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愛梨紗の冒険・2a

 愛梨紗は夕食を作るために立ち上がった。早くお腹を満たさなければ、ベッドに座り込んだまま気絶してしまう。

 同居人がいてくれれば気絶してもなんとかなるのだが、自分一人しかいないとなると、そのまま起こしてもらえるまで何十時間も倒れていなければならなくなるかもしれない。


 愛梨紗はリビングに出ると、しのぶが使っている個室のドアのほうを見た。

 やはり、予感の通り、そこには封筒の形のアイコンがくるくる回転していた。それがちょうど愛梨紗の目の高さと同じ低いところに浮かんでいるのは、しのぶの気遣いだろう。


 あの置手紙があるということは、今、しのぶはどこかに出掛けているのだ。

 愛梨紗が、ネビュラを通してそのアイコンを選択すると、視野の中にぱっと窓が開いて、おめかし中のしのぶの上半身が映った。彼女は洗面所でドライヤーを頭に当てて、わしわしと髪を乾かしているところだった。そのウェーブがかった短い黒髪は、彼女のドライなボーイッシュさをストレートに表現している。


 しのぶは、ドライヤーを使いつつ、視線を鏡とカメラとに交互に向けながら、こう語った。

「ごめーん、愛梨紗、起こさないで行くね。さっき、ロジャーに呼び出されたんだ。今日は『金星人地球を征服』と『X線の眼を持つ男』を一緒に観ようだってさ。別に私は興味ないんだけど、ロジャーがどうしてもって言うから、しょうがなく行ってくるよ。多分、泊りになると思う」


 髪を乾かし終えたしのぶは、ヘアスタイル固定液をさっと頭にスプレーして、洗面所から離れた。カメラはそのまま彼女を追って個室のほうへと向かった。

 映像の中のしのぶの部屋には、昼間の日差しが燦々と差し込んでいる。彼女は黒い下着の上から、いつもの黒いタンクトップを着て、ぴっちりしたジーンズを穿いた。大きく胸を反らして着替える彼女は、どこかウキウキを抑えきれない様子だ。


 しのぶは、ジーンズを穿くのに四苦八苦しながら、話を続けた。

「なんか、さっき翼ちゃんからメッセージが来たよ。新人宇宙消防士(ルーキーズ)たち全員で西の海岸にバーベキューをしに行くんだって。ロジャーが住んでるハウスボートがちょうど近くにあるから、私たちも参加しないかってさ。行けたら行くって、言っといたよ。もし、行くときはあんたも誘うかもしれないから、そのときは呼ぶね」


 やっとのことでお尻がジーンズに収まったしのぶは、ふうと大きく息をついた。

「じゃあ、行ってくるわ」

 その言葉と同時に、ぷつりと映像が途切れた。


 再び夜の静かな部屋に戻された愛梨紗は、胸の中にひんやりと寂しさが紛れ込んでくるのを感じた。

 今夜は、クロノ・シティに引っ越してきてやっとのことでまともにのんびりできる最初の夜だというのに、これからひとりぼっちで晩御飯を食べなければならない。


 海辺のバーベキューが羨ましいなと、愛梨紗は素直に思った。

「呼んでくれたら行くっちゃけど、それば私から催促するわけにはいかんたいね」

 せっかくしのぶとロジャーが水入らずの時間を過ごしているときに、それを横から邪魔するのは気が引ける。後輩たちの集まりに先輩一人で参加するというのも気まずい。


「はあ……、呼んでくれたら行くっちゃけど……」

 愛梨紗は未練がましく何度もつぶやきながら、晩御飯を作るためにキッチンへと向かった。


 いつもの見慣れた調理用具を前にすると、自然と気持ちが切り替わった。柱に備え付けられた機械から、洗い立てのエプロンがさっと飛び出してきた。愛梨紗はそれを引き抜くと、ぱんと音を立てて勢い良く広げた。エプロンは彼女の髪色に合わせて淡いピンク色だ。


 愛梨紗は鼻歌を始めた。

「さて、ごはん、ごはん」

 何はともあれ、最初はお米を研ぐところから始まる。愛梨紗がこだわっている電気圧力鍋は、大昔に(かまど)が使われていた時代のものとほとんど変わらない、粒が立ってツヤツヤした美味しいご飯を炊き上げてくれる。コメはもちろん、日本の米どころから取り寄せた本物のコメだ。けっしてデンプンを固めて作った安いイミテーションなどではない。


「お肉、お肉」

 大型の冷蔵庫には、常に補充を欠かさない食材たちがぎっしりと詰め込まれている。牛、豚、鶏などの肉も、もちろん生きていた本物の肉だ。けっしてたんぱく質を固めて作った安いイミテーションなどではない。


 愛梨紗が生まれるちょっと前の時代、こうした本物の動物たちの食肉が一時市場からすっかり姿を消した時期があった。その潮流はまるで、二十世紀初頭のアメリカで施行された禁酒法のように、人々が合法的に肉を口にする機会を奪った。


 それは宇宙に人類が進出し始めた三十年前に、突然始まった。動物愛護の声が高まり、食べるために動物を飼うことの是非を問う大論争が巻き起こったのだ。「生きた動物の肉を食べるべきではない」という論調が、全世界に吹き荒れた。


 食肉禁止が始まったきっかけは、宇宙で食用の動物を育てるためのアイデアをみんなで出し合ったことからだった。最初はいかにしてコストを抑え、効率的に宇宙で流通させるかという話し合いだったはずが、いつしか動物の肉を食べるべきかどうかという、根本的な議論にすり替わっていった。


 多くの畜産業で隠れて行われていた、ほとんど虐待とみなせるような飼育の実体が、マスコミによって暴かれていった。さらには内部告発も盛んに行われた。これほどの罪を犯しながら、それでもまだ肉を食べたいのかという問いが、当時の人々につきつけられた。


 突然に始まった熱狂は、瞬く間に世界を覆った。人々が納得する前から、早々に市場から肉が消えていった。畜産業は買い手を失い、次々と廃業していった。大豆などのたんぱく質で代替肉を作る新興企業が、大きな勢力を得て、本物の食肉を一掃してしまった。それは思想のうえでも強い影響があったのと同時に、多くの国々で肉を食べることが非合法とみなされたことによっても加速された。

 そうして本物の肉が食べられなくなった時代は、実に十年近くもの間続いた。


 愛梨紗は幼い頃にその話を聞いたとき、自分が生まれる前にそんな暗黒時代があったのかと、夜に夢を見てうなされるほどショックを受けた。彼女が生まれた時期が、ちょうど肉食が再開し始めた時期と重なっていた。


 現在、生きた動物の食肉は普通にお店で買うことができる。もちろん、かつて横行していたような、ひどい環境で飼育された動物のものではない。厳しい基準を満たし、やがては食肉になるとしても、それなりに愛情をこめて育てられた肉だけが市場に並ぶようになった。


 人類が肉を食べる文化は、何千年もの歴史を持っている。サルから進化したと考えるなら、数百万年前からヒトは肉を食べてきた。世界中の異なる文化は、それぞれに異なる食文化を土台にして成り立っている。人々は、それぞれが住まう風土に合わせて食文化を育んできた。そこから宗教や生活習慣が生まれた。それを突然に一時の熱狂で捨ててしまえるほど、文化というものは単純ではない。かつて禁酒法が廃止されたように、肉を食べることを禁止する法律もやがて少しずつ消えていった。

 人類は、恐る恐る、また肉を食べ始めたのだ。


 愛梨紗は冷蔵庫の扉を開き、中を一通り見回してから、じっくりと考えた。

「私も骨付き肉にしよーかね」

 あばら骨がついたままの牛肉が巻物のようになっている大きな包みを、愛梨紗は取り出した。今夜はこれで、一人豪勢にパーティといこう。

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