第55話 声優疑惑の子、A組では“いていい空気”を少しずつ覚える
居場所というものは、最初から用意されているとは限らない。
教室の席は最初からある。
名簿にも名前はある。
出席番号も決まっている。
だから、形式上の居場所は最初からある。
でも、
そこにいても変じゃない空気
という意味での居場所は、案外あとからできる。
真白は最近、そのことを少しずつ理解していた。
2年A組という教室も、自分にとってはそうだった。
前は、席はあっても、少しだけ外側に立っている感じがあった。
今は違う。
完全ではないけれど、“ここにいても変じゃない”と思える瞬間が増えた。
そして今日、その感覚を、鳴海詩音の方にも少しだけ見た気がした。
◇
昼休みの終わり際、鳴海詩音はまた2年A組へ来ていた。
今度の用件は、さらにどうでもいい。
いや、学校的にはわりとあるあるだが、ドラマとしてはかなり地味である。
「長谷川さん、B組のホチキス知らない?」
である。
トップ声優疑惑の子の再登場が、ホチキス探し。
学校は本当に平等で容赦がない。
「うわ」
とひかり。
「何その“うわ”」
鳴海が少しだけ笑う。
「いや、今日の入口ホチキスなんだなって」
「だめ?」
「だめじゃない。むしろ好き」
「褒めてる?」
「かなり」
「最近のA組、その確認多いね」
「便利だから」
木乃葉が机に伏せたまま言う。
「もう理由として成立してないんだよなあ」
真白が言った。
教室に小さく笑いが起きる。
長谷川は自席ではなく、またA組の端の席に少し腰かけていた。
今やB組の二人がA組へ来るとき、“完全に立ち話”では終わらなくなっている。
少しだけ腰を落ち着ける。
それがもう、変化だった。
「ホチキスなら」
長谷川が言う。
「私の鞄にある」
「やっぱり」
「何その、最初から知ってたみたいな言い方」
「学校で一番物を持ってそうな顔してる」
ひかりが言う。
「それ、褒めてる?」
「半分くらい」
「便利だなあ」
長谷川が鞄をごそごそし始める。
その隣で鳴海が何気なく立っている。
その立ち方が、前より少しだけ自然だった。
ドアの近くで“お邪魔してます”の重心ではない。
教室の端っこに、少しだけ“いていいかな”の重心。
真白はそれを見て、少しだけ思う。
ああ、この人も少しずつ覚えてきている。
A組では、そんなに気を張らなくても大丈夫だと。
◇
「どうぞ」
長谷川がホチキスを差し出す。
「ありがとう」
鳴海が受け取る。
「何に使うの?」
絵麻が聞いた。
「台本」
「うわ」
またひかりが言った。
「何その“うわ”」
鳴海が言うと、
「いや、そこはやっぱり“うわ”ってなるでしょ」
「台本って学校で?」
真白が聞く。
「うん」
鳴海が頷く。
「正確には、委員会の発表原稿にメモ挟んでるだけ」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「今の、だいぶ“学校と外の顔の境目”って感じだなって」
「それはちょっとわかる」
澪が言う。
「発表原稿なのに、呼び方が“台本”になるやつ」
「ある」
鳴海が即答した。
「学校用に作ってても、一回“台本”って思っちゃうと戻らない」
「うわ、それすごくその人」
ひかりが言う。
「何その感想」
「仕事の癖が、学校の言葉にちょっとだけ混ざる瞬間」
「それはたぶん、褒めてる」
絵麻が笑う。
鳴海は少しだけ目を細めた。
「A組って、ほんとにそこ拾うね」
「そこ、って?」
さやかが聞く。
「言葉の癖とか、使い方の差とか」
「……」
「たしかに」
真白が頷く。
「最近よく見てるかも」
「一ノ瀬さんはだいぶ」
澪が言う。
「前よりかなり」
「最近それほんとに言われる」
「でも事実」
木乃葉がぼそっと言う。
「今の一ノ瀬、だいぶ“教室の空気を読む側”」
「褒めてる?」
真白が聞く。
「かなり」
と木乃葉。
その返しがもう、前ほど照れくさくなくなっている自分に、真白は少しだけ驚く。
◇
ホチキスはすぐ返される、かと思ったら、鳴海はそのまま席に少しだけ残った。
「……」
「……」
「何その顔」
ひかりが言う。
「いや」
鳴海が少しだけ肩をすくめる。
「戻るタイミング失った」
「うわ、わかる」
絵麻がすぐに言う。
「教室って、たまにそういうことある」
「ある」
真白も頷く。
「戻ろうと思うと、次の会話が始まる」
「そう、それ」
鳴海が言う。
「で、今、A組ってちょっとその感じ」
「何それ」
さやかが言う。
「うちのクラス、“話しかけられてるわけじゃないのに何となく会話が続く教室”ってこと?」
「うん」
「それは少しうれしい」
絵麻が笑う。
「褒めてる?」
「かなり」
鳴海も少し笑った。
その笑い方が、前より自然だった。
声を抑えている。
でも、抑えながらもちゃんと楽しいときの笑い方だ。
その変化を、真白はたしかに見た気がした。
◇
長谷川が、ちょっとだけ面白そうに鳴海を見ていた。
「何」
鳴海が気づく。
「いや」
長谷川が笑う。
「詩音がA組でそんなに普通に座ってるの、ちょっと新鮮」
「そう?」
「うん。前は“用事済んだら一秒で帰る”みたいな顔してた」
「してたかも」
「今は?」
と真白。
「……今は」
鳴海は少しだけ考えてから言う。
「いても変じゃないかも、って少し思ってる」
「……」
その一言に、A組の空気が少しだけやわらかくなる。
真白は少しだけ胸の奥があたたかくなるのを感じた。
ああ、それわかるな、と思った。
“いても変じゃないかも”
その感覚は、小さいけれど大きい。
教室に馴染むって、たぶんそういうことだ。
「うわ」
ひかりが言う。
「何その“うわ”」
鳴海が聞く。
「今の、ちょっと好き」
「それ、最近よく言うね」
さやかが呆れたように言う。
「でも、今のはたしかにいい」
絵麻も頷く。
「かなり」
真白も言った。
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
今度は澪も頷く。
鳴海は少しだけ照れたように笑い、それから小さく息を吐いた。
「……長谷川さんが、“A組は怖くない”って言ってた意味、ちょっとわかった」
「褒めてる?」
ひかりが聞く。
「かなり」
「やった」
「そこで喜ぶんだ」
真白が言うと、
「そこは喜ぶでしょ」
ひかりが笑った。
◇
そこから、なぜか話題は“教室でどこまで静かにしていたいか”になった。
「鳴海さんって」
絵麻が聞く。
「うん」
「学校で一番気をつけてるの、やっぱり声?」
「……」
鳴海は少しだけ考え、それから頷く。
「声もある」
「“も”」
真白が拾う。
「うん」
「他は?」
ひかりが聞く。
「笑い方」
「……」
「うわ」
真白が言う。
「それ、ちょっと意外」
「何で」
「いや、そこまで行くんだって」
「行くよ」
鳴海は苦笑する。
「笑い方って、意外とクセ出るから」
「それは」
澪が少しだけ頷いた。
「わかる」
「朝倉さんも?」
長谷川が聞く。
「少し」
「うわ、急にB組とA組の“声と歌の人”会話が始まった」
ひかりが楽しそうに言う。
「そこ、だいぶ見たい」
「見物みたいに言うな」
真白が言った。
でも実際、少し見たかった。
声を仕事にする人。
歌を仕事にする人。
その二人が、学校でどこを抑えるかの話をしている。
それはたぶん、かなり珍しい会話だ。
「私は」
澪が言う。
「学校では、声量かな」
「……」
鳴海が頷く。
「それ、すごくわかる」
「大きく出せばいいってものじゃないから」
「うん」
「学校だと、あくまで“教室の音量”に合わせたい」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
澪が少しだけ笑った。
「今、自分で言ってて、だいぶ学校好きなんだなって思った」
「うわ」
ひかりが言う。
「今日、そういうの多いね」
「何が」
澪。
「“教室の音量”に合わせたい、はかなり好きな人の言い方」
「褒めてる?」
「かなり」
澪が小さく笑った。
真白はその会話を聞きながら、少しだけ思う。
外の顔を持つ人間ほど、学校での音量や居方を大事にする。
それはたぶん、この場所が“肩書きじゃない自分”でいられる数少ない場所だからなのだろう。
◇
長谷川が、ふと真顔で言った。
「詩音って、B組だとちょっと静かすぎるときあるもんね」
「何その身内の急所」
鳴海が言う。
「いや、だって本当だし」
「……」
「でも、A組だと今日、少しだけ喋ってる」
「うん」
絵麻が頷く。
「それはたしかに」
「何が違うんだろう」
さやかが聞く。
「……」
鳴海は少しだけ視線を泳がせ、それから言った。
「A組って、黙ってても変じゃないから」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
鳴海は少しだけ笑う。
「B組って、明るい子多いし」
「うん」
「沈黙してると、たまに“どうしたの?”ってなる」
「それはあるかも」
長谷川も頷く。
「A組は?」
と絵麻。
「沈黙が自然」
「うわ」
ひかりが言う。
「それ、たぶんかなり正しい」
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
と真白が答える。
沈黙が自然。
それは、少し変な教室の言い方だ。
でも、このクラスにとってはたぶん、とても大事なことだった。
喋らなくてもいい。
でも、喋っても浮かない。
その幅があるから、いろんな人が“いても変じゃない”と感じられる。
「……いい教室だね」
鳴海がぽつりと言うと、
「うわ」
今度は絵麻が言った。
「何その“うわ”」
「それ、かなりうれしいやつ」
絵麻が笑う。
「褒めてる?」
「かなり」
と、今度はA組側の数人がわりと綺麗に頷いた。
◇
チャイムが鳴る直前、鳴海は立ち上がった。
「そろそろ戻る」
「うん」
長谷川も立つ。
「ホチキスは?」
ひかりが聞く。
「今日は借りてない」
鳴海。
「残念」
「何が」
「入口として便利だったのに」
「そこ便利って言うんだ」
真白が言うと、
「便利だから」
とひかり。
「最近その返しで全部押し切ろうとしてる」
「押し切れてる?」
「半分くらい」
真白が言うと、また少し笑いが起きた。
鳴海はドアのところで少しだけ振り返る。
「……また来てもいい?」
「いいよ」
絵麻がすぐに言う。
「プリントでもホチキスでも、何でも」
「雑な歓迎」
さやかが言う。
「でもまあ、いいんじゃない」
「そこは褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
と、さやかが答えた。
その返事に、鳴海は少しだけ安心したように笑って、今度こそB組へ戻っていった。
◇
ドアが閉まったあと、真白は小さく息を吐いた。
「……居場所って、こうやってできるのかも」
ぽつりと呟く。
「何が?」
と澪。
「鳴海さん」
「……」
「最初はプリント」
「うん」
「次はホチキス」
「うん」
「その次は、少し座る」
「うん」
「で、“いても変じゃないかも”になる」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
澪が少しだけ笑った。
「今の、かなりいいこと言った」
「褒めてる?」
「かなり」
絵麻も頷く。
「わかる」
長谷川も小さく言った。
真白は少しだけ照れたように視線を逸らす。
でも、たしかにそうなのだと思う。
居場所は、最初から大きく与えられるものではなくて、
プリントとかホチキスみたいな、どうでもいい入口の積み重ねでできる。
そしてこの教室は、そういう小さな入口をちゃんと壊さない。
だから、少しずつ人が馴染むのだろう。




