第64話 A組、ついにB組の教室へ“普通に”行く
教室というものは、不思議な縄張り意識を持っている。
別に張り紙があるわけじゃない。
ここから先は他クラス立入禁止、みたいな線が引かれているわけでもない。
でも、ある。
いつも座る席。
いつもの空気。
誰がどの温度で喋るか。
笑いの起きる速さ。
沈黙が許される長さ。
そういうもの全部で、教室は「自分たちの場所」になっている。
だから、他クラスへ入るというのは、廊下一本ぶんの移動のわりに、少しだけ緊張する。
真白はその日の放課後、まさにその感覚を味わっていた。
◇
「じゃあ、行く?」
ひかりが言った。
文化祭掲示の最終仕上げのため、今度はA組側がB組へ行く流れになったのである。
メンバーは、ひかり、絵麻、さやか、そして真白。
澪は部活。
木乃葉は「概念的には同行している」と言って机に伏したまま不参加。
音々は「今日は音楽室」と言って静かに離脱した。
「行く、って軽いなあ」
真白が言う。
「だって隣だし」
ひかり。
「でもちょっと緊張する」
絵麻が小さく笑う。
「桃園さんでもそうなんだ」
真白が言うと、
「そりゃするよ」
絵麻は肩をすくめた。
「A組の外へ出る感じ、まだ少し“よそゆき”ある」
「わかる」
真白も頷いた。
「同じ学校なのに、教室変わるとちょっと違う」
「だから今回は、あくまで掲示の手伝い」
さやかがプリントを整えながら言う。
「必要以上に浮かない。必要以上に騒がない」
「委員長、完全に遠征の注意事項」
ひかりが笑う。
「学校内移動に遠征も何もないでしょ」
「でもわかる」
真白は少しだけ笑った。
四人で廊下へ出る。
ほんの数歩。
なのに、少しだけ空気の質が変わる気がした。
◇
B組の前へ着くと、長谷川琴葉がすぐに気づいた。
「あ、来た」
「来た、って」
さやかが言う。
「待ってたよ」
長谷川が笑う。
「B組、今ちょっとだけ片づけてるから、中入って大丈夫」
「何その、“片づけてるから中入って”って」
ひかりが言う。
「普通に家みたい」
「褒めてる?」
長谷川。
「かなり」
「やった」
B組へ入る。
その瞬間、真白はすぐに気づいた。
A組より、少し音が高い。
うるさい、ではない。
ただ、会話の立ち上がりが一段早く、笑いの反応も少し明るい。
A組の静けさとは違う種類の落ち着きだ。
「……」
「何その顔」
ひかりがすぐに真白を見る。
「いや」
真白は小さく言う。
「思ってたより、音が明るい」
「うわ」
長谷川が笑う。
「何その感想、めっちゃA組の人」
「でもわかる」
鳴海詩音が少し離れた席から言った。
「B組、たぶんA組より半音高い」
「半音」
絵麻が笑う。
「その表現、ちょっと好き」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
真白はそこで少しだけ安心した。
鳴海がいる。
長谷川がいる。
その二人がいるだけで、B組の空気の中にも踏み込みやすい。
◇
「こっち」
長谷川が掲示物の広げられた机を示す。
「うわ、B組も紙多い」
ひかりが言う。
「文化祭前はどこも紙の密度おかしい」
さやかが真顔で答える。
「それはかなり学校」
真白が言うと、
「褒めてる?」
長谷川が聞く。
「かなり」
「最近その確認、ほんと万能だね」
「便利だから」
と、B組の男子が何気なく言った。
一瞬、A組側が止まる。
「……」
「……何その空気」
その男子が言う。
「いや」
ひかりが笑い出した。
「B組にまで感染してる」
「何が」
「“便利だから”」
「ああ」
長谷川が納得したように頷く。
「それ、A組語」
「何その言い方」
真白が言う。
「でもちょっとわかる」
鳴海も少し笑っていた。
こういうところだ。
教室が違っても、会話の癖みたいなものは案外簡単に伝染する。
◇
「で、どこ直す?」
ひかりがすぐに仕事モードに入る。
「ここ」
長谷川が掲示を指差した。
「全体のバランスがちょっと落ち着かない」
「うん、わかる」
ひかりは一歩引いて見た。
「文字の塊が右に寄ってる」
「それ」
と絵麻。
「あと余白の呼吸が狭い」
「何その、急にクリエイターの会話」
B組の女子が言う。
「A組、そういう感じなんだ」
「たぶんそういう感じ」
真白が答える。
「褒めてる?」
ひかりが聞くと、
「半分くらい」
その女子が笑った。
さやかは別方向から見て言う。
「学校掲示としては、タイトルが少し目立ちすぎ」
「うわ」
長谷川が言う。
「その観点、やっぱり委員長強い」
「褒めてる?」
さやか。
「かなり」
長谷川。
鳴海は何も言わずに紙の端を押さえていたが、絵麻が指で位置を示すと、すっと動かしてくれる。
その動きが前よりずっと自然だ。
真白はそれを見ながら、少しだけ不思議な感覚になる。
A組ではもう鳴海は“ちょっと頼まれる人”になっていた。
でもB組ではもともと、その席にいる人なのだ。
その二つが重なると、妙に立体的に見える。
◇
しばらくして、B組の別の生徒が、何気なく鳴海へ声をかけた。
「鳴海、その赤ペン取って」
「うん」
たったそれだけの返事だった。
短い。
平熱。
でも、真白はほんの一瞬だけ、目を上げた。
声が整っていた。
整いすぎていた、と言ってもいい。
仕事の声、というほどではない。
でも、ただの無造作な返事より、少しだけ輪郭がきれいだ。
「……」
「……」
真白が反応したのと、音々がここにいればたぶん同じ顔をしただろうな、と思う。
すると、その近くにいたB組の女子が言った。
「今の、ちょっと誰かに似てない?」
「……」
空気が一瞬だけ止まる。
来た。
と思ったのは、真白だけではないはずだ。
長谷川が先に動いた。
「何その雑な感想」
と笑いながら紙を持ち上げる。
「それより、このタイトル位置見て」
「え、あ、ごめん」
その女子はすぐに掲示の方へ意識を戻した。
ほんの一瞬。
でもたしかに危なかった。
鳴海は何も言わない。
ただ、表情だけがほんの少しだけ固くなっている。
真白は、胸の奥が少しひやりとするのを感じた。
やっぱり、B組の方が少しだけ危うい。
音量が高いぶん、勢いで線を越えそうになる瞬間がある。
◇
その空気を、ひかりが自然にずらした。
「ねえ、B組ってこの配色好きなの?」
「え?」
長谷川が振り向く。
「うん」
「A組だともっと寒色寄りになる気がする」
「それ、ちょっとわかる」
絵麻も言う。
「B組の方があたたかい色使う」
「何その分析、ちょっと面白い」
B組の女子が食いつく。
「A組ってそんなに静かなの?」
「静か」
長谷川が言う。
「でも濃い」
「何その口コミ」
真白が言うと、教室に笑いが起きた。
空気が戻る。
よかった、と真白は思う。
こういうふうに、誰かがわざとらしくなく話題をずらせるのは本当に助かる。
そしてその“ずらし方”が、今やA組だけでなく、長谷川琴葉の中にも自然にある。
それがたぶん、B組で鳴海を守ってきた方法なのだろう。
◇
「B組って」
真白が小さく言う。
「何?」
長谷川が聞く。
「ちゃんと守り方あるんだね」
「……」
その一言に、長谷川は少しだけ目を細めた。
「何その、急に本質みたいなこと言う」
「いや」
真白は少しだけ息を吐く。
「今の見てて、そう思ったから」
「……」
「うん」
長谷川は小さく頷いた。
「A組ほど静かには止められないけど」
「うん」
「B組なりに、流す」
「……」
「何その顔」
長谷川が真白を見る。
「いや」
真白は少しだけ照れたように言う。
「それ、かなり大事だなって」
「褒めてる?」
「かなり」
そのやりとりを、鳴海は少しだけ黙って聞いていた。
でもその表情は、さっきより少しだけやわらいでいる。
◇
掲示の修正がひと段落すると、B組の空気もまた少しゆるんだ。
「A組って、思ったより普通に来るんだね」
さっきのB組女子が言う。
「何その感想」
ひかりが笑う。
「もっと“静かに手伝って静かに帰る”かと思ってた」
「それ、ちょっとわかる」
真白が言う。
「私たちも来る前は少しそう思ってた」
「うわ、相思相愛じゃん」
ひかり。
「その言い方やめて」
さやかが即答する。
「でも今のはちょっと面白い」
絵麻が笑った。
真白はそこで少しだけ思う。
教室って、外から見ると案外単純化されるのかもしれない。
静かなA組。
にぎやかなB組。
でも実際に入ってみると、そんなに単純でもない。
A組にも熱があるし、B組にも守り方がある。
そのことが少しずつ見えてくるのは、なんだか面白かった。
◇
帰る前、鳴海がふいに真白へ小さく言った。
「さっき」
「うん」
「ちょっと危なかった」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は正直に言う。
「わかったから」
「うん」
「でも、長谷川さんがすぐずらした」
「うん」
「すごいね」
「……」
鳴海は少しだけ笑った。
「学校で助けられるのって、派手じゃない方がいいから」
「……」
「何その、“今のかなり深い”みたいな顔」
「かなり深い」
真白は答えた。
「褒めてる?」
「かなり」
鳴海は少しだけ目を伏せ、それから言った。
「A組も、そうだよね」
「うん」
真白は頷く。
「たぶん、似てる」
「……」
「何その顔」
「いや」
鳴海は小さく息を吐いた。
「じゃあ、ちょっと安心した」
その“安心した”は、前よりずっと軽かった。
だからこそ、本物に聞こえた。
◇
A組へ戻る帰り道、真白は少しだけ考え込んでいた。
B組は明るい。
A組は静か。
でも、どちらにも“壊さないやり方”がある。
それぞれ違う形で、人の外側を学校の中へ持ち込みすぎないようにしている。
そのことを知れたのは、今日の大きな収穫だった。
「何その顔」
絵麻が聞く。
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「A組だけじゃないんだなって」
「何が」
「教室の守り方」
「……」
「うん」
絵麻がやわらかく頷く。
「それは私も思った」
「今の、かなり好き」
ひかりが言う。
「褒めてる?」
真白。
「かなり」
教室へ戻ると、空気はまたA組の静かな濃さに戻る。
でも真白の中では、B組との距離が、前よりまた少しだけ近くなっていた。




