第47話 “知らないふり”が上手い教室は、たぶん優しい
優しさというものは、たまにわかりにくい形をしている。
大丈夫? と真正面から聞いてくれること。
困ってるなら手伝うよ、と言ってくれること。
そういう優しさは、わかりやすい。
でも、それだけが優しさではないのだと、真白は最近少しずつ思うようになっていた。
たとえば、見えても決定しないこと。
聞こえても、そこから先へ踏み込まないこと。
知っていそうでも、あえて“ただのクラスメイト”として接すること。
2年A組には、そういう優しさがある。
最初は、それをただの曖昧さだと思っていた。
あるいは、少し冷たい距離感なのかもしれないとも思っていた。
でも今は違う。
あれはたぶん、
“知らない”のではなく、“知っていてもそこを壊さない”
ための距離なのだ。
そのことを、真白はこのところずっと考えていた。
◇
その日の放課後、教室にはいつもの少人数が残っていた。
さやかは日誌。
ひかりは文化祭ポスターの最終微調整。
絵麻はノートの端にまた何か描いている。
木乃葉は机に伏しているが、今日は完全に寝ているわけではなく、たぶん原稿の文を頭の中で組んでいる顔だ。
音々は窓際で、片耳だけイヤホンをつけて外の音と教室の音を半分ずつ聞いているような顔をしている。
澪は部活前で少しだけ残っている。
そして真白は、配布物を揃えるふりをしながら、教室全体を見ていた。
「……」
「何その顔」
ひかりがすぐに気づく。
「何が」
「なんか今日、ちょっと考えごとしてる顔」
「してる」
と絵麻が言う。
「一ノ瀬さん、今わりと“言葉を探してる人”の顔」
「そこまでわかる?」
真白が聞くと、
「今日はちょっとわかりやすい」
と絵麻。
「一ミリじゃなくて三ミリくらい」
「単位が雑」
さやかが日誌を書きながら言う。
「でも今日はたしかにそう」
「最近の委員長、観察側に寄りすぎでは?」
ひかりが笑う。
「寄りたくて寄ってるわけじゃないのよ」
「でもだいぶ上手くなった」
澪が言う。
「何のスキルなの、それ」
「“このクラスの空気を読む”」
木乃葉が机に伏せたまま言った。
「ちっともうれしくない」
さやかが本気で返す。
教室が少し笑う。
その笑いが落ち着いてから、真白は小さく息を吐いた。
「……なんか」
「うん?」
と絵麻。
「最近、思うことがあって」
「お」
ひかりが反応する。
「それ、ちょっと珍しい始まり」
「やめて、そこに反応されると話しづらい」
「ごめんごめん」
ひかりは笑いながら手を上げる。
「で、何?」
真白は少しだけ迷った。
こういう話を、自分から教室の中で言うようになるとは思わなかった。
でも今は、言ってもいい気がしている。
「……うちのクラスって」
「うん」
さやかも手を止めて顔を上げる。
「“知らないふり”が上手いなって」
一瞬だけ、教室が静かになる。
けれどそれは、気まずい沈黙ではなかった。
むしろ、全員が同じ言葉をゆっくり受け取っているような静けさだった。
「……」
「……」
「……それは」
最初に口を開いたのは、木乃葉だった。
「褒めてる?」
「うん」
真白が頷く。
「かなり」
「うわ」
ひかりが小さく言う。
「今の一ノ瀬さん、だいぶ本音」
「そう?」
「うん。かなり」
絵麻は少しだけ目を細めた。
「知らないふり、かあ」
「うん」
「そうかも」
と絵麻は頷く。
「でも、“ふり”って言い方、ちょっと好き」
「何で」
と真白。
「ほんとに何も知らないわけじゃない感じが出るから」
「……」
「たしかに」
と澪が静かに言った。
「2年A組って、だいたい“うっすら見えてる”んだよね」
「そこなのよ」
さやかが本気で言う。
「見えてる。なのに決定打がない。だから委員長だけ胃が痛い」
「最後だけやっぱり苦労人」
ひかりが笑う。
「そこは褒めてる?」
「そこはかなり」
「最近そこだけはちゃんと精度高いわね」
また少し笑いが起きる。
でも真白は、その笑いの中でもちゃんと続けた。
「前はね」
「うん」
と絵麻。
「それが少し冷たいのかと思ってた」
「……」
「“見えてるなら何か言えばいいのに”って、少しだけ思ってた時もあった」
「……うん」
「でも今は」
「うん」
「たぶん違う」
「……」
「“言わない方がいい”って、みんなわかってるんだと思う」
その言葉に、教室の空気が少しだけやわらかく動いた。
◇
「それはわかる」
と、意外にも音々が先に言った。
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
「言うと思ってなかった?」
「少し」
「失礼」
「褒めてる?」
「今のは違う」
音々は窓の外から視線を戻して、静かに続けた。
「聞こえることと、口にしていいことは別」
「うん」
真白は頷く。
「だから、わかってても止まる」
「……」
「それはたぶん、教室でも同じ」
「……」
「瀬川さん、それたまにすごく本質」
ひかりが言う。
「褒めてる?」
「かなり」
「じゃあ受け取る」
軽い。
でも今の言葉は本当に本質だった。
真白は思う。
音々は“聞こえてしまう側”だからこそ、そこを言葉にできるのかもしれない。
「私はね」
と絵麻が言う。
「うん」
「見えたもの全部を、そのまま外に出しちゃうのは違うと思ってる」
「……」
「描くときもそう」
「描くとき?」
「うん。見えた感情をそのまま写すんじゃなくて、その人が見せてもいい形に少し変えるっていうか」
「……」
「桃園さん、それだいぶ大事なこと言ってる」
とひかり。
「そう?」
「うん。見えてるのに、そのまま晒さないってことだよね」
「たぶん」
「うわ、だいぶクリエイター」
さやかが言う。
「褒めてる?」
絵麻。
「かなり褒めてる」
真白はそのやりとりを聞きながら、少しだけ納得が深まる。
そうか。
このクラスの“知らないふり”は、ただ逃げているわけではない。
見えたものを、そのまま雑に扱わないための距離なのだ。
だからこそ、居心地が悪くならない。
◇
「でもさ」
ひかりが机に頬杖をつく。
「委員長の言ってた“知らないふり”って、ちょっとだけ違うかも」
「え」
とさやか。
「私?」
「うん。たぶん“知らないふり”っていうより、“本人が言うまでは決定しない”なんだと思う」
「……」
「何その、ちょっと裁判っぽい言い方」
真白が言う。
「いやでも、そうじゃない?」
ひかりは笑った。
「見えてる。わかってる。でも、それを“あなたこうでしょ”って決定した瞬間、教室の空気が変わる」
「……」
「だから止める」
「……それは、そうかも」
さやかがゆっくり頷いた。
「私も、ずっと“何かおかしい”とは思ってるけど」
「うん」
「だからって、そこを全部言葉にしたいわけじゃないんだよね」
「……」
「なんていうか、そのままの方が今のクラスには合ってる感じがする」
「うん」
真白も頷く。
「たぶん、それ」
そうだ。
それだ。
全部言葉にしたら、たぶん少し壊れる。
今のふわっとした距離、少し見えているまま笑っていられる感じ、そういうものが変わる。
だから、決定しない。
それは曖昧なのではなく、守っているのだ。
「……優しいね」
真白がぽつりと言うと、
「うわ」
ひかりが言う。
「何その“うわ”」
「いや、今日の一ノ瀬さん、かなりエモ側」
「自分でも少しそう思ってる」
「認めるんだ」
「今のは認める」
教室が少し笑った。
でも、その笑いのあとに残る空気は、前よりずっとやわらかかった。
◇
木乃葉が、机に頬をつけたままぼそっと言った。
「秘密を持ってる人ってさ」
「うん?」
と絵麻。
「人の秘密にもわりと敏感になる」
「……」
「それはあるかも」
真白が言う。
「だから“そこは触らないでおこう”の線が、ちょっとだけわかる」
「……」
「でも、全員がそうだと」
さやかが言う。
「結果的に“静かなのに情報量が多い教室”になるわけね」
「そう」
木乃葉。
「すごく嫌なまとめ方」
「でも正確」
ひかりが笑う。
「そこはほんとにそう」
澪が頷く。
「静かなんだけど、みんな何かしら持ってるから」
「しかも、持ってる側同士だから、余計に変に踏み込まない」
真白が言う。
「……」
「何その顔」
と真白。
「いや」
澪は少しだけ笑う。
「一ノ瀬、最近ほんとにそこ言葉にするね」
「前よりは」
「うん」
「悪い?」
「全然」
「褒めてる?」
「かなり」
その“かなり”が、前よりもずっと自然に受け取れる。
真白は少しだけ目を細めた。
前なら、こういうふうに自分の変化をクラスの中で口にされるのが少し怖かった。
今は、そこまでではない。
それもたぶん、この教室が“決定的には踏み込まない”からだ。
見られる。
気づかれる。
でも、そこで終わる。
それが案外、自分にはちょうどいい。
◇
「ねえ、一ノ瀬さん」
絵麻がふわっと言う。
「何」
「じゃあさ」
「うん」
「今の2年A組って、どういう教室だと思う?」
その質問は、前なら真白が一番困るやつだった。
抽象。
感情。
全体像。
そういうものを教室の真ん中で言葉にするのは、少し苦手だ。
でも今は、少しだけ考えてから答えられる気がした。
「……」
「……」
みんなが待っている。
真白は少しだけ窓の外を見て、それから言った。
「たぶん」
「うん」
「秘密を持った人たちが」
「うん」
「お互いの秘密を、壊さないようにしてる教室」
「……」
「何その顔」
「いや」
ひかりが言う。
「今の、かなりきれい」
「ちょっと好き」
絵麻が笑う。
「だいぶ本質」
と木乃葉。
「褒めてる?」
真白が聞くと、
「全員かなり褒めてる」
と、さやかが真顔で言った。
その真顔が少し可笑しくて、教室にまた笑いが落ちる。
でも、そのあとも空気はやわらかいままだった。
「壊さないようにしてる、か」
澪が小さく繰り返す。
「うん」
「それ、すごくわかる」
「私も」
と絵麻。
「だから、ここに戻ってこれる感じある」
「……」
「何その顔」
真白が聞く。
「いや」
絵麻は少しだけ目を細めた。
「今のは、かなりうれしい一言」
「褒めてる?」
「かなり」
もう最近、そればかりだ。
でも、その繰り返しが少し心地よくなっている自分もいる。
◇
帰り際、真白はあらためて教室を見渡した。
誰も完璧には知らない。
でも、少しずつ知っている。
そしてその“少し”を、ちゃんと壊さないように扱っている。
それはたぶん、ただの無関心ではない。
むしろ逆だ。
自分も秘密を持っているから、人の秘密にも雑になれない。
だからこそ、今のこの教室は静かで、濃くて、でも息苦しくないのだろう。
「……やっぱり、優しいんだね」
真白が小さく言うと、
「遅い」
と木乃葉。
「でも、ようやく」
と絵麻。
「委員長としては、その結論に至ってくれてちょっと安心した」
とさやか。
「褒めてる?」
と真白。
「今のはかなり」
と澪が言った。
教室が少し笑う。
真白も笑う。
“知らないふり”が上手い教室は、たぶん優しい。
そしてその優しさの形が、最近の真白には前よりずっとよくわかるようになっていた。




