第54話 声の人は、学校では静かに笑うくらいがちょうどいい
声を仕事にしている人は、きっともっと喋るのだと思っていた。
真白は、鳴海詩音を見ていて少しずつその認識を修正し始めていた。
もちろん、仕事の場ではそうなのかもしれない。
マイクの前に立てば、たぶん別だ。
通る声。
感情の乗せ方。
聞かせるための音の置き方。
そういうものを持っているのだろう。
でも学校の中の鳴海詩音は、むしろ静かな人だった。
長谷川琴葉が前に言っていた通り、壁を作るタイプではない。
けれど、自分から無駄に前へ出る感じもない。
話しかけられればちゃんと返す。
でも、それ以上に声を使わない。
その“使わなさ”が、最近の真白には少しだけわかる気がしていた。
◇
その日の昼休み、鳴海詩音はまた2年A組へ来ていた。
今度の用件は、昨日よりさらにどうでもいい。
いや、本人たちにとっては大事なのだろうが、第三者目線ではかなり学校である。
「長谷川さんいる?」
と、鳴海。
「さっき購買」
とひかり。
「でももうすぐ戻ると思う」
「そっか」
それだけなら廊下で待っていてもよさそうなものだが、鳴海はドアのところでほんの少しだけ迷い、それから言った。
「待っててもいい?」
「いいよ」
さやかが言う。
「廊下の方が落ち着かないでしょ」
「……」
「何その顔」
「いや」
鳴海は小さく笑った。
「そこまで読まれるんだなって」
「A組はそういうとこある」
木乃葉が机に伏せたまま言う。
「最近、外からの評価がだいたいそれ」
真白が言うと、
「でも間違ってない」
絵麻が笑った。
鳴海は教室の端、ドア近くの空いている席へ腰を下ろした。
座り方まで少し静かだ。
音を立てない人の動きに見える。
真白はそれを見て、なんとなく思う。
この人、たぶん“学校では存在の音量を上げすぎない”ようにしている。
声優だから静かなのではなく、
声優だからこそ、学校では静かにしている
のかもしれない。
◇
「鳴海さんって」
と、絵麻がふわっと聞いた。
「何?」
「学校だと、あんまり喋らないよね」
「……うん」
鳴海は少しだけ苦笑した。
「そうかも」
「やっぱり意識してる?」
ひかりが机に頬杖をついて聞く。
「うわ、急にそこ聞くんだ」
真白が言う。
「いやでも気になるでしょ」
「気にはなる」
澪も頷く。
「でも今のはちょっと直球」
「ごめんごめん」
ひかりが笑う。
「答えたくなければ流して」
鳴海は少しだけ考え、それから静かに言った。
「……意識は、してる」
「……」
「何その、“やっぱり”みたいな空気」
「いや」
真白が言う。
「そこは少しわかるから」
「一ノ瀬さんも?」
鳴海が見る。
「私は声じゃないけど」
「うん」
「学校の中でまで“外の自分”の癖を出したくない感じは、少し」
「……」
「うん」
鳴海は小さく頷いた。
「それに近いかも」
その答えに、教室の空気が少しだけやわらかくなる。
やはりこのクラスは、“わかる”の種類が近い人間が多い。
「たとえば?」
と絵麻が聞く。
「たとえば……」
鳴海は少しだけ言葉を探した。
「普通に笑ってるつもりでも、“その声好きです”って言われたりすると」
「うわ」
ひかりが小さく言う。
「急に現実」
「それ、学校で?」
さやかが聞く。
「うん。たまに」
「きついね」
澪が言う。
「きつい」
鳴海も素直に頷いた。
「悪意があるわけじゃないのはわかるけど」
「でも、そこで急に“見られる側”になる」
真白が言う。
「……」
「何その顔」
「今の、かなり正確」
鳴海が言った。
「褒めてる?」
「かなり」
真白は少しだけ視線を落とす。
そうか。
鳴海詩音にとって、声はただの声ではない。
見つかる入口であり、外の顔がにじむ場所でもある。
だから学校では、必要以上に使いたくない。
それはたしかに、よくわかる気がした。
◇
「でも」
と、音々が静かに言った。
全員がそちらを見る。
「何?」
鳴海が聞く。
「今の鳴海さんの声、学校用でもちゃんと綺麗」
「……」
「うわ」
真白が言う。
「それ、すごいまっすぐだね」
「褒めてる?」
音々が聞く。
「かなり」
と鳴海が少しだけ笑った。
でもその笑い方は、少し照れていた。
「瀬川さんって」
鳴海が言う。
「何」
「たぶん、人の声を雑に聞かないよね」
「うん」
音々はあっさり頷く。
「好きだから」
「何その言い方、急に強い」
ひかりが笑う。
「でもわかる」
絵麻が言う。
「音々ちゃん、そういうときだけ“音の人”の芯が出る」
「褒めてる?」
と音々。
「かなり」
と絵麻。
鳴海は少しだけ考えてから、ぽつりと言った。
「それ、ありがたい」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
鳴海は少しだけ目を伏せた。
「声って、褒められるときでも“消費”っぽく感じることがあるから」
「……」
「でも、今の瀬川さんの言い方は、ちゃんと“聞いてる人”の褒め方だった」
「……うん」
音々が頷く。
「たぶん、そう」
真白はその一往復を聞いて、少しだけ胸があたたかくなった。
この教室のいいところは、こういうところかもしれない。
“すごい”を雑に消費しない。
見えているものを、ちゃんと人のまま受け取ろうとする。
だから鳴海も、少しずつここへ座れるのだろう。
◇
そこへ、ようやく長谷川琴葉が戻ってきた。
「ごめん遅……」
と言いかけて、鳴海がA組の席に座っているのを見て止まる。
「なじんでる」
「何その感想」
鳴海が言う。
「いや、だって昨日まで“プリント取りに行くのちょっと緊張する”って顔してたのに」
「今日は待ってるだけ」
「それでも十分進歩」
ひかりが笑う。
「しかも今、だいぶいい話してた」
「何の?」
長谷川が聞く。
「声の話」
と絵麻。
「うわ」
長谷川が言う。
「それ、A組の中でもかなり深い方では」
「そう?」
真白が言う。
「最近の一ノ瀬さん、そこ自覚ないよね」
「何の」
「教室の中で“少し深い会話”に普通に混ざるようになってる」
「……」
「何その顔」
澪が少し笑う。
「いや」
真白は小さく息を吐いた。
「前よりそうかも、とは思ってる」
「うわ」
今度は長谷川が言う。
「何その“うわ”」
「それ、自分で認めるんだ」
「最近は少し」
「褒めてる?」
「かなり」
長谷川が言うと、また教室へ小さな笑いが落ちる。
◇
そのあと、なぜか会話は「学校での声の使い方」から「学校での名前の呼ばれ方」へ飛んだ。
「鳴海さんって」
ひかりが聞く。
「うん」
「学校で下の名前で呼ばれるの平気?」
「……」
「何その、また一歩踏み込むんだなって顔」
真白が言う。
「でもさ、声優って名前の音でも気づかれそうじゃない?」
「それはわかる」
澪が言う。
「芸名じゃなくても、呼ばれ方って大事」
「朝倉さんもそこ気にする?」
鳴海が聞く。
「少し」
澪は頷いた。
「学校での呼ばれ方と、外での呼ばれ方が遠い方が楽なときある」
「うん」
真白も言う。
「わかる」
「何その、“また一ノ瀬さんがかなりわかる側にいる”みたいな空気」
ひかりが笑う。
「だっているし」
木乃葉がぼそっと言う。
「最近そこ隠さなくなった」
「隠してるつもりはある」
真白が言うと、
「それ、もう“静かな自己申告”なんだよなあ」
さやかが言った。
鳴海はその会話を聞きながら、少しだけ驚いた顔をしていた。
「A組って」
「何?」
絵麻が聞く。
「思ってたより、“わかる”が多いね」
「それはたぶん」
真白が言う。
「外の顔がある人が多いから」
「……」
「何その顔」
「いや」
鳴海は少しだけ笑った。
「それ、すごく納得した」
そうかもしれない。
歌。
声。
絵。
物語。
音。
見せ方。
名前。
呼ばれ方。
それぞれ入口は違うけれど、“学校の外にある自分”を持っている人間は、そのぶん学校の中の線引きにも敏感になるのだろう。
◇
チャイムが鳴る少し前、鳴海は立ち上がった。
「そろそろ戻る」
「うん」
長谷川も立つ。
「また来る?」
ひかりが聞く。
「……」
鳴海は少しだけ考えてから、素直に言った。
「たぶん」
「うわ」
絵麻が笑う。
「何その“うわ”」
「今の、ちょっとうれしいやつ」
「そう?」
「うん」
真白も頷く。
「かなり」
「褒めてる?」
鳴海が聞く。
「かなり」
今度は真白が答えた。
鳴海はほんの少しだけ目を細め、それから小さく笑った。
「じゃあ、また」
「また」
と絵麻。
「次はプリントじゃない入口だといいね」
ひかり。
「でも学校ではまずプリント」
木乃葉。
「それ気に入ってるでしょ」
真白が言うと、
「かなり」
木乃葉が返した。
最後にまた教室が笑う。
◇
ドアが閉まったあと、真白は少しだけ窓の外を見た。
鳴海詩音は、たしかにまだ“気配”の段階だった。
名前は出た。
でも肩書きはまだ出ていない。
それでいいのだろう。
声の人は、学校では静かに笑うくらいがちょうどいい。
たぶん、今はまだ。
「……だいぶ来たね」
澪が小さく言う。
「うん」
真白も頷く。
「でも、まだ“おはよう”の延長でいい感じ」
「それが大事」
絵麻が言う。
「うん」
真白も頷いた。
名前が出ても、空気は壊れない。
少し近づいても、まだ教室のままでいられる。
その感じが、今日の真白には少しだけ心地よかった。




