デス・レース2071年・4b
その瞬間、下から吹き上げていた風がぴたりと止まった。
風で潰れていた茂雄の顔が、たちまち凛々しい真顔に変わった。
「黒川さ……」
スバルは思わず握っていた手を離し、後ずさりした。
支えるものがなくなった茂雄は、一・五メートルの高さからまともに落下した。ばーんと破裂するような音がして、彼の身体はビニール製の床に叩きつけられた。
とっさに手を引っ込めて逃げてしまったスバルは、はっと我に返った。
「ごめん、ミスター」
スバルは急いでしゃがみ込むと、うつぶせになっている茂雄の頭をひっくり返して、膝の上に抱きかかえた。
周りからわーっと歓声が沸き起こった。拍手が嵐のように押し寄せ、辺り一面、見渡す限りの野次馬たちの笑顔でいっぱいになった。
スバルはいたたまれなくなって、真っ赤な顔をうつむけた。今までずっと目の前のことに必死になっていたせいで、周りからこんなに注目されていることに、まったく気づいていなかった。
スバルが見下ろした先には、満ち足りたように気を失っている茂雄の顔があった。彼は眼鏡をどこかにすっ飛ばしてしまっていた。スバルは彼の重みを膝の上で感じていた。彼の短く刈りこまれた髪は、風を浴びたせいですっかり乾ききっている。
さっきまではこの男のせいで怖い思いや腹の立つ思いをしたというのに、なんだか急にすべてが洗い流されて、スバルはすっかり近しい家族を抱いているような気分になっていた。
なぜだろう。彼が自分の気持ちを行動で示してくれたことが、二人にあった壁をぶち破ってしまったのだろうか。壁があったときには、揺るぎない隔たりがそこにあるという実感がはっきりしていたのに、その隔たりがなくなってしまうと、元からそこに壁なんかなかったような気がしてくる。自分たちは昔から親しかったような感じがするのだ。スバルは全身で、その新鮮な感覚を味わっていた。
頭を撫でられる感触で、茂雄は目を覚ました。膝枕されている喜びにひたりながら、茂雄は目をしばたたいた。
二人がどんな会話をするのだろうかと、取り囲んでいる群衆たちは押し黙り、耳を澄ませた。
茂雄の視点から見ると、こちらを見下ろしているスバルの顔がぼやけて見える。彼女の輪郭を覆うように垂れ下がっている赤い髪の毛だけが鮮やかに目に映った。その背後の空は青く澄んで、その瞬間に第三階層が低い唸りを上げて通り過ぎていくのがわかった。
「黒川さん、眼鏡はどこかな……?」
「眼鏡?」
慌てたスバルはとっさに立ち上がったので、膝に乗せていた茂雄の頭は床にどさりと落ちた。ここが風船でなかったら目から火が出ていたところだ。
「いてて」
「ごめん! ミスター」
スバルはすっかりパニックになっている。彼女の手にはすでに眼鏡が握られているのに、それに気づかずにまだ一生懸命辺りを探していた。
「黒川さん、もう持ってるよ」
茂雄は、仰向けに倒れたまま微笑んだ。
スバルはやっと、すでに握りしめている眼鏡に気づいた。それは最新のデバイスをめいっぱい詰め込んでいるだけあって、まるで鉄の塊のように重かった。彼はこんなに重いものをいつも着けているのかと思うと、スバルは急に茂雄に対する尊敬の気持ちが湧いてきた。
「ごめんね、ミスター」
スバルは、元の場所に正座し直すと、いそいそと茂雄の頭を抱え直した。
再び彼女の膝の上に頭を乗せた茂雄は、こんな幸せがこの世にあっていいのだろうかと、むしろ不安になりかけていた。
スバルは、愛おしむように茂雄の頭を撫でている。
「ミスター、まだ寝ていたいなら、寝てていいよ」
茂雄は、かえって落ち着かなくなって、ゆっくりと身体を起こした。
「よすよ、また夢になるといけないから」
本当にそれだけは冗談じゃないと、茂雄は内心ひやひやしていた。これもまた夢オチだったら、たまったものではない。
「うふふ」
と、スバルは顔をほころばせた。「まるで『芝浜』みたい」
彼女が初めて見せてくれた素直な笑顔に、茂雄は感激した。
「黒川さん、落語に詳しいの?」
「そんなに詳しくないけど、ちょっとだけ知ってるの。『茶の湯』とか『寝床』とか『二番煎じ』とか……」
スバルがそうやって落語の演目を並べている間に、身体を起こした茂雄は、座った姿勢のまま、大胆にもスバルの肩に腕を回した。
彼女はわずかにぴくりと震えたが、抱きかかえられるままに、彼に身を委ねた。なぜだかわからないが、彼女自身もびっくりするほど、彼のことが怖くなくなっていた。
茂雄は、スバルの肌の感触と体温を、むき出しの上半身で直に感じた。不思議なことに、その感触は彼に喜びよりも、「守ってあげなければ」という使命感を呼び起こした。
周囲の野次馬たちは、だんだんと居心地が悪くなってきたようだった。こんなに間近で二人の会話を盗み聞きしたり、あまつさえそれをネビュラで記録したりなどするのは、あまりにも野暮なことに思われた。だから、少しずつ彼らは静かにその場から散り始めた。
周りから人がいなくなり始めたのを感じて、茂雄とスバルはようやくホッと一息ついた。
「なんだか、大騒ぎしていたのがバカみたい」
スバルが頭を傾けたので、茂雄の顔の半分が、彼女の赤い髪に埋もれた。ふわりと爽やかな、お日様の匂いがした。
昔の自分だったら、こんなときは必死になって彼女の匂いを脳裏に刻み付けようとしていただろう。しかし、今の彼は、もっと大きな未来の幸福のために今の行動を選ぶようになっていた。
茂雄は、そっと身体を離すと、スバルの顔が真正面に来るように、彼女の両肩を優しくつかんだ。
彼女の潤んだ青い目が、まっすぐにこちらを見つめている。さっき空中で潰れたカエルのようにもがいていた茂雄と向き合っていたときと同じだ。だが、今度はさっきよりもわずかばかり、心安い感じがした。いや、さっきと比べたら、ものすごく気が楽だった。
「ごめんな、黒川さん、俺はそんなに経験豊富なわけじゃないんだ」
「だろうね、見ればわかるよ」
そう言ってくすりと笑うスバルの顔をまともに見ても、茂雄は全然緊張しなかった。恋する異性と会話するときが、人生で一番多くのエネルギーを必要とするのだと、彼は今日の今日まで信じていたのに、実はそうでもないことがわかった。
きっと、これがモテる男とモテない男の境界線なのだ。彼はいつの間にか、そこを踏み越えてしまっていた。いざ踏み越えてしまうと、最初からそんな境界線などなかったような気がしてくる。
二人が座っている、フォアマストの二段目の見張り台には、いつの間にか誰もいなくなっていた。野次馬たちはおのおのの遊びに戻っていた。実はそのすぐ真下には、救命医の桜井美穂が段索にしがみついていたのだが、甘い会話を盗み聞きするのも申し訳ない気がして、少しだけ距離を置いていた(でも、しっかり聞いていた)。
メインマストのほうでは、男たち四人と、後からきた暁しずく、そして、それを追ってきた海野沙織がいた。みんなは手すりの陰に隠れて、茂雄とスバルの様子をじっとうかがっていた。
「あの子たち、キスするかな?」
「まさか」
しゃがんだ姿勢のまま、ぴょんぴょんとウサギのように飛び跳ねている沙織を、和馬は冷静にたしなめた。もっと間近で見たい気持ちと、それは二人に悪いという気持ちとの葛藤で、沙織はずっと落ち着かない。
しずくは、胸の痛みに耐える複雑な気持ちでこの場にいた。ついさっき、茂雄が見せた勇ましい姿が、彼女の脳裏を何度もよぎった。これまで、宇宙消防士の訓練の場で見せてくれていた茂雄のイメージそのままの立派な飛びっぷりだった。彼はドジだったり無鉄砲だったりするけれど、それで何度もみんなをピンチから救ってきたのだ。みんなは彼をバカにしがちだったけど、しずくはちゃんとまともに評価していたつもりだ。
「あーあ、逃がした魚は大きいなあ」
熱く焼けた手すりに顎を乗せたしずくは、力なくその場にへたり込んだ。
その隣りで、ジュウザは突っ立ったまま、遠慮がちに距離を取っていた。しずくに言葉を掛けたいけれど、どんなことを言ったらいいのかわからない。
沙織は、そんなジュウザのことも気にかけていた。
「ねえ、和馬くん」
「なんだい?」
「次はジュウザの番だね」
そう言ってウインクしてみせる沙織の表情は、カップルをくっつけたくて居ても立ってもいられない、お見合いおばさんのようだった。自分と和馬の件が首尾よく片付いたものだから、今度は周りが気になって仕方ないのだ。
「君も暇だな」
「なに言ってんの、リーダーとして、チームメイトの福利厚生を気に掛けるのは大事な仕事だよ」
しずくの隣りでソワソワしているジュウザの後ろには、パイロットの拓也と救命医の俊作が控えている。彼らにもそれぞれ恋愛事情があるに違いないから、それを手伝ってあげるのは、確かにリーダーとしての責務かもしれないと、和馬はちょっとだけ思った。それに、正直なところ彼もまた秘かに好奇心を刺激されていたのだ。
ゴムボートにいる翼と晴香は、とりあえず一段落したことで、リラックスしたムードだった。飲み物の売り子が水上バイクでやって来た。二人はフルーツがたくさん入ったトロピカルな飲み物をいただいた。
「なんだかんだ、いろいろあったね」
翼は口ではそんな気楽なことを言っていたが、頭の中ではこの状況を懸命に分析していた。
いろんな場所で、新しい恋が次々と成就しようとしている。これは、みんなを細胞レベルで動かしている機械細胞の力なのだと、翼は確信していた。
これこそが、アリア・ヴィアが目論んだ楽園実験なのだ。二十世紀の悲惨な結果を招いた楽園実験とは違って、今回の二十一世紀の楽園実験は、とても不思議でワクワクするような結末を見せてくれるかもしれない。




