第62話 “ちょっと頼まれる”が増えると、教室の空気はもう少しだけ近くなる
教室の空気というものは、たぶん目には見えないくせに、やけに具体的だ。
誰がどこに立つと自然か。
誰が何を言うと笑いになるか。
どのくらいの沈黙なら気まずくないか。
そういうものが、ちゃんとある。
そして最近の真白は、それを前より少しだけ細かく感じ取れるようになっていた。
前は、ただ“静かな教室”だと思っていた。
今は違う。
静かなのに、ちゃんと流れがある。
その流れの中へ人がどう入ってくるかまで、少しずつ見えるようになってきた。
その日の放課後も、2年A組の空気はいつも通り静かなのに、どこか少しだけ忙しかった。
◇
「これ、誰が貼る?」
と、ひかり。
「何を」
とさやか。
「文化祭の仮注意書き。“画鋲は元の位置に戻してください”ってやつ」
「うわ、学校」
真白が言う。
「好きだねその反応」
澪が少し笑う。
「だって、ほんとに学校っぽい」
「かなり」
絵麻も頷いた。
木乃葉は机に伏していたが、今日は“概念二割”くらいでだいぶ人類寄りだ。
音々は窓際で外の音を聞いているような顔をしていたが、会話はちゃんと拾っている気配がある。
「貼るだけなら誰でもいいのでは」
と木乃葉。
「その“誰でもいい”でだいたい委員長に来るのをやめたい」
さやかが言う。
「委員長って大変だね」
真白が言うと、
「今さら?」
とひかり。
「でも褒めてる?」
とさやか。
「かなり」
と真白。
そのやりとりの最中、ドアがまた少しだけ開いた。
このところのA組は、この開き方でだいたい予測がつく。
B組の誰かだ。
「あ」
と絵麻。
「今日はどっち?」
とひかり。
顔を出したのは、鳴海詩音だった。
でも珍しく、一人ではなかった。
その後ろに長谷川琴葉もいる。
「何その、二人セットで来るのがもう普通になってる感じ」
真白が言う。
「実際ちょっと普通になってる」
長谷川が笑う。
「褒めてる?」
「かなり」
と真白。
◇
「どうしたの?」
さやかが聞く。
長谷川が、手に持っていた紙をひらひらさせる。
「B組の掲示で余った画鋲、返しに来た」
「うわ」
ひかりが言う。
「入口がさらに地味」
「今日ほんとに学校の備品」
澪も笑う。
「だいぶ好き」
絵麻。
「褒めてる?」
長谷川。
「かなり」
鳴海は、その横で小さな箱を持っていた。
画鋲が入っているらしい。
箱ごと差し出しながら言う。
「あと、先生が“A組のも余ってたらまとめといて”って」
「うわ」
今度は真白だけでなく、さやかまで言った。
「何その“うわ”」
鳴海が少し笑う。
「いや」
さやかが額に手を当てる。
「それ、完全に“ついでにA組も巻き込まれた学校仕事”なのよ」
「でも自然」
と木乃葉。
「だいぶ自然」
と絵麻。
真白は思う。
これだ。
また少し進んだ。
ただ来るだけじゃない。
ただ借りるだけじゃない。
今はもう、A組とB組の間で、
備品のついで仕事が自然に往復する
ところまで来ている。
それはかなり学校で、かなり地味で、でも居場所としては大きい変化だった。
◇
「じゃあ、そこ置いて」
ひかりが机の端を示す。
鳴海は少し迷いなくそこへ箱を置いた。
その動きがまた、前よりずっと自然だった。
「鳴海さん」
真白が言う。
「何」
「今日、入ってくるのさらに自然だったね」
「……」
「何その顔」
ひかりが笑う。
「いや」
鳴海は少しだけ視線を逸らす。
「最近、それよく言われるなって」
「実際そうだし」
澪が言う。
「かなり」
絵麻も頷く。
鳴海はほんの少しだけ肩をすくめた。
「だって」
「うん」
「A組って、最近“入っていい?”を言う前に、だいたい空気が“入っていい”になってる」
「……」
「何その、“それ言われるとうれしい”みたいな沈黙」
ひかりが言う。
「いや」
真白は素直に言った。
「かなりうれしい」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
と真白。
今のは本当にそうだった。
空気が“入っていい”になっている。
それは教室として、かなり大きいことだ。
◇
そこへ、さやかがすぐ実務へ戻る。
「じゃあついでに、A組の余りも数えよう」
「ついでの規模がでかい」
ひかりが言う。
「学校仕事ってそういうもの」
さやかが真顔で返した。
結局、A組とB組合同みたいな画鋲整理会が始まった。
「赤、何本?」
さやか。
「五」
長谷川。
「いや、六」
鳴海。
「どっち」
真白が聞く。
「一本、箱の角」
音々が静かに言う。
「うわ、見えてる」
ひかりが笑う。
「音の人、今日は視力まで強い」
「褒めてる?」
音々。
「かなり」
と絵麻。
木乃葉は伏せたまま言った。
「画鋲って、色分け必要?」
「必要」
さやかが即答する。
「学校掲示の秩序があるの」
「そこに秩序あるんだ」
真白が言うと、
「委員長、そういうところで生きてる」
ひかりが笑う。
「何その言い方」
「褒めてる?」
「かなり」
ひかり。
鳴海はその会話を聞きながら、少しだけ笑っていた。
前より、その笑いが会話の流れに乗っている。
◇
「B組って」
絵麻が長谷川に聞く。
「うん?」
「こういう備品整理、誰が仕切るの?」
「だいたい私」
長谷川。
「うわ、やっぱり」
真白が言う。
「何その“やっぱり”」
「なんか似合う」
「それは褒めてる?」
「かなり」
真白が言うと、長谷川が少しだけ得意げに笑う。
「鳴海さんは?」
と澪。
「私は……」
鳴海は少しだけ考えた。
「仕切るっていうより、隣で数える方」
「うわ」
ひかりが言う。
「何その、めちゃくちゃ想像つく役割」
「わかる」
絵麻も頷く。
「だいぶわかる」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
と、今度はA組の数人がわりと揃って言った。
鳴海は少しだけ照れたように笑う。
「でも」
真白がぽつりと言う。
「何?」
鳴海が見る。
「その“隣で数える方”って、すごく大事だよね」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ言葉を探しながら言う。
「前に出る人も必要だけど、横でちゃんと数を合わす人がいないと、教室の仕事って普通に崩れるし」
「……」
「今の、かなり好き」
絵麻が言う。
「褒めてる?」
「かなり」
澪も頷いた。
「わかる」
鳴海は少しだけ目を伏せて、それから小さく言った。
「……それ、うれしい」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「そこ、うれしいって言うんだなって」
「言うよ」
鳴海が言う。
「学校では、そういう役割の方が楽なときあるし」
「……」
「それ、わかる」
真白は頷いた。
たぶん、自分もそうだ。
前に立つより、横で流れを整える方が楽なことがある。
でも、それがただ“引いている”だけじゃなくて、ちゃんと役割として見てもらえるなら、居心地はずっといい。
◇
画鋲整理が一段落すると、長谷川がふいに言った。
「A組って、頼み方うまいね」
「何が」
さやかが聞く。
「“これやって”が、命令っぽくなくて自然」
「……」
「何その、“その評価は初めてだな”みたいな空気」
ひかりが笑う。
「いや」
さやかが少しだけ考えながら言う。
「たぶん、頼む側も頼まれる側も、“同じようにいろいろ抱えてる”って思ってるからじゃない?」
「……」
「うわ」
真白が言う。
「何その“うわ”」
「今の、かなり本質」
「褒めてる?」
さやか。
「かなり」
たしかにそうだ。
この教室では、誰かを雑に使う感じが少ない。
それはたぶん、全員が多少なりとも“学校の外に自分の事情がある”のを、うっすら知っているからだ。
だから頼むときも、少しだけ相手の重さを残したまま頼む。
その加減が、居心地の良さにつながっているのかもしれない。
「B組は?」
と絵麻。
「B組は……」
長谷川が少し笑う。
「もうちょい勢い」
「うわ、わかる」
鳴海がすぐ頷く。
「“これ持って!”が先に飛ぶ」
「それはそれで学校だなあ」
真白が言う。
「かなり」
澪も笑った。
◇
少しして、箱を片付ける流れになった。
「じゃあこれ、職員室前の棚」
さやかが言う。
「あ、私持つ」
長谷川。
「私も行く」
鳴海。
「私も」
真白が言う。
一瞬、教室が少し静かになる。
「何その、“また行くんだ”みたいな顔」
真白が言う。
「いや」
ひかりが笑う。
「今の、一ノ瀬さんだいぶ自然に入ったなって」
「最近そういうの増えた」
絵麻も頷く。
「前なら、たぶん一拍置いてた」
「……」
「何その顔」
澪が聞く。
「いや」
真白は小さく息を吐いた。
「たしかに、そうかも」
「認めるんだ」
「最近は少し」
それで十分だった。
職員室前までの短い廊下を、また三人で歩く。
今度は長谷川、鳴海、真白。
外での肩書きは置いてある。
ただ、学校で備品を返しに行く三人だ。
でもその平熱の中に、少しだけ安心がある。
「一ノ瀬さん」
鳴海が歩きながら言う。
「何」
「最近、“じゃあ私も”って自然に言うね」
「……」
「何その、今日それ言われる日なのかなって顔」
長谷川が笑う。
「いや」
真白は少しだけ視線を前に向けたまま言う。
「たぶん、前よりこの教室の中で動きやすくなったから」
「……」
「何その、“今のかなりいい”みたいな沈黙」
真白が言う。
「かなりいい」
鳴海が言った。
「褒めてる?」
「かなり」
と、長谷川。
真白は少しだけ照れたように笑う。
でも、悪くない。
こうして言葉にされても、前ほど逃げたくならない。
それもまた、自分の小さい変化なのだろう。
◇
棚に箱を戻し、三人で教室へ帰る途中、真白はふと思った。
頼まれる。
頼む。
持つ。
返す。
そのくらいの小さい往復の中で、人は教室の空気へ入っていく。
特別な歓迎ではない。
でも、その方がたぶんずっと自然だ。
「……」
「何その顔」
長谷川が言う。
「いや」
真白は少しだけ考えてから答えた。
「教室って、こうやってできていくんだなって」
「……」
「何その、“それはちょっとわかる”みたいな空気」
真白が言うと、
「かなりわかる」
鳴海が言った。
「褒めてる?」
「かなり」
と長谷川。
三人で少しだけ笑う。
A組とB組の距離は、たぶんこうして縮まっていくのだろう。
画鋲とか、棚とか、箱とか、そういうどうでもいい学校の現実を経由して。
◇
教室へ戻ると、ひかりがすぐ言った。
「どうだった?」
「何が」
真白。
「棚返却班」
「何その班名」
長谷川が笑う。
「でも、だいぶ定着してきた」
絵麻が言う。
「何が」
鳴海が聞く。
「“来る”から、“ちょっと一緒に動く”になる感じ」
「……」
「何その顔」
「いや」
鳴海は少しだけ考えてから言った。
「それ、たぶんほんとにそう」
「うん」
真白も頷く。
「かなり」
今日の教室は、また少しだけ近くなった気がした。
大事件はない。
でも、こういう小さい日ほど、あとからちゃんと残るのかもしれない。




