第48話 教室の外ではすごい人たち、でも朝になればまた同級生
朝の教室というのは、たぶん世界でいちばん容赦がない。
昨日どれだけ大きな舞台に立っていようが、
夜のうちに何万人へ向けて配信していようが、
締切に追われて半分概念になっていようが、
映画の関係者として賞の会場にいようが、
朝になれば、ちゃんと出席を取られるし、ノートは提出しなければいけないし、隣の席の人は普通に「消しゴム貸して」と言ってくる。
それが学校だ。
そして最近の真白は、その容赦のなさが、少し好きだった。
◇
第三章の終わりに向かうその日も、2年A組はいつも通りだった。
ひかりが朝から誰かの会話へ軽やかに割って入っている。
さやかは提出物の確認をしている。
木乃葉は机に伏しているが、今日は“人類五割”くらいの顔をしていた。
絵麻はノートの端にまた何か描いている。
音々は窓際で、外の風の音でも聞いていそうな顔だ。
澪は自席で、でも少しだけ教室全体を見られる位置にいる。
そして真白は、自分の席に座って、その全部を少しずつ見ていた。
前なら、ここまで丁寧に見なかった。
見ない方が楽だったからだ。
見てしまうと、自分もこの教室の一部だと認めることになる気がしていた。
でも今は違う。
見える。
見えてしまう。
そして、そのことが前ほど苦しくない。
「おはよう」
と、澪が言う。
「……おはよう」
と真白が返す。
ひかりがすぐに、にやっとした。
「はい、自然」
「何の判定」
真白が言う。
「朝の教室内距離感検定」
「まだその試験あるんだ」
さやかが呆れたように言う。
「しかも公式化されてる」
「便利だから」
木乃葉がぼそっと言う。
「便利ではない」
さやかが即答する。
「最近それが便利に逃げるための前振りになってるの、ほんとどうなの」
教室に少し笑いが起きる。
真白も少しだけ笑った。
こういうどうでもいい流れの中に、自分がもう普通にいる。
そこへ、最近はあまり違和感がなくなってきた。
◇
一時間目の前、ひかりが急に言った。
「ねえ」
「何?」
絵麻が顔を上げる。
「今さらなんだけど」
「うん」
「うちのクラスって、外で何してる人が一番多いんだろうね」
「急に雑誌の企画みたいな話し方」
と真白。
「それは褒めてる?」
「違う」
「でも気になる」
ひかりは楽しそうに言う。
「作る人多いよね」
「書く人」
と木乃葉。
「描く人」
と絵麻。
「歌う人」
と澪。
「弾く人」
とひかりが真白を見る。
「何その見方」
「今のはわりと事実寄り」
とさやか。
「音の人」
と音々。
「それ、そのまま自己紹介みたいになってる」
真白が言うと、
「そうかも」
音々が真顔で返した。
また笑いが起きる。
でもその会話は、妙にしっくりきた。
書く人。
描く人。
歌う人。
弾く人。
音の人。
見せ方を作る人。
まとめる人。
教室の外では、それぞれ違う肩書きや名前や役割を持っているのかもしれない。
でも朝の教室では、そんなものをあえて大きくしない。
それが、2年A組のルールだった。
「あと」
ひかりが続ける。
「普通っぽい人ほど怪しいんだよね」
「誰のこと」
さやかが言う。
「委員長とか」
「私!?」
「だって観察力だけ異常に高いし」
「それはこのクラスに鍛えられただけ」
「先生もそう」
と絵麻。
「風間先生、絶対ただの担任じゃない感じある」
「そこはみんなちょっと思ってる」
澪が頷く。
「でも、あえて言わない」
真白が言う。
「うん」
木乃葉も頷く。
「そこも含めてうちのクラス」
真白はそのやりとりを聞きながら、少しだけ思う。
このクラスは、ほんとうに不思議だ。
それぞれが、他人の外側の輪郭にうっすら気づいている。
でもそこを押し広げすぎない。
だから、今みたいな雑な会話の中に、それぞれの外側が少しずつ混ざっても、ちゃんと笑える。
◇
二時間目の休み時間、真白はたまたま窓際に立っていた。
曇り気味の空。
運動部のかけ声。
廊下を歩く他クラスの足音。
学校の音だ。
音々がその隣へ来た。
「何聞いてるの」
真白が聞く。
「外」
音々が言う。
「ざっくりしてる」
「でも、今の教室と外の音、ちょっと似てる」
「似てる?」
「うん。どっちも、いろんな音が重なってるのに、ちゃんと一つになってる」
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ笑った。
「今日の瀬川さん、たまに急に詩的だなって」
「褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ受け取る」
軽い。
でも今の言葉は、妙に残った。
いろんな音が重なってるのに、ちゃんと一つになってる。
それはたしかに、この教室にも言えることかもしれない。
それぞれ別の外側を持っている。
なのに朝になると、ちゃんと同じ教室の空気になる。
それは、少し奇跡みたいだ。
◇
昼休みには、例によって木乃葉が限界寄りになっていた。
「柊木さん」
さやかが言う。
「何」
「お昼食べた?」
「概念的には」
「それ、食べてない人の言い方なのよ」
「食べる気はある」
「気だけでは人は保たない」
真白が言うと、
「最近ほんとに一ノ瀬さん、自然に刺すね」
ひかりが笑う。
「刺してるつもりはない」
「でも前よりずっと会話の中の人」
絵麻が言う。
「うん」
澪も頷く。
「今の一ノ瀬、かなり普通に教室の人」
「教室の人って何」
真白が言う。
「うちのクラスの空気にちゃんと混ざってる人」
と絵麻。
「……」
「何その顔」
「いや」
真白は少しだけ視線を落とした。
「前なら、その言い方ちょっと嫌だったかも」
「今は?」
と澪。
「……今は、そんなに嫌じゃない」
「……」
「何その沈黙」
ひかりが言う。
「今の、だいぶ大きい」
さやかが真顔で言った。
「褒めてる?」
真白が聞くと、
「かなり」
と、絵麻がふわっと笑った。
真白も少しだけ笑う。
たしかにそうだ。
前なら、“教室の人”になることが少し怖かった。
でも今は、その怖さが少しだけ薄れている。
それはたぶん、この教室が“全部知ろうとはしないまま、ちゃんと受け入れてくれる場所”だからだ。
◇
放課後、また少しだけ人が残った教室で、ひかりがぽつりと言った。
「ねえ」
「何」
とさやか。
「たとえばさ、何年かあとに」
「うん」
「今の2年A組を思い出したら、どんな教室って言うと思う?」
「急に卒業文集みたいな話始めた」
真白が言う。
「そういうの嫌い?」
「嫌いではないけど、心の準備がない」
「じゃあ今する」
「雑だなあ」
ひかりは笑って、机に頬杖をついた。
「私はたぶん、“静かなのに変なクラス”って言う」
「雑」
と木乃葉。
「でもわかる」
と絵麻。
「私は、“みんな何か隠してたけど別にそれでよかったクラス”」
「うわ、それちょっといい」
澪が言う。
「委員長は?」
とひかり。
「私は……」
さやかは少し考えてから言った。
「“情報量が多すぎて最終的に諦めたけど、案外平和だったクラス”」
「それはすごく委員長」
真白が言う。
「褒めてる?」
「それはかなり」
「じゃあよし」
さやかが頷く。
「瀬川さんは?」
と絵麻。
「私は」
音々は窓の外を少し見てから言った。
「“いろんな音がしてたけど、ちゃんと教室の音だったクラス”」
「……」
一瞬、教室が静かになる。
「今の、だいぶ綺麗」
ひかりが言う。
「褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ受け取る」
最後に、みんなの視線が真白へ向いた。
「一ノ瀬さんは?」
絵麻が聞く。
真白は少しだけ迷った。
でも、今ならちゃんと言える気がした。
「……私は」
「うん」
「教室の外では、みんなたぶんすごい人たちだった」
「……」
「でも朝になれば、普通に同じ制服で戻ってきて」
「うん」
「それが少し変で」
「うん」
「でも、ちょっと誇らしかったクラス」
「……」
「……」
「何その沈黙」
真白が言う。
最初に笑ったのは、ひかりだった。
「うわ」
「何その“うわ”」
「いや、今のはもう、だいぶ締め」
「締めって何」
「第三章の最後っぽい」
「そのメタ寄りの言い方やめて」
真白が言うと、教室が少し笑った。
でも、その笑いのあとも空気はやわらかいままだった。
「誇らしい、か」
澪が小さく繰り返す。
「うん」
真白が頷く。
「わかる」
澪も頷いた。
「私もそう思う」
「私も」
と絵麻。
「うん」
木乃葉も短く言った。
「委員長としては、その結論はちょっと報われる」
さやかが言う。
「何に」
「今までの胃痛」
「そこはちゃんと褒めてる」
真白が言うと、
「かなり?」
とさやか。
「かなり」
と真白。
また笑いが起きる。
◇
帰り際、真白は教室を一度だけ見渡した。
木乃葉。
絵麻。
ひかり。
音々。
澪。
さやか。
そして自分。
教室の外ではすごい人たちなのかもしれない。
いや、たぶん実際そうなのだろう。
でも、ここではただの同級生だ。
それが少しだけ変で、少しだけおかしくて、でもちゃんと大事だった。
「……また明日」
真白が小さく言うと、
「うん」
澪が返す。
「また明日」
絵麻も言う。
「概念的にも」
木乃葉。
「それはもうよくわかんない」
真白が言うと、最後にまた教室が笑った。
その笑いを背に、真白は教室を出る。
第三章はここでいったん終わる。
でもたぶん、このクラスの“外側”は、これからまた別の場所で少しずつ交差していくのだろう。
それでも朝になれば、また同じ教室だ。
そのことが、今の真白には少しだけ楽しみだった。




