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デス・レース2071年・4a

 漆黒の闇の中に、茂雄は落ち込んでいた。何もかもが真っ暗だった。つかみかけていた愛する存在を、二つとも同時に失ったのだ。それが自業自得だと責められても、彼に反論する余地はまるでなかった。自分の情けなさは、自分がよくわかっている。


 本当にすべてが真っ暗だった。まるでクロノ・シティの全体に突然夜が訪れたかのように、光ひとつない真の暗闇だった。

 茂雄は、何も見えない状態で辺りを探り、すぐ正面にあった見張り台の手すりに触れた。熱い風に焼かれたビニール製の手すりは、火傷しそうなほどに熱かった。


「おい、ミスター、なにフラフラしてるんだ?」

 すぐそばからそう言ってきたのは、救命医の足立俊作だった。黒川スバルに恋をしている茂雄のために、彼はこれまでいろいろと世話を焼いてくれた。


 茂雄は妙にさっぱりした気分になって、思わず口から言葉が漏れた。

「ありがとう、俊作、お前には本当に感謝している」

「あ、はい」

 真っ暗なせいで姿こそ見えないが、俊作の困惑したような返事が、茂雄の耳に届いた。


「ところで、どうして真っ暗なんだ? 停電でもしたのか?」

「はあ?」

「俊作、お前はどこにいるんだよ」

「眼鏡のレンズを調節しろよ、ミスター」

 そう言われてやっと、茂雄は暗闇の原因が自分の眼鏡のレンズのせいだと気づいた。茂雄の特別製の眼鏡は、黒さの調節を最大限にすると、あらゆる隙間を埋めてアイマスクのように光を塞いでくれるのだ。


 茂雄は、こめかみ近くのフレームに手を触れて、適切な明るさに調節した。たちまち世界は光に溢れた。眩しすぎて目が潰れそうだ。

「こんなに世界はきれいなのに、俺にはもう何も残っていないよ」

「なに言ってんだ? お前」

 俊作は呆れた顔をしてこちらを見ている。彼のつんつん跳ねた黄色い髪が、日光を浴びて黄金のように輝いていた。たくましい筋肉の下に唯一身に着けている海パンも黄金色だ。そこには若さと未来への可能性がいっぱいだった。


 茂雄は、ふっと口元に笑みを浮かべた。

「俊作、俺の代わりに、幸せになってくれよ」

「だから、なに言ってんだ? お前」

 俊作は腕組みをしたまま、見張り台の端から斜め下の方向を覗き込んだ。その視線の先には、スバルが座っている隣りのマストの見張り台がある。そうしながら、彼は言った。


「ミスター、早く黒川さんと決着をつけろよ」

「決着ならついたよ」

「なに言ってんだ?」

「渾身のあっかんべーで敗北しただろ」

「はあ?」

 俊作があまりにもわかりやすく困惑しているので、茂雄もつられて困惑した。


「黒川さんが、あっかんべーしてそっぽを向いちゃっただろ?」

「向いてねえよ。黒川さんなら、さっきからずっとこっちを見上げてるじゃないか」

「なんだって!」

 茂雄は、熱いビニール製の手すりに飛びつき、大きく身を乗り出した。胸が火傷するほど熱かったが、むしろその痛みが、彼にこれが本物の現実なのだという実感を与えた。


 本当だった。愛する黒川スバルは、その青い瞳を潤ませて、じっとこちらを見上げている。彼女の華奢な身体は二枚の赤いビキニで彩られ、その華やかなカールした赤毛は、元気で無邪気な少年っぽさを強調している。


 見張り台の手すりから顔を出した茂雄に気がついたのか、スバルはかすかにほっと安堵のため息をついたようにも見えた。

「もしかして、まだあっかんべーしてない?」茂雄は、俊作に向かってすがるように訊いた。

 俊作はめんどくさそうに無表情で答えた。

「あっかんべーしてないよ」

 そういえば、さっき茂雄を徹底的に罵倒した暁しずくの姿も見当たらない。彼の胸に、喜びの気持ちが怒涛のように溢れてきた。それはまさに、悪夢がただの夢だったと気づいたときの圧倒的な喜びだった。


「もしかして、タイムリープ?」

「夢でも見てたんだろ。レンズ真っ黒にしてさ」

「まさかの夢オチ?」

 茂雄は一瞬だけ眼鏡を外すと、自分の頬を力いっぱいつねってみた。その激痛が、彼に再び現実を実感させた。


 スバルはあっかんべーしていないし、暁しずくもまだここに辿り着いていない。決死の告白を実行したはずのジュウザも、まだソワソワしたまま足元の段索(ラットライン)を見下ろしている。つまりは、茂雄はまだ何も失っていないということだ。


 そのとき、リーダーの森崎和馬が唐突に明るい声を張り上げた。

「おうい、ミスター、そろそろ暁さんが登ってくるぞ。せっかく来てくれたんだからお出迎えして差し上げろよ」


 ここで何をするべきか、落合茂雄という男はすべてを悟った。さっき見せられた悪夢のような場面は、彼が見た束の間の未来のシミュレーションだったのだ。彼は気づいていないが、それはミューオン触媒核融合体が生み出した無限のエネルギーが彼に見せた幻だった。


 バーベキューの場でスバルの手を握りしめていたときには、このシミュレーションがうまくいかずに先走り過ぎてしまった。先走ったがために、結婚式の真似事をしてスバルを逃してしまった。だが、今回は違う。彼の頭脳は的確な未来を探り当てていた。


「俊作、俺は今日から生まれ変わるぞ」

「おお、力いっぱいやれ、ミスター」

 茂雄は力強くうなずくと、手すりに乗せた両手に全体重をかけた。彼の身体がするりと手すりの向こうに滑り出した。そうして飛び出す寸前に、茂雄は胸の中の思いを力いっぱい叫んだ。


「黒川さーん! 好きだああああああああ!」

 そのとき、スバルの顔がぽっと赤らんだのを、茂雄は見逃さなかった。さっきは本当に嫌がって「殺すぞ」とまで言っていた彼女が、その青い瞳を美しく輝かせて、こちらを見上げている。まるで、彼のその言葉をずっと待っていたかのように。


 茂雄の身体が宙を舞った。

 本当に施設の説明の通り、下から高密度の圧縮された空気が噴出した。身体がぐっと押し上げられ、両手両足をぴんと伸ばした彼はスーパーマンのように勇ましかった。黒い海パン一丁の男らしい姿が、みるみる二十メートル先の隣りのマストまで飛んでいった。


 野次馬たちがそれを見ていた。スバルを追いかけていた子供たちやその保護者は見張り台に押しかけ、彼女の周りを取り囲んで事態を見守っていた。甲板にはマストに登り切れなかった人たちが人だかりを作っていた。人々の目は、茂雄とスバルの恋の行方に注がれ、そのネビュラで一部始終を記録しようと狙っていた。こうして初々しい恋の顛末は噂となって大衆の間に広まっていくのだろう。


 ジャーナリスト志望であり、将来は名の知れた哲学者になることを夢見ている桃井(ももい)つばさは、少し離れたゴムボートの上からその様子を見ていた。

「群衆の興奮は最高潮に達している。決断を迫られた男子と、その申し出を受け入れるか否かの葛藤と戦う女子とが、それぞれが取るべきもっともふさわしい選択のために、今、この場に臨んでいるのだ」

「いいぞ、感じが出てる」

「晴香、邪魔しないで。原稿を考えているんだから」

「それ、どこに出すのよ?」

「いいでしょ、別に」


 ディビッド・リップマンが主宰するジャーナリスト専用のプラットフォーム「ピッコロ・モンド・カフェ」のことは、他のみんなには内緒だ。

 二人が乗るゴムボートは、穏やかな波の上でふわふわと揺れている。


 空を飛んでいる茂雄にとっては、一世一代の大舞台だ。目指す先には愛する人がいる。今度のスバルは逃げずに彼を待ってくれていた。

「黒川さん! そこで俺を受け止めて!」


 茂雄の身体はゆっくりと下降した。スバルが待つ見張り台が近くになるにつれて、吹き出す空気の勢いはますます強くなった。まるで彼とスバルとの距離をできる限り引き延ばすかのようだ。茂雄の全身の皮膚と、腰を覆う海パンとが、強い風を受けて波紋のように波打った。


 風でたわんだ茂雄の顔があまりに変なので、スバルは笑いをこらえるのが大変だった。彼の鼻と口は大きく広がり、その両目からは涙が粒となって左右に流れている。


 隣りのメインマストでは、暁しずくがその様子を見ていた。彼女は段索(ラットライン)にしがみつき、軽く手を伸ばせばてっぺんの見張り台に届くところまで来ていた。もう少しで茂雄を捕まえられたのに、すんでのところで彼に逃げられてしまった。


「やるじゃん、ミスター」

 しずくは、思いのほか自分がダメージを受けていることに気づいて驚いていた。今回の捕り物は軽い気持ちで言い出したものだったが、実は彼女の本音そのものだったのだ。


「暁さん、ここまでおいでよ」

 上からそんな声を掛けたのは、控えめな笑顔を浮かべた桐野十三だった。つい先日、消防衛星で先輩からジュウザというあだ名を賜った彼は、しずくと同じ宇宙船技師だ。まだ彼とはそんなに多く会話したわけではない。


 しずくは、見られないようにそっと涙を拭ってから、元気よく顔を上向けた。

「ありがとう、ジュウザ」

 しずくが手を伸ばすと、ジュウザの固くて逞しい手が、それをしっかりと掴んだ。

 リーダーの和馬と、パイロットの拓也が、ジュウザの身体を後ろから支えた。そうして、三人がかりでしずくは見張り台の上に引っ張りあげられた。


 一方のフォアマストでは、やっとのことで茂雄の身体が見張り台に着地しようとしているところだった。スバルはそのすぐ近くで、彼を受け止めようと両手を伸ばしている。

 このバルーン・シップのスタッフがどこかで嫌がらせしているのではないかと思うくらいに、茂雄の身体は宙に浮き続けていた。下から吹き上げる空気はこれでもかというほどに勢いを増している。もう少しで彼は遠くに吹き飛ばされそうだ。


 群衆は固唾を呑んでそれを見守っている。もしも、これが本当に施設のスタッフの気遣いから来るものだとするなら、それはおせっかいのラインのギリギリで持ちこたえているようなレベルだった。

 茂雄は空中で必死に平泳ぎして、なんとかスバルの元へ辿り着こうとしている。


 待ち構えているスバルは、あとほんのちょっと手を伸ばしさえすれば彼の手を捕まえられるのに、すんでのところで判断に迷っている。

 宙に浮く茂雄と、その下で待つスバル――二人の物理的な距離はほんの数センチなのに、その心は何万光年も離れている。周りで見守る人々の目には、そう映っていた。やはり、茂雄はここでフラれる運命にあるのだろうか。


 風にたわむ茂雄の顔は、まっすぐにスバルを見つめている。彼は潰れたカエルのように情けない姿で飛んでいるが、その目は澄み切っていた。彼はもはや眼鏡のレンズを黒くしたりなどしない。その心と同じく、真摯な彼の褐色の瞳は、スバルの青い目と一直線に結ばれている。


「黒川さん、後は君に任せた。君がここでどんな選択をしたとしても、俺は君をけっして恨んだりはしないよ」

 スバルは、ただ黙っている。しかし、視線は絶対に離さない。

「さあ、俺を信じて……」

 茂雄は、すべてを確信して手を伸ばした。


 そして、それは叶ったのだ。

 スバルは、彼の手を握り返した。

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