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愛梨紗の冒険・4b

 愛梨紗は何も考えていない。ただ、美味しい肉を食べることに夢中になっているだけだ。

 赤いオーバーサイズのTシャツとデニムのショートパンツを身に着け、髪は左右にふわりと編んだ三つ編みでほのかにピンクが混じっている――そんな愛梨紗はまるで小さな女神のようにも見える。それを取り巻く若者たちはさながら神に仕える天使といったところだろうか。


 桃井翼は、そんな光景を遠巻きに見ながら、たったひとり、戦慄していた。

 ここには生命の輝きの頂点とも呼べるものがある。人は生きることに何の目的を持つかといえば、こうした瞬間を迎えることこそがその答えだと言えるだろう。


 愛梨紗が放つ、溢れんばかりの喜びを、周りの者も共に味わっている。それは愛される者と愛する者との幸福な交わりだ。しかも、愛される存在であるはずの愛梨紗は同時に人を愛する母性をも兼ね備えているのだ。そこには愛の無限の循環があった。


 大げさで人工的な星空に覆われた、クロノ・シティ第一階層の海上で、ぼんやりと温かな間接照明に照らされた屋上デッキは、もはや神々が住む天上界にもっとも近い場所のようにも思えた。


 黒いタンクトップにジーンズを身に着けた千堂しのぶは、頭にねじったタオルを巻いてホスト役を務めていた。ロジャーこと山田健太郎はキッチンにこもって、ひたすら肉や野菜などの食材を準備した。

 飲み物も無限に消費されていく。ときおり、物売りの水上バイクがハウスボートの近くを通ると、それを呼び止めて、積んである飲み物をごっそりと買い占めてしまったりもした。


 この海上には、他にもたくさんの船が出ていた。健太郎の海豹丸(かいひょうまる)は、次第に埠頭の先端から少しずつ離れていった。周りに船が密集して、衝突の危険が増してきたからだ。

 大きな声で笑う声、賑やかな音楽、踊り狂う人々の歓声、歌声と拍手、爆竹やクラッカーを鳴らす音、打ち上げられるたくさんの花火、夜が深いにも関わらず水上を駆け抜けていくたくさんのボート、熱く焼けるような風、冷たい水しぶき――


 呼び出しを受ければいつでも応じなければならない非番中の宇宙消防士たちは、一滴もアルコールを口にしていない。それにもかかわらず、みんなはぼうっと熱を帯びた表情で、お互いになんだかよくわからない楽しさに酔いしれ、笑ったり、歌ったり、踊ったり、からかい合ったりして、いつもは見せない自分をさらけ出している。


 そんな中で、普段の自分を失わずにいられているのは、愛梨紗と、そして、必死に努力して正気を保っている翼だけだった。


 翼は、そっと愛梨紗のそばに近づいた。小さな愛梨紗の身体にそのデッキチェアは大きすぎるので、彼女の横にはまだまだ余分なスペースがたくさんあった。

 翼のただならぬ表情に気づいた愛梨紗は、すぐに彼女を自分の横に座るよう促した。

「どげんしたと? 船酔いでもしとーと?」

「そういうわけじゃないんですけど、いろいろ気になることがあって……」

「なんねなんね? 相談事なん?」


 翼がデッキチェアに腰かけると、すぐにその手に木の皿が渡された。そばで侍女のように仕える沙織は、いつしか本当に王宮に務める人間になりきっているようだった。その目からは理性の輝きが失われ、どこか遠くの桃源郷を眺めているようだった。そんな沙織のことを、翼は痛々しく思った。


 さっきまで愛梨紗の隣りで最上級のもてなしを受けていたスバルは、すでにお腹いっぱいでデッキの床に倒れ込んでいた。仰向けでふうふう苦しそうにしている彼女の脇で、茂雄(ミスター)が優しく声をかけて励ましている。


 愛梨紗の隣りの特等席に座ると、もれなく肉を無限に食べさせられることになる。翼の皿の上には、愛梨紗の厳しい基準で焼かれた肉が次々と盛られていった。

 しずくと美穂と晴香が、網の上で肉をひっくり返したり切り分けたりを延々と繰り返している。そして、その横では俊作がブイヤベースの準備を始めていた。たくさんの魚介類をトマトベースのスープで煮込み、最後にチーズとご飯を加えて雑炊としていただくのだ。


 愛梨紗の胃袋はいつも通りのブラックホールだが、ここに集まる新人宇宙消防士たちの胃袋もまた、それに劣らぬほどのブラックホールと化していた。

 お腹がぱんぱんになって苦しんでいたスバルでさえ、みるみるうちに腹が引っ込んでいる。

 それらすべてが、人体三十七兆個の細胞の中に入り込んだ機械細胞(マシン・セル)のミューオン触媒核融合体による作用なのだ。


「愛梨紗さん、みんなの様子がおかしいことに気づいてますか?」

 翼は小声でささやいた。

 小さな手でフォークを持ち、肉を口に運ぶ動きが止まらない愛梨紗は、思いのほか冷静に答えを返した。

「気づいとるに決まっとるじゃなかね」

 それを聞いた翼は、なんだか大きな救いを得たように心から安堵した。

「そうですよね、みんな変ですよね。私、とっても怖いんです」


 翼は思わず愛梨紗の手を握りたかったが、その両方ともが塞がっているので、仕方なく、彼女の細い脇腹(これだけ食べてもまったく膨らんでいない!)をそっと抱えた。

「なんね、くすぐったかじゃなかね」愛梨紗はもじもじした。それでも食べるのは止まらない。

「愛梨紗さん、私たち、これからどうしたらいいんでしょうか?」

 すがるように身を寄せる翼の皿に、どさどさと肉が運ばれてきた。

「翼もはよ、食べりー」


 翼もお腹は空いているが、今はそれどころの気分じゃない。しかし、言われるままに食べた。周りの目が恐ろしかったからだ。沙織もしずくも美穂も晴香も、じっとこちらを見ている。男の子たちは次の料理を作るために走り回っている。食べきれないほどの食材、飲み切れないほどの飲み物が積み上がっている。宴はまだまだ終わりそうにない。


 翼が肉を口に入れた途端、幸福感がガツンと脳をぶっ叩いた。これなのだ、翼が恐れていたものは。苦しいものや嫌なものは、それに対して心を閉ざしていれば乗り切ることができる。しかし、快感や幸福は心の隙間に容赦なく入り込んでくる。


 先にダウンしてしまったスバルのように、翼もまたこの場の雰囲気に流されそうになった。冷静さを保つよう、みんなに訴えかけるのは空気の読めない野暮なことだ。楽しい雰囲気に水を差す非常識な行為だ。そんな周りからの圧力が、彼女の理性を圧迫してくる。


「どうしましょう? 愛梨紗さん……」

 もはや、自分でも何を助けてもらいたいのかわからなくなってきた。翼は込み上げてくる熱と興奮と気持ちよさとで、脳がとろけてしまいそうだった。


 そのとき、愛梨紗はふいにフォークを運ぶ手を止めた。まるで永久に動き続けるかに思えていた機械が突然に止まったかのようだった。それがあまりにいきなりだったので、愛梨紗だけが静止し、その周囲の風景が上下に動いているかのような錯覚を覚えたほどだった。


 愛梨紗は言った。

「こげなところで騒ぎよったらみんなおかしくなるけん、これから全員で別のとこに行かんね?」

「別のとこですか?」

 と、訊き返す翼の皿に、容赦なく肉が積まれていく。そばでお世話してくれる沙織はすでに自動人形のようになっていて、その耳にまともな言葉は届かなそうだ。

「そう、別のところたい」

 すると、愛梨紗はネビュラでしのぶを呼び出した。


 そのときちょうどしのぶは下のフロアーにいて、健太郎と一緒に新しい食材を配達人から受け取っているところだった。どんどん運ばれてくる食べ物を仕分けするのが面倒になってきた二人は、ほんのちょっとだけ寝室で倒れ込みたい気分だった。


「おい、ロジャー、私は疲れてるんだよ」

「俺だって疲れてるさ」

「ルーキーズがみんないるんだからさあ」

「みんないるからどうだって言うんだい? ちょっと休むだけだろう?」


 そのやり取りをすぐそばのキッチンで聞いていた和馬と拓也は、なんだか自分たちが邪魔ものになった気がした。

「なんか、生々しいな、リーダー……」

 思わず拓也はつぶやいた。


 そのとき、しのぶのネビュラに愛梨紗の声が届いたのだった。

「ねえ、しのぶ、今からみんなで遊園地に行かんね?」

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