第53話 トップ声優疑惑の子、学校ではまずプリントを取りに来る
すごい人の登場というものは、もっと劇的であるべきだと真白は思う。
たとえば廊下のざわめきが一気に広がるとか。
誰かが「あっ」と息をのむとか。
漫画みたいに空気が切り替わるとか。
だが現実は、たいていそうはならない。
特に学校では、すごい人もまずプリントを取りに来る。
その日の三時間目のあと、2年A組で起きたことは、まさにそれだった。
◇
休み時間。
教室は、いつものように静かなのに情報量が多い感じで回っていた。
ひかりは文化祭ポスターの色味をまた悩んでいる。
絵麻はノートの端に、今度は横顔ばかり描いている。
木乃葉は机に伏しながらも、今日は“概念四割”くらいで会話へ参加できる日らしい。
音々は窓際。
澪は次の授業の教科書を出している。
さやかは配布物の束を整えている。
真白は、その配布物の束が妙に斜めなのを見て、少しだけ直したくなっている。
そのとき、ドアが小さくノックされた。
「はい?」
と、さやか。
ドアの隙間から、女子が一人だけ顔を出した。
「すみません、B組の……」
そこで一瞬、言葉を切る。
「朝の配布プリント、うちのクラス一枚足りなかったみたいで」
その声を聞いた瞬間、音々がほんの少しだけ顔を上げた。
ひかりの手も、スマホの上で一瞬止まる。
絵麻のペン先が一拍だけ止まり、木乃葉でさえ伏せたまま少しだけ目を開けた気配があった。
たぶん、全員同じことを思っている。
あ、この子だ。
顔だけなら、廊下ですれ違ったことがある気がする。
でも声が乗った瞬間に、一段解像度が上がる。
静かで、きれいで、よく通るのに、学校用にかなり抑えている声。
たぶんこの子が、B組の“隠しているトップ声優”だ。
ただし、今の時点では、
プリントを取りに来た隣のクラスの子
でもある。
それが大事だった。
「ありますよ」
さやかがすぐに立ち上がる。
「えっと、どのプリントですか」
「現代文の補助資料です」
「あ、それなら一枚余ってる」
さやかは束の間から探し出して、彼女へ差し出した。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
ここまで、完璧にただの学校のやりとりである。
それなのに、教室の空気だけが少しだけ濃い。
真白は内心で思った。
うわ。
来た。
でも登場の仕方が地味すぎる。
だいぶ学校。
◇
「助かりました」
彼女はそう言って会釈する。
長い黒髪。
派手ではない。
むしろ目立たないようにしている感じが強い。
制服の着方もきちんとしていて、メイクもほとんど感じない。
でも、“見られることそのもの”には慣れている人の重心がある。
真白には、その違いが少しわかる。
「……」
「……」
「……」
A組の数人が、わりと綺麗に“見ているけど見ていないふり”の技術を発動していた。
すると、彼女の方が少しだけ困ったように笑った。
「何か……」
「何?」
とひかりが、ごく自然な声で返す。
「いや」
彼女はほんの少し視線を泳がせる。
「A組って、長谷川さんから聞いてた通りだなって」
「何を」
とさやか。
「静かなのに、たぶんみんなちょっと見てる」
そこで、教室に小さな沈黙が落ちた。
見抜かれた。
でも、嫌な感じではない。
「……」
「……」
「それは」
最初に口を開いたのは真白だった。
「褒めてる?」
自分でも少し意外なくらい自然に、その言葉が出た。
彼女は一瞬だけ目を丸くして、それから少しだけ笑う。
「かなり」
「うわ」
ひかりが言う。
「もう流れ知ってる」
「長谷川さんが教えてくれたので」
「何を」
と絵麻が聞く。
「“A組は、褒めてる?って聞くとだいたい乗ってくれる”って」
「長谷川さん、変なところだけ覚えさせてる」
さやかが額を押さえる。
「そこを教えるの」
「でも間違ってない」
木乃葉が机に伏せたまま言う。
「事実ではある」
と澪も頷いた。
また教室が少し笑う。
よかった。
空気が変に固まらない。
この学校の、このクラスのこういうところは本当に助かる。
◇
「えっと……」
彼女はプリントを持ったまま少しだけ迷ってから言った。
「自己紹介、した方がいいですか」
「それは」
さやかが一瞬言葉を選ぶ。
「したければ、でいいんじゃないかな」
「無理にしなくても」
と絵麻。
「そう」
真白も頷く。
「そこは本人の自由」
その返しを聞いて、彼女はほんの少しだけ肩の力を抜いたみたいだった。
「じゃあ」
と彼女。
「B組の、鳴海詩音です」
「……」
「……」
「……」
今度は、少しだけ別の意味の沈黙が落ちる。
名前が出た。
本人の口から。
たったそれだけなのに、空気の濃度が一段上がる。
「何その顔」
鳴海詩音が少しだけ笑う。
「いや」
ひかりが言う。
「名前まで出ると思ってなかった」
「私も」
真白が正直に言った。
「でも、出してよさそうだったから」
「その判断、ありがたい」
さやかが言う。
「うちは基本、本人が出す情報を超えないので」
「うわ」
鳴海が少しだけ目を細める。
「それ、やっぱり聞いてた通り」
「何を聞いてたの」
澪が聞くと、
「“A組は壊さない”って」
鳴海は素直に答えた。
その言葉に、真白は少しだけ胸の奥が動いた。
壊さない。
外から見ると、やっぱりそう見えるのか。
自分たちにとってはもうわりと自然になっている空気だけれど、外から言われると少しだけ照れる。
「壊さない、はちょっとかっこよすぎる」
ひかりが笑う。
「実態は“見えても決定しない”」
「それはかなり正確」
木乃葉。
「褒めてる?」
鳴海が聞くと、
「かなり」
と真白が返した。
もうだいぶ、この流れは新しい人にも馴染んできている。
◇
そこへ、長谷川琴葉までやって来た。
「詩音、いた」
「うわ」
鳴海が振り返る。
「ごめん、プリント足りなくて」
「知ってる。先生に“B組は二人とも近くにいるならついでに次の配布も持ってって”って言われた」
「学校だ」
真白が思わず言う。
「何それ」
鳴海が見る。
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「トップ声優疑惑の子の初登場イベントが“プリント足りない”と“ついでに配布物持ってって”なの、すごく学校だなって」
「疑惑って言ってる」
と長谷川が笑う。
「まだ疑惑のままでしょ」
と真白。
「そのへん、ちゃんとしてる」
と鳴海。
「褒めてる?」
「かなり」
ひかりが机に頬杖をついて言う。
「B組、二人そろうとだいぶ芸能濃度高いね」
「その言い方ひどい」
長谷川。
「でもわかる」
鳴海。
「私たちも、A組かなり濃いと思ってる」
「うわ」
さやかが言う。
「外から見てもそうなんだ」
「静かだけど、何か持ってる感じ」
鳴海が言う。
「しかもたぶん全員ジャンル違う」
「だいぶ見抜かれてる」
絵麻が言う。
「でも、そこで止まるあたりやっぱりこっち側」
木乃葉が伏せたまま言った。
それはたしかにそうだった。
鳴海詩音も長谷川琴葉も、A組を“見ている”。
でも、見たものをそのまま暴こうとはしない。
その感覚が、やっぱり近い。
◇
「そういえば」
ひかりが鳴海を見る。
「何?」
「校内放送の声、やっぱり詩音ちゃんだった?」
「……」
空気が一瞬だけ止まる。
またストレートだ。
だが、前より少しだけ加減を覚えている。
“やっぱり”という曖昧さがついているぶんだけ、逃げ道がある。
鳴海は、少しだけ考える顔をしてから答えた。
「半分くらい」
「便利だね」
真白が言う。
「便利だから」
鳴海が返す。
教室にまた笑いが落ちる。
でも真白は、その“半分くらい”に少しだけ納得する。
本人も全部を開示する気はない。
でもゼロにもしたくない。
その距離感が、今のこの場にはちょうどいいのだろう。
「声を学校では“ただの声”にしたいって、長谷川さんから少し聞いた」
音々が静かに言った。
鳴海は少し驚いたように音々を見る。
「……」
「何その顔」
音々。
「いや」
鳴海は小さく息を吐いた。
「そこ、わかる人いるんだなって」
「うん」
音々は頷く。
「声って、拾われるから」
「……」
「今の瀬川さん、だいぶ本質」
真白が言う。
「褒めてる?」
「かなり」
鳴海はそこで、少しだけ本気で安心したように笑った。
「A組、やっぱり怖くない」
「それ、うれしいな」
絵麻が言う。
「褒めてる?」
鳴海。
「かなり」
「じゃあ受け取る」
これだけで、だいぶ距離は縮んだ気がした。
◇
結局、B組の二人は配布プリントを持って戻っていった。
去り際、長谷川が振り返る。
「また来るかも」
「書式なら歓迎」
ひかりが言う。
「だから書式限定みたいに言うのやめて」
長谷川が笑う。
「でも、今日はそれなりに歓迎してるよ」
さやかが言う。
「褒めてる?」
「かなり」
「やった」
長谷川。
鳴海はその横で、少しだけ目を細めて会釈した。
「また」
「うん」
真白が返す。
「また、おはようから」
「……」
鳴海は少しだけ驚いて、それから笑った。
「うん。たぶん、それが一番いい」
ドアが閉まる。
教室に、少しだけ余韻が残る。
◇
「……来たね」
ひかりが言う。
「来たね」
絵麻も頷く。
「何が」
真白が聞く。
「B組のもう一人」
「いや、それはそうだけど」
「ちゃんと人だった」
木乃葉が言う。
「何その言い方」
「もっと遠い感じかと思ってた」
「それはわかる」
澪が言う。
「でも、普通にプリント取りに来る人だった」
「学校ではまずプリント」
真白が言う。
「そこは大事」
「褒めてる?」
ひかり。
「かなり」
真白が答えると、また少し笑いが起きた。
そして真白は、少しだけ思う。
トップ声優疑惑の子も、結局学校では“プリントを取りに来る隣のクラスの子”から始まった。
そのことが、妙にうれしい。
外でどれだけすごくても、学校ではまずおはようとプリント。
その順番があるから、たぶんみんな同級生でいられるのだ。
「……やっぱり、学校って強いな」
真白がぽつりと言うと、
「そこに戻るんだ」
澪が笑った。
「でも、かなり正しい」
さやか。
「褒めてる?」
真白が聞く。
「かなり」
と絵麻。
また教室に、小さな笑いが落ちた。
トップ声優はまだ“疑惑”のまま。
でもその子は、ちゃんと教室の前まで来た。
名前を出して、プリントを受け取って、また戻っていった。
それだけで十分だ。
たぶん、今はまだ。




