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デス・レース2071年・3b

 茂雄とスバルが、これほどまでにしっかりとお互いを見つめ合うのは、実は初めてのことだった。さっきバーベキューの席で手を握り合っていたときには、相手の顔をまともに見ることさえできないでいた。それは照れてそうなっていたわけではなく、まったくそれ以前の、相手との距離をはかりかねてそうなっていたのだ。


 今、二人は初めてお互いをちゃんと見ようと思ったようだ。少なくとも、茂雄の中ではそうだった。

 彼は見張り台の手すりにしがみつき、できる限り身体を前に出して、スバルにこちらの姿を見せようとがんばった。


 スバルは隣りのマストの、斜め下の見張り台から、じっと茂雄の顔を見上げている。その青い目は真剣そのものだ。彼女の赤毛は襟足がふわりと空気を含んでカールしていて、それが独特の少年ぽさと優雅さを演出している。


 茂雄は眩しくてたまらなかった。今すぐあそこに飛び降りて、自分の思いをぶちまけたくなった。スバルがいる場所までは二十メートルほどの落差があるが、さっき暁しずくが手本を見せたように、下から吹き上げる高密度の空気が彼を安全に向こうに運んでくれるはずだ。


 救命医の俊作は、腕を組んでじっと様子をうかがっている。茂雄がその気なら、余計な口は挟むまいと彼は思っていた。彼は心の中で、ただひたすらに「男を見せろよ、ミスター」と祈り続けていた。


 スバルはただじっと下の見張り台からこちらを見上げている。その凛々しい視線は見る者をドキドキさせずにはいられない。茂雄は息が苦しくなりながらも、なんとか耐えて見つめ返した。


 こちらからも、何か気持ちを表さなければ――、茂雄は必死で頭を働かせて、今できる最大限の表現をしようと覚悟を決めた。そして、彼は実行したのだ。心からの微笑みを、スバルに向けて浴びせかけた。彼女への愛情はこれですべて表現し尽くせるに違いないと、茂雄は心から信じてそうしたのだった。それは愛する者に対する最高の慈愛の表現のつもりだった。スバルのことをこれからずっと守っていきたいという、彼の決意のすべてだった。


 その全力の微笑みを受け止めたスバルは、その赤い水着姿の全身をすっくと伸ばして、まっすぐに茂雄の顔を見返した。その瞳は青く燃える炎のようだった。その姿はあまりにも美しかった。


 そして、彼女は返事を返したのだ。


 片方の下まぶたを指で力いっぱい引き下げ、思いっきり顔をしかめて舌を出した。それは、スバルが全身全霊を込めた、渾身のあっかんべーだった。


「え?」

 茂雄は全身を雷で打たれたようにこわばらせた。彼はスバルに向けた満面の笑顔のまま、蝋人形のように固まった。


 腕を組んで様子を見守っていた俊作も、一緒に巻き添えを食って固まった。その顔は、まるで世界中の虚無を一か所に集めたかのような無表情だった。その石像のような顔の奥に渦巻いていたのは、茂雄に向けての「そら見たことか」という思いと、それよりもさらに何倍も大きな、茂雄に対する憐れみの気持ちだった。


 スバルは、ぷいとそっぽを向いてしまった。そして、彼女はその場に座り込んだ。もはや、その赤い後頭部の向こうで彼女がどんな顔をしているのか、茂雄たちが知る術はまるでなかった。

 ひとつの恋が終わったのだ。完膚なきまでに、完全な形で。


 そのとき、そんなことが起きているとは露ほども知らない和馬が、明るく元気な声を出した。

「おい、ミスター、暁さんがとうとうやって来たぞ。出迎えてさしあげろ」

 その瞬間、絶望の淵にあった茂雄の心に一条の光が差した。それはまさしく嵐が過ぎ去った後に唯一残された希望だった。


 茂雄は振り返った。その顔には幸福が溢れていた。まさしく捨てる神あれば拾う神あり、だ。スバルが高峰に可憐に咲いた小さな花であるなら、しずくはすべてを優しく包み込む大輪の蓮の花だった。スバルは守ってあげたくなる存在だが、そこに辿り着くには相当な試練を乗り越えなければならない。それに対し、しずくはこちらを守ってくれる存在だ。無償の愛を注いでくれて、ありのままの自分を愛してくれる。


 まだ未熟な自分には、しずくのような、力強く支えになってくれる人が必要なのかもしれない――、茂雄の心の中は、そんな考えで満たされた。さっきのあっかんべーのショックをひっくり返すには、これくらい強引に思考を切り替えるしか、彼には選択肢がなかった。


 暁しずくの引き締まった身体が、段索ラットラインをぐいぐいとよじ登って、ついに見張り台に手が届く場所まで辿り着いた。和馬と拓也が手を貸して、彼女を引っ張り上げた。ジュウザは少し距離を置いて、それを見ていた。


 濃い緑色の競泳水着は、しずくの肉体をきつく締めあげている。それはまるで巨匠が作り上げた彫刻のようだった。鋭くカットされた彼女の水着は、その肉体が持つ魅力を余すところなく引き立てている。それはまさしく仏様のようだった。


 茂雄は、大きく両手を広げてしずくを出迎えた。それが彼女を一番喜ばせる態度だと、彼は心から確信していた。茂雄の笑顔は輝くようだった。


 しずくは、汗を全身から滴らせ、大きく胸を上下させていた。短く刈りこまれた紫の髪は、熱風を浴びてキラキラしている。疲れてはおらず、息もまったく上がっていない。だが、彼女は興奮していた。悪い意味で興奮していた。


 そして、こう言い放ったのだ。

「ミスター、まだこんなところにいたの? どうしてスバルを追いかけていかないの? バカじゃないの? あんたにはがっかりだよ。そんな根性なしだとは思わなかった。私はあんたのがむしゃらなところが好きだったのに、なんだよ、ただのへっぽこ野郎じゃないか」


 しずくは、ぷいとそっぽを向いてしまった。彼女がそっぽを向いた先に、ジュウザが立っていた。彼は緊張の面持ちで、今がこのときとばかりに、一歩前に踏み出した。

「暁さん、実は、俺、ずっと君に憧れていたんだ。よかったら、ちょっとお話させてもらえないかな……」


 不安げに語尾を小さくしたジュウザに向かって、しずくはにっこり笑ってみせた。二人とも宇宙船技師同士だ。同じ道を歩む者としての、どこか砕けた空気がその場を満たした。彼女は快活な声で、こう答えた。

「いいよ」

「ありがとう、暁さん」


 幸せそうに胸を撫で下ろすジュウザとは対照的に、すべてを失った茂雄はただただ無の中に沈み込んでいった。彼の細胞の中のミューオン触媒核融合体は、押し寄せる絶望に真正面から飲み込まれ、息も絶え絶えだった。

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