際、風間先生が教室の前に立っていた。
「一ノ瀬」
「はい」
「卒業おめでとう」
「ありがとうございます」
「学校では誰にも知られずに卒業したかったそうですね」
「……」
真白は目を丸くした。
「先生」
「何ですか」
「それ、誰から」
「担任ですので」
「……最後まで便利ですね」
「便利ですから」
真白は笑ってしまった。
それから、少しだけ頭を下げた。
「ありがとうございました」
「何に対してですか」
「学校を、学校のままにしてくれたことです」
「……」
風間先生は少しだけ黙った。
「それは、教師の仕事です」
「はい」
「ですが、守ったのは私だけではありません」
「……はい」
「あなたたち自身です」
「……はい」
真白はもう一度、教室を見た。
ひかり。
絵麻。
木乃葉。
音々。
さやか。
澪。
長谷川。
鳴海。
みんながいた。
ただの同級生として。
◇
校門を出るとき、真白は振り返った。
卒業式の日の学校は、少し遠く見えた。
この場所で、たくさんの秘密を抱えていた。
でも、それ以上にたくさんの普通をもらった。
おはよう。
消しゴム貸して。
提出物今日まで。
ホチキスある?
水飲んだ方がいい。
五分休みなさい。
大丈夫ではないけど、戻れる。
褒めてる?
かなり。
その全部が、真白にとっての高校生活だった。
「真白」
澪が隣に立つ。
「うん」
「これからも、外ではいろいろあると思う」
「うん」
「でも」
「うん」
「戻れる場所って、作れるんだね」
「……」
「学校じゃなくなっても」
「……うん」
真白は頷いた。
学校は終わった。
でも、ここで覚えた守り方は残る。
見えても壊さないこと。
知らないふりではなく、本人が言うまで決定しないこと。
誰かが危ういときは、そっと隣に立つこと。
そして、朝になればまた、おはようから始めること。
真白は校門の外へ一歩踏み出した。
学校では誰にも知られずに卒業したい。
そう願っていた。
でも本当は、誰にも知られないことより、もっと大事なことがあったのかもしれない。
知っても壊さない人たちに出会うこと。
外の名前ではなく、ただの自分として呼んでくれる場所を持つこと。
それが、この学校で真白が手に入れたものだった。
「行こう」
澪が言う。
「うん」
真白は笑った。
もう制服の朝は来ない。
けれど、きっとまたどこかで会えば、最初の言葉は決まっている。
おはよう。
その一言からなら、どんな場所でも、もう一度始められる気がした。
完結




