デス・レース2071年・2b
スバルは前檣の二段目の見張り台から、しずくが飛んでいった方向を呆然と見下ろした。
確かに噂の通り、下から高密度の空気が噴射されて、しずくの身体はふわりと浮き上がったようにも見える。利用者のネビュラに自動的に送られてくるバルーン・シップの説明動画でも、その安全性がわかりやすくアニメーションで紹介されている。
でも、スバルはそれを素直に信じることができなかった。目の前で仲間の一人が安全に飛翔し、二十メートル先のマストにうまく飛び移るのを目の前にしても、スバルはまだ納得いかなかった。自分の身体で、下から吹きつけてくる風を感じない限りは、それを全面的に信じるわけにはいかないのだ。
「こんなところで何やってんのよ? スバル」
ぐずぐずやっているうちに、別ルートで帆船に乗り込んできた海野沙織と桜井美穂に見つかってしまった。二人は甲板からこちらを見上げている。スバルの特徴的な赤毛ですぐに気がついたらしい。
沙織は清楚かつ大胆な白いビキニ、美穂はフリルがたくさん付いたピンクのセパレートを着ている。
「もうミスターを倒しにいくのは諦めたの?」
沙織はネビュラを通して、からかうように言った。
スバルは見張り台からぴょこんと顔を出すと、甲板を見下ろし、ネビュラで返事した。
「もう、しずくさんが何もかもやってくれるみたいだから」
あれほど見事なフォームで隣りのマストへ飛び移れるしずくなら、きっと茂雄を虜にして、二度と他の女のことなど考えられなくしてくれるだろうという確信が、スバルの中にはあった。
「本当に大丈夫なのかな?」
沙織は納得しかねる様子だ。「あのミスターの、あんたに対する愛が、そんなことで簡単にひっくり返ったりすると思う?」
沙織と美穂のところからは豆粒のように見えるスバルの赤い髪が、ふるふると左右に振られた。
「私なんか、しのぶさんに比べたら全然だもの。貧相だし、臆病だし……」
「そんなに自分を卑下することないよ。あんたは素敵だよ」
甲板から見上げる沙織もまた、対抗するように首を横に振った。彼女の長い黒髪はヘアー・タイ・バンドで冠のように美しくまとめられているので、その冠ごと大きく左右に振れた。
その隣りにいる美穂は、ピンクの髪をツインテールにまとめている。見上げるのに邪魔なので、被っていた麦わら帽子をちょうど脱いだところだ。
美穂もまた、優しい口調で諭すように言った。そこには少しばかり罪悪感も混ざっているようだ。
「スバルちゃん、さっきはあなたとミスターをおもちゃにするようなことをしてごめんね。でも、それはあなたたちのことを考えたうえのことでもあるの。ミスターは見ての通りの不器用だし、スバルちゃんはずっと殻に閉じこもりがちだったから、いい機会だと思ったわけ」
「それは別に怒ってないよ」とスバル。
「スバルちゃん」
と、美穂はさらに母親のような口調になった。「正直なところを聞かせて。スバルちゃんはミスターのことをどう思ってるの?」
甲板にいる二人は、即答で否定的な返事が来ると思っていたのだが、意外にもスバルは口をもごもごさせて、はっきりしなかった。けっこう長い間が空いた後で、ようやくこう答えた。
「私は……、ミスターのことは別に好きでも嫌いでもないよ」
沙織と美穂は顔を見合わせた。ちょっと流れが変わってきたぞ、という表情だ。
沙織は、試すようにこう訊いた。
「スバル、もしかして、ミスターにちょっと未練があったりする?」
「それはない! 絶対ない!」
スバルは慌てて大きな声を出したが、その慌てぶりがかえって二人の疑念を強めた。
特に救命医でもある美穂は、人間の心理に関しても一家言あった。
「これは私の個人的な意見ではあるんだけど……」
そう前置きしたうえで、美穂はなるべく慎重に言葉を選んで言った。これはとてもデリケートな領域に踏み込む意見だったからだ。「スバルちゃんは、もしかして、今までずっと自分のことを低く見積もっていたんじゃないかな。人が自分のことをどう見ているのか、誰よりもスバルちゃんが一番低い点数を付けていたような気がするの」
スバルが黙って聞いているので、美穂はその後を続けた。
「そんな自分のことを好きでいてくれているミスターのことも、もしかしたら、自分と同じくらい低く見ていたのかもしれない。私みたいなしょうもない女の子を――言い過ぎだったらごめんね――好きな男なんて、きっとその程度でしかないんだと、スバルちゃんは考えがちだったんじゃないかと思うの」
「ミスター、かわいそ」沙織は、苦笑しながら小さくつぶやいた。
スバルは、まだ黙っている。
もしや、彼女はネビュラの接続を切っているのではないかと、美穂は不安になった。
「スバルちゃん、聞いてる? 怒ってない?」
「怒ってないよ」スバルの声は消え入るようだ。
「私の話を聞いてくれる?」と美穂。
「いいよ」少し声が大きくなった。
スバルがその先を聞きたがっていることを感じ取った美穂は、自信をもって持論を展開した。
「私ね、もしかしたら、スバルちゃんは今、ミスターに対する見方が変わって、混乱しているんじゃないかと思うんだ。だって、あのしずくちゃんがだよ」
美穂は、「あの」の部分に特に力を入れた。「あのしずくちゃんが、こんなにみんなに注目されている中で自分の気持ちをあんなに堂々と吐き出したんだから、もしかしたらミスターって、本当はすごい奴なんじゃないかと思うようになったとしても、不思議じゃないよね」
すると、スバルは弱々しい声でこんなことを言った。
「私は別に……、ミスターをバカにしていたわけじゃなくて……」
美穂は、ピンクのツインテールを左右にぶんぶん振り回して否定した。
「いいんだよ、人の心なんて、ころころ変わるのが自然なんだから。今の自分の気持ちに素直になりなよ、スバルちゃん」
横で話を聞いている沙織はニヤニヤして、こんなことをつぶやいた。
「女心と秋の空、ってやつだね」
「バカ、黙ってなさい」
美穂は、その軽口がスバルに聞かれないよう、まるでおならの臭いを消すかのようにぶんぶんと手を振り回した。
見張り台にいるスバルは、いつしかその場に座り込んでいた。甲板から見上げても、その赤毛がちらりと覗くことさえしない。だが、そこから一歩も動けない状態にあることだけは、誰から見てもわかった。
スバルは葛藤していた。さっきまでは茂雄のあまりの傍若無人さに我を忘れて腹を立てていたのに、今では別の感情がそれに取って代わろうとしていることに、当の本人でさえ理解が追いつかないでいた。そのはっきりしない感情を、美穂が的確な言葉で言い当ててくれたような気もするが、スバルの中では、まだ納得しかねる部分が大いにあった。
「ごめん、もうちょっと考えさせて……」
「いいよ、ゆっくり考えなさい」
美穂は元気づけるように言うと、横の沙織に向き直った。「さて、私たちはどうしましょうか?」
前檣を上ってスバルのそばに行くか、主檣のてっぺんにいる茂雄のほうへ向かうか、選択肢は二つある。
「私はしずくに加勢してやりたい気分だけどね」
沙織はウキウキした表情で言った。「あのミスターの奴にまんまと逃げられたら、なんか腹立つじゃん」
沙織の中では、茂雄のイメージはまだずいぶんと下のほうにあるようだ。
美穂は、スバルのほうが心配で仕方なかった。そばについてやって励ましたい気持ちでいっぱいだった。
沙織はリーダーらしく、美穂のその迷いをすかさず感じ取った。
「あんたはスバルのそばにいてやればいいよ。あの子が考えを整理している間に、私がミスターを捕まえて連れてくるからさ」
沙織がぐっと親指を立ててウインクすると、美穂も嬉しそうに「うふふ」と笑った。
「そうね、この際、関係者を一度みんな集めたほうがいいよね。みんなで膝を突き合わせて話をしましょう」
「うん、そうしよう」
二人は元気よくうなずきを交わすと、それぞれが目指す方向へ力強く動き始めた。彼女たちの細胞の中でも、ミューオン触媒核融合体からの無限のエネルギーが駆け巡っていた。




