第63話 B組の二人、ついにA組の放課後に普通にいる
教室と教室の距離は、廊下一本ぶんしかない。
たったそれだけなのに、ずいぶん遠いことがある。
逆に、気づけば拍子抜けするくらい近くなっていることもある。
最近の真白にとって、2年A組と2年B組の距離は、少しずつ後者へ傾いていた。
長谷川琴葉が来る。
鳴海詩音が来る。
プリントを取りに来る。
ホチキスを探しに来る。
ノートを返しに来る。
移動教室の番号を確認しに来る。
消しゴムを借りに来る。
ついでにアンケートを運ぶ。
ホチキスを貸す側にも回る。
全部、びっくりするくらい地味だ。
でも、たぶん教室同士の距離が縮まるときって、そういうものなのだろう。
大事件ではなく、地味な現実が何度も往復する。
その結果、ある日ふと、
あれ、もう普通に行き来してるな
となる。
その日の放課後が、まさにそういう日だった。
◇
文化祭前の放課後は、紙と道具の密度が異常に高い。
机の上には、色見本、クラス紹介、掲示用の紙、仮ポスター、提出控え、ハサミ、テープ、予備の画鋲。
もはや授業用の机ではなく、簡易作業台の様相を呈していた。
「これ、やっぱりタイトルもうちょっと上かな」
ひかりがポスターを少し離して眺める。
「二ミリ」
木乃葉が机に伏したまま言う。
「何でその姿勢でわかるの」
真白が言う。
「概念的視覚」
「便利だね」
とひかり。
「便利だから」
と木乃葉。
「そこだけ反応速度が速いんだよなあ」
さやかがため息をつく。
絵麻は糊で紙を貼りながら笑っている。
澪は部活前なのに、なぜかまだ残っている。
音々は窓際で外の音を聞いているようで、でも時々こちらの会話へ本質だけ投げてくる気配がある。
真白はその中で、カッターの刃を閉じながら思う。
ああ、最近この放課後の空気が、ずいぶん好きになった。
前は早く帰ることしか考えていなかったのに。
そのときだった。
ノックもなく、でも遠慮はある感じで、A組のドアが少しだけ開いた。
「あ」
と絵麻。
「来た」
とひかり。
「何その“来た”」
と真白。
顔を出したのは、長谷川琴葉だった。
そのすぐ後ろに、鳴海詩音もいる。
長谷川は少しだけ眉を上げる。
「何、その歓迎ムード」
「最近わりと来るから」
ひかりが笑う。
「もう“誰だろう”じゃなくて“どっちだろう”の段階」
「ひどい」
長谷川が言う。
「でもちょっとわかる」
鳴海が静かに付け足した。
そこで教室に、小さな笑いが落ちる。
その笑い方も、前よりずっと自然だった。
B組の二人がA組にいても、空気がもう過剰に止まらない。
◇
「どうしたの?」
さやかが聞く。
「文化祭掲示の最終確認」
長谷川が言う。
「B組の分、一回見てほしい」
「うわ」
ひかりが言う。
「何その“うわ”」
「いや、ついに“相談しに来る”が普通になってきたなって」
「褒めてる?」
長谷川。
「かなり」
「それならよし」
長谷川は腕に抱えていた紙の束を机の上へ置いた。
鳴海はその横で、無言のままテープと予備のクリアファイルを出す。
その動きに、真白はふと目を止めた。
「……」
「何その顔」
鳴海が気づく。
「いや」
真白は少しだけ言葉を選ぶ。
「もう鳴海さん、来るだけの人じゃなくて、完全に“作業持ってくる人”だなって」
「うわ」
絵麻が笑う。
「何それ、ちょっといい」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
真白は頷いた。
鳴海は少しだけ照れたように目を逸らしたが、ちゃんと笑っていた。
その表情が、前より一段柔らかい。
◇
「どれどれ」
ひかりがB組の掲示を手に取る。
「うん、いい」
「ほんと?」
長谷川が聞く。
「うん。でも」
「来た」
と真白。
「何その“来た”」
今度は長谷川が言う。
「最近ひかりちゃん、絶対“でも”がある」
「そりゃあるよ。伸びしろが見えるもの」
「その言い方、だいぶ作る側」
澪が笑う。
ひかりは紙を少し傾けた。
「文字詰めすぎ」
「あー」
と長谷川。
「やっぱり」
「あと、ここ」
絵麻が指差す。
「説明が少し固い」
「それな」
木乃葉が伏せたまま言う。
「“地域とのつながりを大切に”って、また外向け癖」
「また言われた」
長谷川が頭を抱える。
「それ、そんなに出る?」
「かなり出る」
真白が言う。
「今の長谷川さんの文章、だいぶ“ちゃんとした大人に見せる資料”の顔してる」
「うわ」
長谷川が真白を見る。
「一ノ瀬さん、そこまでわかるんだ」
「まあ、少し」
「その“少し”の信用度、最近どんどん落ちてる」
ひかりが笑った。
また教室が少し笑う。
真白も笑いながら、少しだけ思う。
前なら、自分からこういう分析っぽいことはあまり言わなかった。
今は言える。
しかも、言ってもこの教室は変にざわつかない。
それもまた、小さくない変化だった。
◇
「じゃあ、これ削って」
さやかが言う。
「ここは“みんなが楽しめる”で十分」
「うん」
「あと“今後の発展も見据え”はいらない」
「またそこ」
長谷川が肩を落とす。
「学校では未来を盛りすぎない」
「委員長、学校文法に強すぎる」
ひかり。
「褒めてる?」
さやか。
「かなり」
「最近そこだけは素直に受け取れるようになってきた」
鳴海はその横で、何も言わずに紙を押さえていた。
でも、その“押さえる”が妙に自然だった。
「鳴海さん」
絵麻が聞く。
「何?」
「そこ、もう少し左」
「こう?」
「うん、それ」
「……」
「何その顔」
鳴海が真白を見る。
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「今の、完全にA組の作業班だったなって」
「作業班」
澪が笑う。
「何その、妙に学校らしい名称」
「でもわかる」
ひかりが言う。
「今の鳴海さん、普通に班の一人」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
と、今度はA組側の何人かがほぼ同時に言った。
鳴海は少しだけ肩をすくめる。
「最近そればっかり」
「便利だから」
木乃葉。
「もうその返しを使う側になってるのが一番変化なんだよなあ」
真白が言うと、今度は鳴海が少しだけ吹き出した。
◇
しばらくすると、作業は思ったよりさくさく進んだ。
ひかりが見せ方を整える。
絵麻が文の柔らかさを見る。
さやかが学校的なバランスを取る。
木乃葉が文量の無駄を切る。
音々が一回だけ「その紙、光で見えにくい」と本質を言う。
澪が端を押さえ、真白が余った紙をまとめる。
長谷川が必要な修正をメモし、鳴海が位置を合わせる。
役割が、妙に自然に分かれている。
「……」
「何その顔」
澪が真白を見る。
「いや」
真白は素直に言う。
「もう普通に一緒にやってるなって」
「うん」
澪も頷く。
「だいぶそう」
「最初はプリントだったのに」
絵麻が笑う。
「そこからここまで来るんだね」
「学校の入口、だいたい地味」
長谷川が言う。
「でも、そこから始まる」
「何その、ちょっといいこと言ったみたいな顔」
ひかりが笑う。
「褒めてる?」
長谷川。
「かなり」
ひかりが答えた。
真白はその流れを見ながら、胸の奥で静かに納得していた。
そうだ。
最初はプリント。
そこからホチキス、ノート、消しゴム、回収箱、そして掲示作業。
人間関係って、案外こういう順番なのかもしれない。
◇
完成した掲示を少し離れて眺める時間になる。
「いい」
ひかりが言う。
「うん」
絵麻も頷く。
「だいぶ学校っぽい」
真白が言う。
「それ褒めてる?」
長谷川が聞く。
「かなり」
真白。
「学校掲示に必要な褒め方って何」
鳴海が言うと、
「“ちゃんと浮いてない”」
さやかが即答した。
「うわ、強い」
と澪。
「でも、正しい」
絵麻。
「かなり」
真白も頷く。
鳴海は完成した掲示を見て、少しだけ目を細めた。
「A組って」
「何?」
絵麻が聞く。
「こういう“目立ちすぎない整え方”がすごく上手い」
「……」
「何その顔」
真白が言う。
「いや」
鳴海は少し考えてから言う。
「学校の中で浮きすぎないようにする感じ、たぶんA組みんなうまい」
「うわ」
ひかりが言う。
「何その、急に全体の解像度高い」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
と、絵麻が頷く。
真白はそこで少しだけどきりとする。
学校の中で浮きすぎないようにする。
それは、自分がずっとやってきたことでもある。
でも今それを、外から来た鳴海が教室全体の特徴として言った。
それが妙に、腑に落ちた。
◇
作業が終わっても、B組の二人はすぐには帰らなかった。
それが、もうかなり自然だった。
長谷川は机の角に軽く寄りかかり、鳴海はいつもの席に座ったまま、教室の空気が少しゆるむのを待っているみたいな顔をしている。
前なら、用事が済んだら帰っていた。
でも今は違う。
「……」
「……」
「何その顔」
ひかりが真白を見る。
「いや」
真白は少しだけ笑う。
「もうほんとに、“いていい場所”になってるなって」
「うん」
絵麻が頷く。
「だいぶ」
「何その、“その言葉ちょっと待ってた”みたいな空気」
鳴海が言う。
「いや」
真白は少し照れながらも言った。
「今のはかなり本音」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
真白。
鳴海は少しだけ目を伏せ、それから小さく笑った。
「それ、うれしい」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は息を吐く。
「最近その“うれしい”が、前よりちゃんと声に出るなって」
「……」
「うわ」
絵麻が笑う。
「今の、それもかなりいい」
「褒めてる?」
真白。
「かなり」
教室にまた、小さな笑いが落ちる。
◇
そのあと長谷川が先に立ち上がった。
「じゃ、そろそろ戻る?」
「うん」
鳴海も頷く。
「今日はだいぶ長居した」
「してた」
ひかりが笑う。
「かなり」
澪も言う。
「でも、別に変じゃなかった」
絵麻が言うと、
「うん」
真白も頷いた。
「全然変じゃない」
「……」
「何その顔」
鳴海が聞く。
「いや」
真白は少しだけ言いづらそうに言う。
「それ、かなり大きいことだなって」
「何が」
長谷川。
「“全然変じゃない”って言えるの」
「……」
「何その、“また本質側から来たな”みたいな空気」
ひかりが言う。
「だってそうだし」
木乃葉が伏せたまま言う。
「最近の一ノ瀬、そこちゃんと拾う」
「褒めてる?」
真白。
「かなり」
と木乃葉。
真白は少しだけ笑う。
たしかに、そうなのだ。
“変じゃない”って、教室ではとても大きい。
その言葉の中に、かなり多くのものが含まれている。
◇
「じゃあ、また」
長谷川が言う。
「また」
鳴海も続ける。
その“また”が、前より軽い。
でも軽いまま、ちゃんと届く。
「うん」
絵麻。
「また」
真白も返す。
「次は何の相談かな」
ひかりが笑う。
「もう何でも相談窓口みたいに言うな」
さやかが言う。
「でも学校では、そういうのが一番距離縮まる」
澪が静かに言う。
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
澪は少しだけ笑った。
「今の、かなり自分で言ってて納得した」
「褒めてる?」
ひかり。
「かなり」
と澪。
最後にまた笑いが起きて、長谷川と鳴海はB組へ戻っていった。
◇
ドアが閉まったあと、真白は少しだけ窓の外を見た。
日が落ちかけている。
部活の声が遠くでしている。
校舎の中は、文化祭前の少しざわついた空気だ。
でもこの教室の中は、変わらず静かで、少しだけ濃い。
「……ほんとに、普通になってきたね」
真白がぽつりと言うと、
「うん」
絵麻が頷く。
「それが一番大きい」
「最初のプリントのころには戻れない感じ」
ひかりが笑う。
「戻らなくていい」
さやかが言う。
「今の方が自然」
「……」
「何その顔」
澪が聞く。
「いや」
真白は少しだけ息を吐いてから言った。
「“普通になる”って、こんなに大事なんだなって」
「……」
「うわ」
絵麻が言う。
「何その“うわ”」
「今の、かなり好き」
「褒めてる?」
真白。
「かなり」
と、今度は澪と絵麻が一緒に言った。
そのことが少しだけ可笑しくて、真白も笑った。
A組とB組の距離は、たぶんこうして日常になる。
劇的ではなく、掲示の相談とか、紙の束とか、帰り際の“また”で。




