第65話 ただの相づちが、少しだけ“本物”だった
人は、気を抜いたときに一番その人らしいものが出る。
大げさな失敗とか、派手なミスとか、そういう話ではない。
もっと小さい。
もっとどうでもよくて、でも本人にとってはたぶんかなり大事なことだ。
たとえば、返事の仕方。
相づちの置き方。
驚いたときのひとこと。
そういうものには、どうしても“外で積み重ねた自分”が滲む。
真白は最近、その滲み方に少し敏感になっていた。
自分がそうだからだ。
気を抜くと、配信のテンポが会話に混ざることがある。
澪だってきっとそうだろう。
歌う人の呼吸が、日常の返事に少しだけ現れる瞬間がある。
だから、その日のB組で起きたことも、真白にはかなりはっきりわかってしまった。
◇
放課後、A組の数人はまたB組へ来ていた。
文化祭掲示の細かい修正。
前日の続きを少しだけ詰めるためだ。
メンバーは、真白、ひかり、絵麻、さやか。
澪は部活前で少し遅れて来る予定。
木乃葉は「概念的に応援」と言ってA組に残った。
音々は今日は珍しく同行している。
本人いわく、「なんか今日は行った方がよさそうだから」らしい。
B組の教室へ入ると、やはりA組より少しだけ空気の音量が高い。
誰かの笑い声。
席を立つ音。
会話のテンポ。
全部が少しだけ明るい。
「来たー」
長谷川琴葉が手を振る。
「また来た」
ひかりが笑う。
「最近ほんとに行き来してるね」
「だって、もうここまで来たら片方だけでやるより早いし」
長谷川。
「その言い方、だいぶ学校」
真白が言う。
「褒めてる?」
「かなり」
「よし」
鳴海詩音は、自席で紙を揃えていた。
A組が入ってきても、前よりは驚かない。
でも、完全に気を抜ききっているわけでもない。
そのちょうど中間の感じが、最近の鳴海らしかった。
◇
「どこまで進んだ?」
さやかが聞く。
「だいたい終わった」
長谷川が掲示を指す。
「あと最後の配置だけ」
「見せて」
ひかりがすぐ前へ出る。
「うん、いい」
「ほんと?」
「うん。でも」
「来た」
真白が言う。
「最近ほんと、それ言う係になってるよね」
ひかりが笑う。
「だって絶対あるから」
「あるよ。伸びしろは」
「その言い方がだいぶ作る側」
絵麻が笑った。
そのやりとりに、B組の数人も少し面白そうな顔をしている。
A組の会話は静かだ。
でも、静かなまま細かいところを拾う。
B組の生徒からすると、それが少し新鮮なのかもしれない。
「ここ、ちょっとだけ右」
ひかり。
「うん」
鳴海が紙の端を持ち直す。
「もう少し」
「これくらい?」
「そこ」
「……」
「何その顔」
鳴海が真白を見る。
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「今の、もう完全に自然だなって」
「何が」
「そこ、って言われて普通に動くの」
「……」
「うわ」
絵麻が言う。
「今の、かなりわかる」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
鳴海は少しだけ肩をすくめる。
でも、その反応に前ほどの硬さはなかった。
◇
作業の途中で、B組の男子が後ろから声をかけた。
「鳴海、それ終わったらこっちの掲示も見て」
「うん」
その返事だった。
短い。
たった一音節。
でも、その「うん」は、少しだけ整いすぎていた。
平坦ではない。
かといって露骨に芝居がかっているわけでもない。
ただ、声の輪郭が妙にきれいで、耳に残る。
真白はそこで、ほんの一瞬だけ顔を上げた。
隣では音々も、ほとんど同じタイミングで視線を動かしていた。
絵麻も少しだけ手を止める。
ひかりは口には出さないが、たぶん気づいた。
さやかは気づいていないふりがうまい顔をしている。
B組の女子が、つい口にした。
「今の、なんかすごく耳に残らなかった?」
「……」
一瞬、教室の空気が止まる。
危ない。
真白はすぐにそう思った。
これは“決定的”ではない。
でも、気づく人が気づくには十分な小ささだ。
◇
長谷川が先に動いた。
「何その感想」
と、わざと軽く笑う。
「鳴海、たまに返事だけ妙に真面目なんだよ」
「え、そう?」
その女子が鳴海を見る。
「うん」
長谷川はすぐに続けた。
「委員会の返事とか、やたらちゃんとしてる」
「それ、ちょっとわかる」
ひかりが即座に乗る。
「“了解しました”の温度になる人いる」
「それ」
絵麻も言う。
「学校だと、たまに“今そこだけ急に仕事?”みたいになるやつ」
「うわ、ある」
B組の別の女子が笑う。
「先生への返事だけ妙に整う人とかね」
「そうそう」
長谷川が頷く。
「詩音、それ系」
空気が、すっと戻る。
上手い。
かなり上手い。
まったく別の方向へ話題を飛ばしたわけではない。
元の違和感を、学校あるあるの中へ薄めて吸収した。
それはたぶん、B組なりの守り方なのだろう。
A組みたいに静かに止めるのではなく、明るい流れの中に混ぜて消す。
真白は少しだけ感心してしまう。
「何その顔」
長谷川が気づく。
「いや」
真白は小さく言った。
「B組の流し方、うまいなって」
「……」
長谷川は少しだけ目を細める。
「褒めてる?」
「かなり」
「よし」
と長谷川。
鳴海はその横で、ほとんど表情を動かさない。
でも、少しだけ肩の力が抜けたように見えた。
◇
少しして、作業が一区切りしたときだった。
鳴海が、珍しく自分からぽつりと言った。
「ごめん」
「何が?」
真白が聞く。
「今の」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ首を振った。
「謝るほどでは」
「でも、出た」
鳴海は短く言う。
「ちょっとだけ」
「……うん」
真白も正直に頷く。
「少しだけ」
「何その、“わかる人同士だけで話してる”空気」
ひかりが言う。
「そこ、だいぶ本質寄り?」
「寄ってる」
絵麻が頷いた。
鳴海は少しだけ視線を落とした。
「こういうの」
「うん」
「嫌なんだよね」
「……」
「何が?」
絵麻がやわらかく聞く。
「たった一言なのに」
鳴海は静かに言う。
「そこから、学校じゃない方が滲く感じ」
「……」
「何その、“今のかなり深い”みたいな空気」
ひかりが言う。
「かなり深い」
真白は答えた。
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
真白はその言葉を、自分のことのように感じた。
たった一言。
でも、そこから外の自分が滲く感じ。
それは自分にもわかる。
学校でいたい自分と、外で積み上がってしまった自分の境目が、一瞬だけ曖昧になる怖さ。
◇
「でも」
澪の声がした。
少し遅れて、B組の後ろ側から澪が入ってくる。
どうやら部活前に少しだけ寄ったらしい。
「今のは、たぶん誰でもやる」
「……」
鳴海がそちらを見る。
「部活とか、委員会とか、学校の中だけでも」
「うん」
「“返事だけ妙にちゃんとする瞬間”ってある」
「……」
「だから、今の一回で何かが決まるわけじゃない」
「……」
「何その顔」
澪が聞く。
「いや」
鳴海は少しだけ肩を抜いた。
「朝倉さんが言うと、ちょっと効く」
「褒めてる?」
澪。
「かなり」
「ならよかった」
その一往復に、教室の空気がもう一段やわらかくなる。
真白は思う。
澪はこういうとき、本当にちょうどいい。
近すぎず、遠すぎず。
でも、ちゃんと当事者側から言葉を置ける。
「学校の中で、外の癖が少し出るのって」
澪は続ける。
「うん」
「別に珍しいことじゃない」
「……」
「ただ、そのあとに誰がどう扱うかが大事」
「……」
「何その、今日はほんとにみんな本質を言う日?」
ひかりが笑う。
「褒めてる?」
澪。
「かなり」
ひかり。
鳴海はそこで、ようやく少しだけ本気で笑った。
静かな笑い方。
でも、さっきよりずっと力が抜けている。
◇
「A組って」
長谷川が言う。
「何」
真白が聞く。
「こういうとき、やっぱり強いよね」
「何が」
「“気づくけど広げない”が」
「……」
「何その、“それ最近よく言われるな”みたいな顔」
ひかりが言う。
「いや」
真白は少しだけ苦笑した。
「実際よく言われるから」
「でもそうだよ」
長谷川は肩をすくめる。
「B組は流して守る感じ」
「うん」
「A組は止めて守る感じ」
「……」
「うわ」
絵麻が言う。
「何その、ちょっと綺麗な分類」
「褒めてる?」
長谷川。
「かなり」
絵麻が頷いた。
真白はその言い方に、かなり納得した。
B組は流す。
A組は止める。
やり方は違う。
でも、やろうとしていることは同じなのだ。
◇
そのあと作業は無事に終わった。
掲示は整い、紙は揃い、B組のざわつきもまた通常営業へ戻る。
帰り際、鳴海が真白へ小さく言った。
「さっき」
「うん」
「ありがとう」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ笑う。
「私、何かした?」
「した」
鳴海は静かに言う。
「“わかる”って顔をした」
「……」
「それだけで、少し楽だった」
「……」
「何その、“今のちょっと刺さった”みたいな顔」
鳴海が少し笑う。
「かなり刺さった」
真白は正直に言った。
「褒めてる?」
「かなり」
と真白。
鳴海は少しだけ目を細めた。
「じゃあ、よかった」
「うん」
真白も頷く。
たぶん、こういうことなのだろう。
教室で人を助けるというのは、派手なことじゃない。
わかる顔をする。
広げない。
それだけで、救われる場面がある。
◇
A組へ戻る帰り道、真白は少しだけ黙っていた。
「何その顔」
ひかりが聞く。
「いや」
「何」
「B組、やっぱりすごいなって」
「何が」
絵麻が聞く。
「守り方」
「……」
「流して守る」
真白はゆっくり言う。
「A組は止めて守る」
「うん」
「違うけど、どっちもやさしい」
「……」
「うわ」
絵麻が言う。
「何その“うわ”」
「今の、かなり好き」
「褒めてる?」
「かなり」
澪も頷いた。
「わかる」
真白は少しだけ照れながら笑う。
秘密を持つ人たちが学校で生きるには、たぶん、こういう小さい守り方が必要なのだろう。
A組にも、B組にも、それぞれのやり方がある。




