第60話 人はたぶん、教室で“ちょっと頼まれる側”になると馴染んでいく
居場所ができたかどうかは、座る時間の長さでも少しわかる。
でもそれ以上にわかりやすい指標が、ひとつあるのかもしれないと真白は思い始めていた。
それは、
“その場の小さい用事を、自然に頼まれるかどうか”
だ。
消しゴムを借りる。
ノートを返す。
プリントを取りに来る。
それはまだ、用事の“お客さん側”だ。
でも、
「これ持ってて」
「先に先生に渡しといて」
「そこ空けて」
みたいな、教室の中の小さい流れに自然に巻き込まれ始めると、人はたぶんその空気の中に少しずつ馴染んでいく。
その日の放課後、真白はそれを、かなりはっきり見た気がした。
◇
文化祭関係の掲示物が増える時期というのは、学校のあちこちが少しずつ雑然としてくる。
画用紙。
仮ポスター。
アンケート用紙。
企画書のコピー。
色見本。
掲示前のテープ。
2年A組も例外ではなく、その日の放課後は机の上がだいぶ散らかっていた。
「これ、誰が職員室に持ってく?」
と、さやか。
「どれ?」
ひかりが聞く。
「文化祭掲示の仮提出一式」
「多いなあ」
真白が思わず言う。
「それな」
澪も頷く。
「紙って、束になると急に仕事感出る」
「今のちょっとわかる」
絵麻が笑う。
「褒めてる?」
澪。
「かなり」
木乃葉は机に伏しながら「概念的には行ける」と言ったが、その時点で候補から外された。
音々は「今から音楽室」と静かに言って逃げた。
ひかりはポスター仮案を先生に見せに行く予定がある。
さやか本人は別件の委員会連絡がある。
結果、微妙に手が足りない。
「……」
「……」
「何その、みんなして“自分ではない”の顔」
さやかが言う。
「いや」
真白が言う。
「今、持てるなら持つけど、量が多いなって」
「一ノ瀬さんがそれ言うなら相当」
ひかりが笑う。
そのとき、ドアのところでノックもなく顔が出た。
「長谷川さん」
絵麻が言う。
「鳴海さんも」
真白も続ける。
B組の二人だった。
「何その、今もう自然に二人セット認識」
長谷川が笑う。
「だって最近よく一緒」
ひかりが言う。
「褒めてる?」
「かなり」
「その確認、ほんと便利だね」
長谷川。
「便利だから」
木乃葉。
「そこだけ元気」
真白が言うと、教室が少し笑った。
◇
「どうしたの?」
さやかが聞く。
「B組の掲示、先に出し終わったから」
長谷川が答える。
「もしA組まだなら、手伝えるかなって」
「……」
「……」
「……うわ」
ひかりが言う。
「何その“うわ”」
長谷川。
「いや、今のは普通にいいやつ」
「褒めてる?」
「かなり」
ひかりが即答した。
真白も少しだけ目を丸くする。
手伝えるかな、か。
長谷川琴葉はやっぱり、学校の中での動き方が少し軽い。
外で活動を公表している側だからなのか、人との接続の仕方が少し早い。
一方で鳴海は、その横で少し静かに立っていた。
でも、帰る様子はない。
つまりたぶん、手伝うつもりで一緒に来ている。
「助かる」
さやかがすぐに言った。
「じゃあ、これ」
と資料の束を持ち上げる。
「B組の分と一緒に職員室前まで運んでくれる?」
「いいよ」
長谷川が答える。
「鳴海、半分持てる?」
「持てる」
「……」
真白はそこで少しだけ思う。
来た。
これだ。
鳴海詩音が今、
A組の用事で自然に頼まれる側
に入った。
それはたぶん、かなり小さいけれど、かなり大きい変化だった。
◇
「私も持つ」
真白が言う。
「え」
さやかが見る。
「三人いた方が早いでしょ」
「……」
「何その顔」
ひかりが言う。
「いや」
真白は少しだけ言いづらそうに言う。
「今の流れ、なんか見てたら自分も入った方が自然かなって」
「うわ」
絵麻が言う。
「何その“うわ”」
「今の、だいぶいい」
「褒めてる?」
「かなり」
絵麻が笑う。
長谷川が楽しそうに言う。
「A組って、こういうとこ早いよね」
「何が」
真白が聞く。
「“じゃあ私も”って入ってくるとこ」
「そう?」
「うん。B組だともう少し、誰が行くかで一回ぐだる」
「それはわかる」
鳴海が静かに言う。
「A組、静かなのに、決まるのは早い」
「何その、微妙に組織論っぽい評価」
さやかが言う。
「でも褒めてる?」
「かなり」
鳴海が答えた。
また小さく笑いが起きる。
真白は資料の束を受け取りながら思う。
行き来が自然になるというのは、たぶんこういうことだ。
もう“来客”ではなく、教室の用事の流れに一瞬だけ参加する。
その参加が過剰に特別扱いされない。
それが少し、いい。
◇
三人と二人、つまりA組から真白、B組から長谷川と鳴海の計三人で、職員室前まで資料を運ぶことになった。
廊下を歩く。
何でもない学校の廊下。
でも、真白にとっては少しだけ不思議な光景だった。
A組の自分。
B組のアイドル。
B組の声優疑惑の子。
その三人が文化祭の紙束を抱えて歩いている。
だいぶ意味がわからない。
でも学校という文脈に置くと、妙に自然でもある。
「重くない?」
長谷川が聞く。
「平気」
真白が答える。
「鳴海さんは?」
「大丈夫」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「何その確認」
と鳴海。
「いや、なんか」
長谷川が笑う。
「詩音って、外だと平気な顔して無理することあるから」
「……」
「何その、さらっと言うんだなって顔」
鳴海が真白を見る。
「いや」
真白は少し迷ってから言う。
「学校の友達の言い方だなって」
「学校の友達だけど」
長谷川が言った。
「何その、最近みんなそういうの真っ直ぐ言う」
真白が言うと、
「一ノ瀬さんもだいぶそっち寄り」
鳴海が静かに返した。
その返しに、真白は少しだけ黙る。
たしかにそうかもしれない。
前なら、今みたいなやりとりにもう少し距離を取っていた気がする。
「でも」
鳴海が少しだけ言葉を足した。
「悪い意味じゃない」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は小さく息を吐く。
「今の、ちょっとありがたかった」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
真白。
廊下でそんな会話をしているのも、なんだか少し不思議だった。
◇
職員室前で資料を渡し、戻り道になる。
紙束がなくなると、急に三人とも手持ち無沙汰になった。
「……」
「……」
「……」
沈黙。
でも、前ほど気まずくない。
「ねえ」
長谷川が言う。
「何?」
真白が聞く。
「A組ってさ」
「うん」
「“手伝えるかな”って言ったとき、すぐ仕事くれるのいいね」
「何その感想」
真白が言う。
「いや、ほら」
長谷川は少しだけ肩をすくめる。
「たまにあるじゃん。“ありがとう、でも大丈夫”で終わるやつ」
「……」
「たしかに」
鳴海が言う。
「それだと、ちょっと外の人のまま」
「うん」
「でもA組は、普通に“じゃあこれお願い”だった」
「……」
「何その、“そこがうれしかったのか”みたいな顔」
長谷川が真白を見る。
「いや」
真白は少しだけ考えてから言う。
「それ、たぶん馴染んだってことなんだろうなって」
「……」
「何その、ちょっと意外みたいな顔」
鳴海が言う。
「いや」
真白は少し笑った。
「最近、そういうの考えること増えたから」
「一ノ瀬さん、ほんとに教室の空気を言葉にするようになったよね」
長谷川が言う。
「褒めてる?」
「かなり」
「最近その確認、多用しがち」
「便利だから?」
鳴海が聞く。
「そこ便利で済ますとまた木乃葉さんが喜ぶ」
真白が言うと、三人とも少し笑った。
◇
教室へ戻ると、ひかりが第一声で言った。
「どうだった?」
「何が」
真白が聞く。
「運搬班」
「何その班名」
長谷川が笑う。
「普通に運んで戻ってきただけ」
「でも、ちょっと空気違う」
絵麻が言う。
「そう?」
鳴海が聞く。
「うん。なんか、“来た人”じゃなくて“一緒に動いてきた人”の空気」
「うわ」
真白が言う。
「何その“うわ”」
「いや」
「何」
「今の、かなり正確」
「褒めてる?」
絵麻。
「かなり」
真白は頷いた。
たしかにそうだった。
教室に入ってきた時点で、さっきまでとは少しだけ違う。
B組の二人は、今この数分だけ、A組の用事の流れに参加した。
それだけで、空気の混ざり方が少しだけ変わる。
大事件ではない。
でも、こういう小さいことの方が案外あとに残るのかもしれない。
「A組って」
長谷川が言う。
「何」
さやかが聞く。
「“頼む”のが自然だよね」
「それ、委員長が強いからでは」
ひかりが言う。
「学校の流れを止めないことに関しては強い」
「何その評価」
さやかが言う。
「でも、褒めてる?」
長谷川。
「かなり」
と、真白が答える。
さやかは少しだけ照れたように眉を寄せた。
「委員長としては、それで誰かの居場所ができるなら悪くないけど」
「……」
「何その顔」
ひかりが言う。
「いや」
真白は少しだけ目を細めた。
「今の、だいぶいいこと言った」
「またそれ」
「褒めてる?」
「かなり」
と、今度は真白だけでなく絵麻も頷いた。
さやかが少しだけため息をつく。
でも、そのため息はそこまで嫌そうではなかった。
◇
鳴海は少しだけ考えるような顔をしてから、ぽつりと言った。
「たぶん」
「うん?」
と絵麻。
「“いていい”って思うのって」
「うん」
「座ってるだけじゃなくて、ちょっと何か頼まれるようになってからかも」
「……」
教室が少し静かになる。
真白は思う。
まさにそれだ。
居場所ができるというのは、歓迎されることだけではない。
“ちょっとこれお願い”の中に入ること。
その方がずっと日常的で、ずっと強い。
「うわ」
ひかりが言う。
「何その“うわ”」
鳴海が少し笑う。
「今の、ちょっと好き」
「またそれ」
「でもほんと」
絵麻が言う。
「かなり本質」
「褒めてる?」
「かなり」
澪も頷いた。
真白も、静かに頷く。
そうだ。
自分もきっと、A組で少しずつそうなってきたのだろう。
消しゴムを貸す。
資料を持つ。
ひとこと返す。
そういう小さい役割の中で、“ここにいていい”が作られてきた。
「……やっぱり、学校って細かいね」
真白が小さく言うと、
「何その感想」
長谷川が笑う。
「いや」
「何」
「居場所の作り方が、すごく細かい」
「……」
「今の、わかる」
鳴海が言う。
「かなり」
「褒めてる?」
真白。
「かなり」
また小さな笑いが起きる。
◇
帰り際、長谷川と鳴海はまたB組へ戻っていった。
「また」
長谷川。
「また」
鳴海。
「次は何班かな」
ひかりが笑う。
「班にするな」
真白が即答すると、
「でも今のはちょっと好き」
長谷川が笑った。
ドアが閉まったあと、真白は少しだけ教室の空気を見回す。
A組とB組の行き来は、もう少しずつ日常になり始めている。
そしてその中で、鳴海詩音は少しずつ“話す人”になってきている。
大きくではない。
でも、ちゃんと。
「……変わるときって、ほんと小さいんだね」
真白がぽつりと言うと、
「うん」
絵麻が頷く。
「だから見逃しやすい」
「でも一ノ瀬さん、最近わりと見逃さない」
澪が言う。
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「それは、かなり褒めてる?」
「かなり」
と澪。
その返しに、真白も少しだけ笑う。
教室に馴染むというのは、たぶん、ちょっと頼まれる側になること。
今日の真白は、それをかなりはっきり感じていた。




