第56話 アイドルと声優疑惑の子、学校では普通にノートを貸し借りする
人間関係の本質は、たぶん、すごい肩書きのところには出ない。
むしろ出るのは、
ノートを貸すとか、
シャーペンの芯をもらうとか、
忘れた宿題を小声で確認するとか、
そういうどうでもいい学校の場面だ。
そこで雑に扱うのか。
自然に助けるのか。
遠慮があるのか、甘えがあるのか。
そういうものの方が、たぶん人間関係をよく表す。
そしてその日、真白は2年B組の二人――長谷川琴葉と鳴海詩音の関係を、かなり学校っぽい形で見ることになった。
◇
五時間目の前、A組のドアがまたノックされた。
ここまで来ると、もうA組の数人は反射で思う。
どっちだ。
長谷川か。
鳴海か。
あるいは二人セットか。
「はい?」
とさやか。
ドアの隙間から顔を出したのは、長谷川だった。
「あの」
「うん」
「鳴海、来てない?」
「……」
A組の空気が一瞬だけ止まる。
「いや、来てないけど」
さやかが答える。
「何で?」
「現代文のノート、詩音に貸してたの忘れてて」
「うわ」
真白が思わず言う。
「何その“うわ”」
長谷川が少し笑う。
「いや」
真白は少しだけ言いづらそうに言う。
「トップ声優疑惑の子との接点が“ノート貸してた”なの、だいぶ学校だなって」
「それはわかる」
ひかりが笑う。
「肩書きの情報量が強いのに、入口がノート」
「しかも現代文」
絵麻も言う。
「妙に具体的」
「学校って感じ」
澪が少し笑った。
長谷川は少しだけ肩をすくめる。
「学校では普通にノート貸すよ」
「それはそう」
とさやか。
「いや、でも長谷川さんと鳴海さんって」
真白が言う。
「何」
「普通に、そういう距離なんだなって」
「……」
長谷川は一瞬だけ真白を見て、それから小さく笑った。
「そういう距離だけど?」
「いや、うん」
「何その反応」
「ちょっと意外だっただけ」
「何で」
「もっとこう」
真白は少しだけ言葉を探す。
「芸能寄りのややこしい距離感かと思ってた」
「それ、偏見」
とひかり。
「でも気持ちはわかる」
絵麻が笑う。
「わりと外での肩書きが強い二人だし」
「実際は?」
と澪。
「普通にノート貸し借りする同級生」
長谷川が言った。
その言い方が、妙に真っ直ぐでよかった。
◇
ちょうどそのとき、廊下の向こうから足音が近づいてきた。
「あ」
と長谷川。
次の瞬間、鳴海詩音が姿を見せる。
「琴葉」
「いた」
「いた、じゃない」
鳴海は少しだけ息を切らしていた。
「ノート返すの、昼に言おうと思ってたのに」
「先に思い出した」
「早い」
「褒めてる?」
「今のは半分くらい」
そこからの流れが、あまりにも普通だった。
長谷川が手を出す。
鳴海が鞄から現代文のノートを出す。
表紙に付箋が一枚ついている。
長谷川がそれを見て言う。
「ちゃんと付箋つけてる」
「借りたところわかんなくなると困るから」
「えらい」
「褒めてる?」
「かなり」
A組の空気が、少しだけやわらかくなる。
今、目の前で起きているのは、本当にただのノートの受け渡しだ。
でも、そこにあるやりとりの温度は、だいぶ人間関係を表していた。
「……」
「……」
「何その、みんなして見てる顔」
鳴海が気づいて言う。
「いや」
真白が答える。
「思ってたより、すごく普通なんだなって」
「普通だけど」
鳴海が言う。
「学校では」
「そこ、ちょっといい」
絵麻が笑う。
「褒めてる?」
「かなり」
鳴海は少しだけ照れたように目を細めた。
◇
「二人って」
ひかりが言う。
「何」
長谷川が聞く。
「いつからその感じ?」
「その感じ?」
「ノート普通に貸し借りする感じ」
「質問が地味すぎる」
真白が言う。
「でも気になる」
澪が言った。
「気になるの?」
真白が聞くと、
「気になるでしょ。関係性の解像度が急に上がる話だし」
「うわ、朝倉さんのその分析もだいぶ教室側」
「褒めてる?」
「かなり」
長谷川は少しだけ考えてから言った。
「いつからだろ」
「たぶん」
鳴海が静かに言う。
「最初は、学校のことで助けてもらったから」
「何を?」
絵麻が聞く。
「放送委員の原稿読み」
「うわ」
ひかりが言う。
「そこ、だいぶ“声の人”案件」
「でも、その頃はまだ何も知らなかったよ」
長谷川が言う。
「ただ、“この子、読むのうまいな”って思っただけ」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
長谷川は少し笑った。
「今思うと、だいぶ近いところにいたなって」
「でも決定はしなかった」
木乃葉がぼそっと言う。
「うん」
長谷川が頷く。
「そこは、なんか……しない方がいい気がしてた」
「……」
「何その空気」
鳴海が少し困ったように笑う。
「いや」
真白が言う。
「それ、すごくA組っぽい判断だなって」
「でもB組でもそういうことあるんだ」
絵麻がやわらかく言った。
たぶんそれが、今日の小さな発見だった。
A組にはA組の“壊さない距離”がある。
でも、それはA組だけのものではないのかもしれない。
B組にもB組の守り方があって、その中で長谷川と鳴海は少しずつ距離を作ってきたのだろう。
◇
「長谷川さんって」
鳴海が少しだけ真面目な声で言った。
「何」
「わりと最初から、聞かないよね」
「何を」
「必要以上のこと」
「……」
「何その、“それ今ここで言う?”みたいな顔」
鳴海が言うと、
「いや」
長谷川は少しだけ視線を逸らした。
「言われると思ってなかった」
「でも本当」
鳴海は静かに続ける。
「知ろうと思えば、もっと早くいろいろ聞けたと思う」
「……」
「でも聞かなかった」
「……」
「それ、ありがたかった」
その一言に、教室の空気が少しだけ静かになる。
真白はそこで思う。
ああ、やっぱりそうなのだ。
“聞かない”は、冷たさではなくて、ちゃんとした優しさになることがある。
「長谷川さん」
絵麻がふわっと言う。
「何」
「今の、かなりいい人」
「何その感想」
「褒めてる」
「かなり」
絵麻が笑う。
「うわ、照れる」
長谷川が言うと、
「そこ照れるんだ」
真白が少し笑った。
「そりゃ照れるでしょ」
「でも、そこ大事」
と澪。
「聞かないでいてくれる人って、ほんとに助かるときある」
「……」
真白も小さく頷く。
それは、自分にもよくわかる。
◇
話はそこで終わるかと思ったが、今度は長谷川の方が鳴海を見て言った。
「でも、詩音も詩音で」
「何」
「最初から、私のこと“アイドルだから”って雑に見なかったよね」
「……」
「何その顔」
「いや」
鳴海は少しだけ困ったように笑う。
「それ、普通じゃない?」
「普通じゃないときもある」
長谷川が言った。
「学校公表してると、便利な説明にされることあるし」
「……」
「“あの子アイドルだから”で、ちょっと雑にまとめられる感じ」
「……」
「でも詩音は最初から、“B組の長谷川さん”で話してくれた」
「……」
「それも、ありがたかった」
その言葉に、今度は鳴海の方が少しだけ目を伏せる。
「別に」
と鳴海。
「何その“別に”」
ひかりが笑う。
「だって」
鳴海は少しだけ肩をすくめる。
「学校では、普通に同級生だし」
「うわ」
真白が言う。
「何その“うわ”」
「いや、今の、かなりいい」
「褒めてる?」
「かなり」
「最近みんなそればっかり」
鳴海が言うと、長谷川が笑った。
でも真白には、その“学校では普通に同級生”がとてもよくわかる気がした。
外の肩書きや立場が強いほど、学校の中ではその言葉が救いになるのだ。
◇
そこへチャイムが鳴る。
「やば」
長谷川が言う。
「戻る?」
鳴海。
「戻る」
「ノートは?」
ひかりが聞く。
「もう返した」
「ホチキスは?」
真白が聞く。
「今日は借りてない」
鳴海が返す。
「このやりとり、定型化してきたね」
澪が笑う。
「学校のルーティン」
木乃葉がぼそっと言う。
「褒めてる?」
長谷川。
「そこは半分くらい」
木乃葉。
「便利だなあ」
二人はドアの前で一度だけ振り返る。
「じゃあ、また」
長谷川が言う。
「うん」
絵麻。
「また」
鳴海も言う。
「次はノートじゃない入口だといいね」
ひかりが笑う。
「でも学校では、まずノートかプリント」
真白が言うと、
「それはかなり正しい」
と、さやかが頷いた。
最後にまた、小さな笑いが落ちる。
◇
ドアが閉まったあと、真白は少しだけ考え込んだ。
「……」
「何その顔」
澪が聞く。
「いや」
真白は少しだけ言葉を探してから言った。
「A組だけじゃなくて、B組にもちゃんと“壊さない距離”があったんだなって」
「うん」
絵麻が頷く。
「それは私も思った」
「長谷川さんと鳴海さん」
真白が続ける。
「肩書きとか立場とか、外ではたぶんいろいろ違うのに」
「うん」
「学校では、ノート貸し借りする同級生で」
「うん」
「その感じ、ちょっといいなって」
「……」
「何その顔」
「今の、かなりいい」
澪が言った。
「褒めてる?」
「かなり」
絵麻も頷く。
「わかる」
「最近ほんとに、教室の空気を言葉にするのうまくなったね」
ひかりが笑う。
「前よりは」
真白が言う。
「うん」
「でも、まだ少しだけ照れる」
「そこも含めて今の一ノ瀬さん」
と絵麻。
真白は少しだけ笑う。
アイドルと声優疑惑の子。
でも学校では普通にノートを貸し借りする。
その現実感が、今日の真白には妙に心地よかった。
やっぱり学校では、まずノートとかプリントとか、そういうところから始まるのだ。




