第57話 声の人は、少しずつ教室の雑談にも混ざってくる
教室と教室の距離は、廊下一本ぶんしかない。
でも、その一本が妙に遠いこともあるし、逆に拍子抜けするくらい近いこともある。
最近の真白にとって、2年A組と2年B組の距離は、少しずつ後者になり始めていた。
長谷川琴葉が来る。
鳴海詩音が来る。
プリントを取りに来る。
ホチキスを探しに来る。
ノートを返しに来る。
入口は全部、びっくりするほど地味だ。
でもその地味さの積み重ねで、人は案外ちゃんと“行き来できる距離”になる。
その日の放課後も、きっかけは実に学校的だった。
◇
「さやかー」
と、ひかりが前の席から言った。
「何」
「この掲示、どっちが上?」
「どっちって何」
「文化祭の仮ポスターと、クラス紹介の紙」
「それはクラス紹介が上」
「何で」
「学校の掲示順はだいたい“全体説明が先、装飾が後”」
「うわ、委員長つよい」
「その強さに最近みんな慣れすぎなのよ」
教室に小さく笑いが広がる。
真白は窓際で、そのやりとりをなんとなく聞いていた。
絵麻はノートの端にまた何か描いている。
木乃葉は今日は“概念三割”くらいで、まだ人類寄りだ。
音々は椅子に浅く座って外の音を聞いている。
澪は部活前なのに、なぜかまだ残っている。
「朝倉さん」
真白が聞く。
「何」
「今日、部活遅いの」
「少しだけ」
「何で」
「体育館の鍵、先生待ち」
「うわ、学校」
真白が言うと、澪が少し笑った。
「そこに“うわ”って言うの好きだね」
「だって、外でいろいろあっても最後は鍵待ちなんだなって」
「それは、かなり学校」
絵麻が笑う。
そのとき、ドアのところで小さくノックが鳴った。
もう最近のA組は、このノック音にわりと慣れている。
誰か来た。
たぶんB組。
だいたいそんな予感が当たる。
「はい?」
と、さやか。
開いたドアの向こうにいたのは、鳴海詩音だった。
「あの」
「うん」
「長谷川さん、まだ来てない?」
「今日はいない」
「そっか」
鳴海は少しだけ考えて、それから言う。
「じゃあ、少しだけ待っててもいい?」
その言い方が、前より自然だった。
“いていい?”の温度が、前より少し下がっている。
つまり、“たぶん大丈夫だと思うけど、一応確認する”くらいまで来ている。
「いいよ」
さやかが言う。
「いつもの席、空いてるし」
「いつもの席」
真白が小さく言う。
「定着してる」
「だって最近、だいたいそこ」
ひかりが笑う。
「もう半分くらいA組の仮席」
「それは言いすぎ」
鳴海が言ったが、少しだけ笑っていた。
◇
鳴海はドア近くの空席に腰を下ろした。
その座り方も、前より落ち着いている。
まだ完全に馴染んでいるわけではない。
でも、“今ここにいること自体が不自然ではない”ところまでは来ている。
「……」
「……」
「何その、また見てる顔」
鳴海が真白を見る。
「いや」
真白は少しだけ言いづらそうに言う。
「前より自然だなって」
「何が」
「来るの」
「……」
鳴海は一瞬だけ目を細めて、それから少しだけ肩をすくめた。
「まあ、前よりは」
「褒めてる?」
とひかり。
「今のは、かなり」
真白が答えると、
「うわ」
ひかりが笑う。
「最近の一ノ瀬さん、そういうのだいぶすぐ言う」
「前よりは」
真白が言う。
「うん」
絵麻が頷く。
「前よりずっと」
鳴海はその会話を少し不思議そうに見てから、ぽつりと言った。
「A組って、こういうのちゃんと言葉にするんだね」
「最近ね」
木乃葉が机に伏せたまま言う。
「前はそうでもなかった」
「何その、変化を知ってる人の言い方」
鳴海が言うと、
「知ってるから」
と木乃葉。
「そこは普通に」
真白はその返しに少しだけ笑う。
そうだ。
この教室は最近、少しずつ“言葉にする教室”になってきているのかもしれない。
全部ではない。
でも前より少しだけ。
◇
「何待ち?」
と、絵麻。
「長谷川さん」
鳴海が答える。
「また?」
「うん」
「今度は何」
ひかりが興味深そうに聞く。
鳴海は、少しだけ言いづらそうにしながら答えた。
「……提出用の下書き」
「うわ」
真白が言う。
「何その“うわ”」
「いや」
真白は少しだけ笑う。
「また入口が地味だなって」
「そう?」
「すごく」
「今日も学校」
澪が言う。
「かなり」
さやかも頷く。
鳴海は少しだけ苦笑した。
「私、字が遅いから」
「え」
絵麻が目を丸くする。
「そこ?」
「うん」
「意外」
ひかりが言う。
「声の人って、字まできれいで速そうなイメージ」
「偏見」
真白が言う。
「でも、ちょっとわかる」
澪も言う。
「わかるんだ」
鳴海が少し笑う。
「でも現実は、字は普通に遅い」
「そこ、なんか安心する」
真白が言うと、
「何で」
「いや」
「何」
「また“学校で普通に困る人”だったなって」
「それ好きだね」
ひかりが笑う。
「最近の一ノ瀬さん、それでだいぶ人を受け止めてる」
「そうかも」
真白は少しだけ頷いた。
たしかにそうだ。
すごい人でも、学校では普通に困る。
その現実感があると、肩書きより先に人として見やすくなる。
◇
少し間が空いてから、鳴海の方が真白へ聞いた。
「一ノ瀬さんって」
「何」
「学校であんまり喋らないタイプだったよね」
「……」
今度は真白が少し止まる。
「何その顔」
「いや」
真白は小さく息を吐いた。
「そこ、最近みんなに言われる」
「だって変わったし」
とひかり。
「かなり」
と絵麻。
「認めてる?」
鳴海が聞く。
「……前よりは、認めてる」
「うん」
鳴海は小さく頷いた。
「何か、ちょっと似てるのかも」
「何が」
「学校での声の出し方」
「……」
真白は少しだけ鳴海を見た。
なるほど、と思う。
この人は“声の人”だからこそ、そのへんを敏感に見るのかもしれない。
「私は」
真白は少し考えてから言う。
「声っていうより、存在の音量かも」
「うわ」
ひかりが言う。
「何それ、ちょっと好き」
「好きって何」
「言い方が」
絵麻が笑う。
「存在の音量、わかる」
「褒めてる?」
真白。
「かなり」
と澪。
鳴海は少しだけ目を細めた。
「それ、すごくわかる」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ照れたように言う。
「そこまでわかるって言われると、ちょっと不思議」
「私も」
鳴海は言った。
「学校で“ここまでなら出してもいい”って、自分で音量決めてる感じある」
「うん」
「でもA組って、その音量が小さくても変に気にしない」
「……」
「だから、少し楽」
「……」
その言葉に、教室の空気がまた少しだけやわらかくなる。
居場所というのは、たぶんこういうところでできていく。
大きな歓迎より、音量の小さいままでもいていいと思えること。
◇
そこへ、ようやく長谷川が戻ってきた。
「ごめん、遅……」
と言いかけて、鳴海が自然に座っているのを見て少し止まる。
「さらに馴染んでる」
「その感想、もう定型文でしょ」
鳴海が言う。
「だって毎回更新される」
長谷川が笑う。
「今日は何待ち?」
澪が聞く。
「提出用の下書き」
「ああ」
「やっぱり学校」
真白が言う。
「最近そこに着地しがちだね」
ひかりが笑う。
「でもほんとにそう」
絵麻が頷いた。
長谷川は鞄からクリアファイルを出し、鳴海へ渡した。
「これ」
「ありがとう」
「修正した?」
「した」
「見せて」
「今?」
「今」
「うわ」
真白が言う。
「何その“うわ”」
鳴海が聞く。
「いや」
「何」
「二人、普通に学校の友達だなって」
「……」
長谷川が一瞬だけ真白を見る。
「今さら?」
「今さらだけど」
「でも、そうかも」
絵麻が言う。
「肩書きとか外の話抜きで、“提出物見せて”ってやる関係」
「それ、だいぶ学校」
さやかが頷く。
「うん」
真白も笑った。
「かなり」
鳴海は長谷川へファイルを見せ、長谷川はごく普通に赤ペンで一か所だけ丸をつけた。
「ここ、“いたします”じゃなくて“します”でいい」
「うわ」
ひかりが言う。
「何その、また外向け癖を学校用へ戻すやつ」
「B組もそこあるんだ」
澪が言う。
「ある」
長谷川が言った。
「詩音、たまに文章が急に外向け」
「だって、学校の文章って逆に難しい」
鳴海。
「それはかなりわかる」
真白が言うと、
「一ノ瀬さん、やっぱりそこ強くわかるんだ」
鳴海が少し笑った。
「最近もう隠してないよね」
ひかり。
「隠してはいる」
真白。
「でも漏れてる」
絵麻。
「かなり」
澪。
真白は少しだけ肩をすくめる。
もうこの流れは、だいぶ定着していた。
◇
ファイルの受け渡しが終わっても、鳴海はすぐには立たなかった。
長谷川も、A組の空気にだいぶ慣れている。
「ねえ」
ひかりが言う。
「何」
長谷川。
「B組って、詩音ちゃん以外にも“静かに外の顔持ってそうな人”いる?」
「うわ、急に広げる」
真白が言う。
「でも気になる」
ひかりは笑う。
「今のところは企業秘密」
長谷川が言った。
「企業」
さやかが言う。
「学校なのに」
「便利だから?」
と鳴海。
「そこを自分から使うようになってる」
絵麻が笑う。
「だいぶ適応したね」
「A組語」
木乃葉がぼそっと言う。
「何それ」
と鳴海。
「半分冗談、半分ほんと」
と真白。
「このクラス、そういうの多い」
「それ、ちょっと好き」
鳴海が言う。
「褒めてる?」
ひかりが聞く。
「かなり」
やっぱり少しずつ、ここでの話し方を覚えてきている。
真白はその変化を見ながら、自分が最初にA組の中で少しずつ話すようになった頃を、ぼんやり思い出していた。
大きく変わるわけじゃない。
でも、少しだけ返す。
少しだけ笑う。
少しだけ座る。
その積み重ねで、人は“いていい空気”を覚えるのだ。
◇
チャイムが鳴る少し前、鳴海は立ち上がった。
「じゃあ、戻る」
「うん」
長谷川。
「また」
絵麻。
「また」
鳴海も頷く。
その“また”が、もうだいぶ自然だ。
「次は何で来るかな」
ひかりが言う。
「やめて、呼び水みたいに言わないで」
鳴海が少し笑う。
「でもたぶん、また学校の何か」
真白が言った。
「それはかなりありそう」
澪。
「プリント、ホチキス、ノート、下書き」
木乃葉が指を折らずに列挙する。
「次は何」
さやかが聞く。
「消しゴム」
ひかり。
「小さい」
絵麻が笑う。
「でもありそう」
鳴海も笑った。
その笑い方が、今日は少しだけ大きかった。
それでもまだ学校用の静かな笑い方で、でも前よりひとつだけ自然だった。
◇
ドアが閉まったあと、真白は少しだけ窓の方を見た。
声の人は、少しずつ教室の雑談にも混ざってくる。
大きな登場ではなく、プリントやホチキスやノートの話題で。
でも、それで十分なのだろう。
「……少しずつだね」
真白が言う。
「何が」
澪が聞く。
「鳴海さん」
「うん」
「“来る人”から、“いることがある人”になってきた」
「……」
「何その顔」
「今の、かなりいい」
絵麻が言う。
「褒めてる?」
「かなり」
澪も頷く。
「わかる」
真白は少しだけ笑う。
居場所は、たぶんそうやってできていく。
大きな歓迎ではなく、雑談の端に少しずつ混ざることで。
そしてこの教室は、そういう小さな居場所をちゃんと壊さない。
それが、最近の真白には前よりずっと大事なことに思えた。




