第66話 声を隠したい子、ちょっとだけ弱音をこぼす
人は、本当に困っていることほど、案外うまく言えない。
痛いとか、つらいとか、嫌だとか、そういう単純な言葉にすれば済みそうなことでも、実際はそうならない。
もっと曖昧で、もっと説明しにくくて、もっと小さい違和感の積み重ねだったりするからだ。
しかもそれが、自分の大事な部分に関わることならなおさらだ。
たとえば、声。
声は、ただ出るものではない。
人によっては武器で、人によっては仕事で、人によっては名前より先に他人へ届く“自分”そのものだったりする。
鳴海詩音にとっての声は、たぶんそういうものなのだろうと、真白は最近、かなりはっきり感じていた。
だから、その日の放課後、B組から戻ってきたあとに見た鳴海の横顔が、少しだけ沈んで見えたとき、真白は見なかったふりができなかった。
◇
B組での掲示修正を終え、A組へ戻ったあとも、教室にはまだ放課後の空気が残っていた。
ひかりは「今日はもう目が色を拒否してる」と言ってポスターから離れた。
絵麻はハサミと糊を片づけながら、なぜかノートの端にまた何か描いている。
木乃葉は机に伏し、「概念的には今日はもう終業」と言っていた。
さやかは提出物の束を整え、澪は部活に行く前のギリギリの時間を教室で過ごしている。
音々は窓際で、たぶん何かを聞いている。
真白も鞄へペンを戻していた。
けれど、手は動いていても、意識の半分は別のところへ向いていた。
鳴海詩音だ。
さっきB組であった、あの一瞬。
返事の声。
それを拾いかけたクラスメイト。
長谷川が流した空気。
澪の言葉。
鳴海の「嫌なんだよね」。
全部が、真白の中にまだ残っている。
「……」
「何その顔」
ひかりがすぐ気づいた。
「何が」
「今の一ノ瀬さん、だいぶ“考えてます”顔」
「そう?」
「そう」
絵麻も頷く。
「今日は二ミリじゃなくて四ミリくらい」
「単位のインフレが早い」
真白が言うと、ひかりが少し笑う。
でもその笑いのあとで、真白は少しだけ決めた。
行こう、と。
「ちょっと」
「うん?」
澪が顔を上げる。
「B組、行ってくる」
「……」
「何その顔」
「いや」
澪は少しだけ目を細めた。
「たぶん、そうすると思った」
「……」
「褒めてる?」
「かなり」
澪が静かに言った。
真白は少しだけ肩をすくめて、教室を出た。
◇
B組の前まで来ると、教室の中はまだ完全には空になっていなかった。
数人が残っている。
文化祭前の雑談。
帰る支度。
机を寄せる音。
A組より少しだけ音量の高い、でももう夕方の柔らかさが混ざった空気。
鳴海は窓側の席で、ひとり、プリントを雑に重ね直していた。
雑に、というのは珍しい。
あの人は、手の動きが基本的に丁寧だ。
それが少しだけ乱れている時点で、やっぱり少し沈んでいるのだと思う。
真白はドアのところで一瞬だけ迷ってから、軽くノックした。
鳴海が顔を上げる。
「あ」
「……」
「何その顔」
鳴海が少しだけ笑う。
「いや」
真白は正直に言う。
「思ったより、そのままいたなって」
「いたよ」
「帰らないの」
「今、帰る気力を集めてる」
「何その言い方」
「ちょっとだけ本当」
その言い方は、わりと本当に少し疲れている人のものだった。
「入っていい?」
真白が聞く。
「うん」
鳴海は短く頷く。
「そのへんなら」
真白はB組の教室に入り、鳴海の近くの席に少しだけ腰を下ろした。
同じ学校の、隣のクラスの席。
ほんの数歩の移動なのに、少しだけ別の世界みたいな感じがする。
◇
「……」
「……」
しばらく、どちらもすぐには喋らなかった。
でも、それで気まずくならないところが最近の二人にはある。
言葉を急がなくてもいい。
むしろ、急がない方がいいこともある。
「さっき」
真白が先に口を開いた。
「うん」
「ちょっと危なかったね」
「……」
鳴海は小さく息を吐く。
「うん」
「やっぱり?」
「やっぱり」
そこで鳴海は、プリントの端を指で揃えながら、静かに続けた。
「慣れない」
「……」
「何が?」
「“学校の中にまで、外の自分の輪郭が入り込んでくる感じ”」
「……」
「うまく言えないけど」
「うん」
「別に今すぐ全部バレるわけじゃない」
「うん」
「でも、たった一言で、“あ、ここにも来るんだ”って思うときある」
「……」
「それが、少し嫌」
「……」
真白はその言葉を、そのまま受け取る。
否定しない。
大丈夫とも、気にしすぎとも言わない。
だって、たぶん違うからだ。
嫌なのだろう。
少し。
でも、本当に。
「わかる」
真白は小さく言った。
「……」
「何その顔」
「いや」
鳴海は少しだけ苦笑した。
「一ノ瀬さん、そこまでわかるんだなって、もう何回も思ってる」
「私も、全部同じではないけど」
「うん」
「でも、学校でいたい自分と、外で積み上がった自分が、急に同じ場所に立つ感じはわかる」
「……」
「それ、たまにちょっと怖い」
「……うん」
鳴海はそこで、小さく頷いた。
その“うん”は、さっきB組で出た返事よりずっと平坦だった。
でも今は、その平坦さの方がむしろ本音っぽい。
◇
「真白」
と、声がした。
振り向くと、澪がB組のドアのところに立っていた。
「来たんだ」
真白が言う。
「部活前の数分」
澪はそう言って教室に入り、少し離れた席に腰を下ろした。
「たぶん、そういう空気だと思ったから」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
澪は少し笑う。
「今のはちょっと、私もいいこと言ったなって」
「自分で言うんだ」
「今日は少しだけ」
鳴海が、そのやりとりを見て小さく笑う。
「朝倉さんも来ると、ちょっと安心する」
「……」
「何その顔」
澪が聞く。
「いや」
鳴海は少し視線を逸らした。
「歌う人って、やっぱり“出ちゃう”側だから」
「……」
「何その、かなり核心みたいな言い方」
真白が言う。
「でもそうでしょ」
鳴海。
「うん」
澪はすぐに頷いた。
「そう」
「しかも朝倉さんって、学校の中でその境目をちゃんと持ってる感じするし」
「……」
「だから、ちょっと効く」
「褒めてる?」
澪。
「かなり」
鳴海。
澪は少しだけ目を細めて、真面目な声で言った。
「学校で外の自分が出るのって、たぶん止めきれない」
「……」
「うん」
鳴海も小さく頷く。
「でも」
「うん」
「一回出たことと、そこから全部崩れることは別」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
鳴海は小さく息を吐いた。
「今の、ちょっと助かる」
「よかった」
澪は静かに言った。
「大げさに大丈夫って言われるより、そっちの方がいい?」
「うん」
「じゃあ、そっちで言う」
その会話の温度が、真白にはとても良かった。
無理に持ち上げない。
でも軽くもしない。
事実として線を引いてくれる。
そういう言葉は、たぶんちゃんと助けになる。
◇
「私」
鳴海がぽつりと言う。
「うん」
真白が返す。
「学校では、声を“ただの声”にしたいんだと思う」
「……」
「“誰かっぽい声”じゃなくて」
「うん」
「“上手い声”でもなくて」
「うん」
「ほんとに、ただ返事するだけの声」
「……」
「でも、たまにそれが難しい」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ言葉を探してから答えた。
「今の、すごく鳴海さんの本音だなって」
「本音」
「かなり」
「褒めてる?」
「かなり」
鳴海は少しだけ笑った。
笑うといっても、声のない笑いだ。
口元だけがやわらかくなる、静かな笑い。
「一ノ瀬さんって」
「何」
「たまに、ちゃんと人の言葉を“そのまま置く”よね」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ視線を逸らした。
「たぶん、自分もそうしてほしいから」
「……」
「うわ」
澪が言う。
「何その“うわ”」
「今の、かなり本音」
「褒めてる?」
「かなり」
と、澪。
鳴海はそのやりとりを見て、今度は少しだけ、ちゃんと笑った。
◇
「でも」
鳴海が言う。
「うん」
「A組といると、少し楽」
「……」
「長谷川さんとも、もちろん楽だけど」
「うん」
「A組って、こっちが何も言わなくても“そこまででいいよ”って線を持ってる感じがする」
「……」
「何その、“またA組への解像度が上がったな”みたいな顔」
真白が言う。
「だってそう」
鳴海は少しだけ肩をすくめた。
「全部説明しなくていい」
「うん」
「でも、雑に放ってもいかない」
「……」
「何その、すごく褒められてる気がする空気」
澪が言う。
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
と、真白が答えた。
たぶんそれは、本当にそうなのだろう。
全部聞かない。
でも、全部置いていかない。
A組の良さは、その曖昧でやさしい中間にある。
「学校って」
鳴海が少しだけ窓の外を見る。
「うん」
「本当は、そういう場所だといいのかもね」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「今の、かなり好き」
「褒めてる?」
「かなり」
真白が頷くと、鳴海も少しだけ目を細めた。
◇
そこで、長谷川琴葉がB組のドアから顔を出した。
「あ、いた」
「いたよ」
鳴海が言う。
「何その会話」
真白が少し笑う。
「最近そこだけ定型」
澪も笑った。
長谷川は三人の空気を一瞬で読んだらしい。
何があったか全部は聞かない。
でも少しだけ静かに入ってくる。
「終わった?」
と長谷川。
「少し」
鳴海が言う。
「何が」
「気持ちの整理」
「……」
「何その、思ったよりちゃんと言うんだなって顔」
長谷川が聞く。
「今日は少しだけ」
鳴海が答える。
長谷川はそれ以上深く聞かず、ただ近くの席に座った。
その座り方が、またよかった。
問い詰めない。
でも離れない。
これもまた、B組の守り方なのだろう。
「長谷川さん」
真白が言う。
「何?」
「今の、かなりいい友達」
「何その感想」
「褒めてる」
「かなり?」
「かなり」
真白が頷くと、長谷川は少し照れたように笑った。
◇
「じゃあ」
長谷川が言う。
「そろそろ帰る?」
「うん」
鳴海が立ち上がる。
その顔は、さっきよりだいぶやわらかかった。
「一ノ瀬さん」
「何」
「朝倉さんも」
「うん」
「ありがとう」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
鳴海は少しだけ考えてから言った。
「たぶん、こういうの」
「うん」
「“弱音”って言うんだろうなって、今思った」
「……」
「何その、“今のかなり刺さった”みたいな顔」
澪が言う。
「かなり刺さった」
真白は正直に答えた。
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
「じゃあ、よかった」
その“よかった”も、前より少しだけ普通の声に近かった。
全部を隠さない。
でも、全部を出しきらない。
その中間くらいの声。
学校では、たぶんそれが一番いいのだ。
◇
B組の前で別れ、真白と澪はA組へ戻る。
「……」
「……」
「何その顔」
澪が聞く。
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「今の、かなり大きい回だったなって」
「回って言うな」
「じゃあ、日」
「それならまだ」
「でもそうでしょ」
「そう」
澪は少しだけ頷いた。
「鳴海さん、かなり言った」
「うん」
「で、かなり戻った」
「うん」
「それ、よかった」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ目を細めた。
「朝倉さん、今日ちょうどよかったなって」
「褒めてる?」
「かなり」
「受け取る」
二人で少しだけ笑う。
弱音を言える。
それを雑にしないで受け取れる。
そのこと自体が、たぶんかなり貴重なのだろう。




