第50話 隣のクラスのアイドル、学校では普通に困っている
“学校公表済みのアイドル”という肩書きは、強そうに見える。
実際、字面だけ見るとかなり強い。
公表済み。
アイドル。
学校側も知っている。
たぶん校則的にも処理済み。
普通の高校生活より、だいぶ情報量が多い。
でも真白は最近知っている。
肩書きが強そうでも、人間そのものが強いとは限らない。
歌姫でも喉の乾燥に悩むし、原案者でも委員会アンケートを書き忘れるし、VTuberでも英語ワークの提出で危うく死にかける。
つまり、学校へ来ればだいたい全員、多少は普通に困るのだ。
その真理が、四時間目の休み時間に、ついに2年A組の前へやってきた。
◇
廊下が少しだけ騒がしい。
ここ数日で慣れてきた種類のざわつきだ。
二年B組の前を中心に、ちょっとした人だかりができては消え、また少しだけ残る。
「またB組?」
さやかが眉を寄せる。
「またB組」
ひかりが答える。
「最近ほんとに近いね」
絵麻が言う。
「台風が接近してる」
木乃葉が机に伏せたまま言う。
「その比喩まだ続いてたの」
真白が言うと、
「気に入ってるらしい」
と澪が少し笑った。
そのときだった。
A組のドアが、遠慮がちに二回ノックされた。
教室の中が、ほんの少しだけ静かになる。
「……はい?」
と、さやかが反応する。
ドアの隙間から顔を出したのは、見覚えのない女子だった。
いや、正確には“教室でちゃんと会話したことはないが、廊下ですれ違った記憶はある顔”だ。
整った髪。
制服の着方はきちんとしている。
でも、どこか“見られることに慣れている人”の空気が少しだけある。
たぶんこの子だ。
二年B組の、公表済みアイドル。
「あの……二階堂さん、いますか」
「はい、私です」
さやかが立ち上がる。
「どうしました?」
その女子は、少しだけ困った顔で言った。
「文化祭の全体連絡の件で、ちょっと確認したいことがあって……」
うわ、と思ったのは、たぶんA組の中で真白だけではない。
芸能の話ではない。
文化祭の全体連絡。
つまり、学校の現実を持ってやってきたのである。
「……」
「……」
「……」
A組の数人が、わりと綺麗に“面白くなってきたな”の沈黙を共有した。
◇
「とりあえず、入る?」
さやかが言う。
「え、いいの?」
「廊下だと話しにくいでしょ」
「ありがとう」
そうして、二年B組のアイドルは、あっさり2年A組の教室へ入ってきた。
その瞬間、真白は思う。
始まったな。
第四章、という言い方はしたくないが、空気としてはもうそういう感じだ。
「えっと……」
その子は少しだけ教室の中を見回してから、
「長谷川琴葉です」
と名乗った。
名前までちゃんと出た。
情報量が一段増えた。
「二階堂さやかです」
「知ってる」
ひかりが小声で言う。
「委員長だから」
「今それ言わなくていい」
真白が返すと、ひかりがにやっとした。
「最近ほんと、反射で返すね」
「今そこじゃないでしょ」
長谷川琴葉は、ちょっとだけ目を丸くした。
たぶんA組の空気を測っているのだろう。
「えっと、文化祭の参加団体確認で……」
さやかがすぐに仕事モードへ入る。
「うん」
「B組で出してる企画書の書式が、学級企画用じゃなくて外部団体用になってて」
「……」
「誰が出したの」
「私」
「何で」
「マネージャー経由で受け取ったデータをそのまま印刷して……」
「うわ」
ひかりが言う。
「それ、学校と外仕事がぶつかるときのやつだ」
「かなり」
絵麻も頷く。
「わかる」
真白が小さく言う。
わかる。
それはかなりわかる。
学校のフォーマットと、外の世界のフォーマット。
似ているようで全然違う。
しかも急いでいるときほど、その違いは事故になる。
長谷川琴葉は、少しだけ恥ずかしそうに言った。
「先生に、“これは学校の書式じゃないです”って、すごく丁寧に返されて」
「うわあ」
さやかが両手で額を押さえる。
「それはだいぶ恥ずかしい」
「恥ずかしかった……」
「でもわかる」
と澪。
「やるよね、そういうの」
「朝倉さんも?」
と長谷川。
「まあ、種類は違うけど」
「……」
「何その“同類を見つけた”みたいな空気」
真白が言うと、
「いや、だって」
澪が笑う。
「学校と外の予定表がぶつかると、人はたまに様式で死ぬ」
「名言みたいに言うな」
さやかが言う。
「でも正確」
と木乃葉がぼそっと言った。
◇
長谷川琴葉は、その場で少しだけ肩の力を抜いたらしかった。
たぶん彼女も、A組へ来る前は少し構えていたのだろう。
有名ではないにせよ、学校公表済みで活動している立場だ。
余計に気を遣うはずだ。
でも、A組の第一声が「それはわかる」だったことで、だいぶ楽になったらしい。
「……なんか」
長谷川が言う。
「何?」
さやかが聞く。
「2年A組って、もっと静かで冷たい感じかと思ってた」
「それは偏見」
ひかりが言う。
「でも静かではある」
絵麻。
「冷たくはない」
と真白が言う。
「……」
「何その顔」
ひかりが聞く。
「いや」
真白は少しだけ言葉を探してから言う。
「学校の外に何かある人が、学校の中で普通に困ってるの見ると、ちょっとほっとする」
「それ、だいぶそのまま言うんだ」
澪が笑う。
「最近そういうの増えた」
さやかが言う。
「一ノ瀬さん、前よりほんとにちゃんと口にする」
「……まあ」
真白は少しだけ視線を逸らした。
「前より、わかるから」
「何が?」
と長谷川。
「その感じ」
「……」
長谷川は数秒、真白を見ていた。
それから、少しだけほっとしたように笑った。
「そっか」
「うん」
「じゃあ、ちょっと安心した」
その“安心した”は、たぶんかなり本音だった。
◇
そこからは、完全に委員長仕事の時間だった。
さやかが新しい書式を引っ張り出し、
ひかりが「ここは表記統一した方がいい」と口を挟み、
絵麻が「この説明、少し固いから一文減らしても意味通る」と言い、
木乃葉が伏せたまま「企画趣旨は最初に“見せたいもの”を書いた方が早い」とぼそっと言い、
音々が「クラス名の位置、下だと見落とす」と静かに指摘した。
真白はその様子を見ながら、ちょっとだけ笑いそうになる。
何なんだ、この教室。
それぞれの得意分野が、こういうどうでもいい学校書類で急に噛み合うのか。
「……すごいね」
長谷川琴葉がぽつりと言う。
「何が」
さやかが顔を上げる。
「2年A組」
「いや、今のは委員長が偉い」
ひかり。
「そこを私だけに寄せないで」
さやかが即答する。
「でも、みんな普通に直してくれるんだ」
長谷川が言う。
「……」
「何その間」
真白が聞くと、
「いや」
長谷川は少しだけ迷ってから言った。
「学校で活動公表してると、たまに“ちゃんとしてるでしょ”って前提で見られることがあるから」
「……」
「こういう、“普通にミスする前提で助けてもらう”の、ちょっと久しぶりかも」
その言葉に、教室の空気が少しだけ静かになる。
でも、その静けさを最初に崩したのは木乃葉だった。
「そりゃミスするでしょ」
「え」
長谷川が見る。
「高校生だし」
「……」
「何その、すごく普通のこと言う顔」
ひかりが笑う。
「いやでも、今のは正しい」
真白が言う。
「かなり」
澪も頷く。
「学校では、普通にミスするよ」
「……」
長谷川は数秒黙って、それから小さく笑った。
「ありがとう」
「何が」
木乃葉。
「なんか、すごく助かった」
「それは褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ受け取る」
「そこは素直なんだ」
真白が言うと、教室がまた少し笑った。
◇
話が一段落したところで、長谷川琴葉は少しだけ周囲を見た。
その視線の流れを、真白はなんとなく読んだ。
この人もたぶん、A組の中の“何か”を感じている。
でも、あえてそこは聞かない。
すると長谷川の方から、こんなことを言った。
「2年A組って」
「うん?」
と絵麻。
「なんか、みんな“そこまで聞かないでおく”の上手いね」
「……」
一瞬だけ空気が止まる。
やっぱり、気づく人には気づくのだ。
「そう?」
さやかが聞く。
「うん」
長谷川は少しだけ笑う。
「いろいろ察してる感じはあるのに、雑に広げない」
「……」
「何その、“そこ言う?”みたいな沈黙」
長谷川が言うと、
「いや」
ひかりが笑った。
「そこに気づくの、だいぶこっち側だなって」
「こっち側?」
「外の顔がある人の側」
「……」
長谷川は少しだけ目を細めた。
「そっか」
「うん」
真白が頷く。
「たぶん、そう」
それで十分だった。
全部を言う必要はない。
でも、この一往復だけで、たぶん長谷川琴葉はA組の空気をかなり正確に理解した。
◇
帰り際、長谷川がドアのところで振り返った。
「今日はありがとう」
「どういたしまして」
とさやか。
「書式、今度は間違えないようにね」
「がんばる」
「そこは“がんばります”では」
真白が言う。
「うわ」
長谷川が笑う。
「今の、ちょっと委員長っぽい」
「それは褒めてる?」
「半分くらい」
「便利だね」
真白が言うと、
「便利だから」
と長谷川が返した。
一瞬、教室が静かになる。
それからひかりが吹き出した。
「うわ、感染早い」
「一回で覚えた」
絵麻も笑う。
「適応力高い」
澪が言う。
「だめだ、この学校」
さやかが額を押さえる。
「外の顔持ってる人たちの順応が早すぎる」
長谷川は少し照れたように笑って、今度こそ手を振った。
「じゃあ、また」
「また」
と絵麻。
「次は書式合ってるといいね」
ひかり。
「それ、プレッシャー」
長谷川。
「褒めてる」
木乃葉が机に伏せたまま言った。
「それは嘘」
真白が即答すると、最後にまた教室が笑った。
◇
ドアが閉まったあと、少しだけ静けさが残った。
「……始まったね」
ひかりが言う。
「始まったね」
絵麻も頷く。
「何が」
さやかが聞く。
「A組の外側とB組の外側が、普通に教室の用事で交差し始めた」
「うわ」
真白が言う。
「それ、かなりそう」
「でも入口が文化祭書式なの、だいぶ学校」
澪が笑った。
「そこが良い」
木乃葉。
「何が」
「外の顔同士でも、学校ではまず書式でぶつかる」
「妙にリアルだなあ」
真白が言う。
そして少しだけ思う。
A組の外側は、もう教室の外だけのものではなくなってきている。
B組の外側とも、少しずつ近づき始めた。
でも、その最初の接点が“学校で普通に困っていること”だったのは、なんだかとてもこの物語らしい。
「……まあ」
真白は小さく言う。
「何?」
澪が聞く。
「学校では、結局みんな普通に困るんだなって」
「うん」
絵麻が頷く。
「そこは平等」
「褒めてる?」
とひかり。
「かなり」
と真白。
また小さな笑いが落ちる。
第四章は、たぶんこうして始まるのだろう。
隣のクラスのアイドルも、学校では普通に困っている。
そのことが少し可笑しくて、少しだけ安心できた。




