無限のエネルギー・4b
「おーい、黒川さーん」
遠くから自分の名前を呼ばれて、スバルは慌てて周りを見回した。
すぐ隣りで大きな帆を広げているバルーン・シップの帆船から、その声が聞こえたような気がする。
「おーい、こっちだよー、黒川さーん」
確かにはっきりと声が聞こえた。それは帆船のマストのてっぺん、横に大きく張り出した見張り台のほうからだ。
スバルよりも先に、しずくが声の主を見つけた。
「ミスターのやつ、あんなところにいるよ」
しずくが笑って指差す方向に、落合茂雄が両手をメガホンにして叫んでいる姿が見えた。三本マストの巨大帆船は高さが五十メートルほどはあり、そこから茂雄がこちらを見下ろしている。
「もう、あのバカ、人の名前をあんな大声で……」
スバルは顔を真っ赤にして、タコの足の裏側に隠れた。茂雄はそれで動揺したのか、さらに大きな声で叫んだ。
「おーい、黒川さーん、どこへ行ったんだよー」
「もう、バカバカ、名前を呼ぶなって」
スバルは吸盤の後ろに身を縮め、しずくに背後から小声で呼びかけた。「ねえ、しずくさん、あのバカに黙るように言ってくれる?」
しずくは笑った。
「しょうがないねえ、わかったよ、任せな」
タコの足に馬乗りになっているしずくは、ぐっと身体を反らし、両手をメガホンにして、大きく息を吸った。彼女が見上げる方向には、見張り台から身を乗り出している茂雄がいる。
「おーい、ミスター! あんたの片思いの相手なら、私の隣りにいるよ!」
しずくが肉声でそんなことを叫んだものだから、スバルは思わず「ぎゃあ」と悲鳴を上げた。
「もう、しずくさん、ネビュラを使えばいいでしょ!」
しずくは笑って振り返った。
「ごめんごめん、それは思いつかなかったよ」
そう言って、自分の頭をぽかりと殴る真似をしたが、今頃気づいても、もう遅い。
マストの上の茂雄は、息せき切って、さっきよりもさらに大声でこう言った。
「黒川さーん、今から行くから、そこで待っていてくれよお!」
たまらずスバルも叫び返した。
「来なくていいよお!」
「そんなこと言わないでくれよお!」
「バカあ、もう、嫌なの!」
大声で言い合っている二人を、周りの人々が笑って見ている。子供や付き添いの親たちも、わざわざ遊ぶのを中断して、いい見世物だとばかりに事の成り行きに注目し始めた。
しずくは横でげらげら笑っている。
スバルはぷっと頬を膨らませた。
「もう! しずくさん、笑わないの!」
その顔が可笑しくて、しずくはますます笑いが止まらなかった。
すると、またマストの上から茂雄が叫んだ。
「黒川さーん! 好きだああああああああ!」
さすがにこれは大胆にもほどがある。周りにいる野次馬たちも恥ずかしそうに口元に手を当てて、「あらまあ」という顔をした。
「あの野郎!」スバルは低くつぶやいた。
そのとき、スバルの体内で静かに燃えていたミューオン触媒核融合体が一斉に活動を始めた。
スバルの顔にぼっと血が上って、はっきり遠目からわかるほど真っ赤になった。赤い髪と赤いビキニと赤い顔で、全部真っ赤だ。
スバルは後先考えず、タコの足の上にすっくと二本足で立つと、斜め上にいる茂雄に向かって叫んだ。
「貴様、いい加減にしろ! 殺すぞ!」
すると、茂雄のほうも負けてはいない。
「殺せるものなら、こっちまで来て殺してみろ! 君に殺されるなら本望だよ、黒川さーん!」
「よおし! そこで待ってろ! 二度とたわ言が言えないようにしてやる!」
完全に我を失っているスバルは、タコの足の上を器用に二本足で走り出した。グネグネとカーブするビニール製のタコの足の上を、まるで未来少年コナンのように勢いよく走っていく。
「うおお、さすがスバルだ。やるときゃやるねえ」
しずくは感嘆の声を上げた。いつもは慎重で、どちらかと言えば臆病なスバルが、あんなにも元気よく言いたいことを言っている。
周りで見ている子供たちも、スバルを真似してタコの足の上を走り出した。付き添いの親たちはとてもついて行けない。スバルの後ろに大勢の子供たちの行列ができた。これからみんなで帆船に攻め込む勢いだ。
帆船の見張り台には、茂雄の他にも男たちが結集していた。和馬も俊作も拓也もジュウザも勢ぞろいしている。他のみんなと同じくミューオン触媒核融合体が燃え盛っている彼らは、疲れをまったく知らない。
ただ、少しばかり喉が渇いていた。かっかと燃える身体を冷やすために、ビニール製の床の上にみんなは身体を広げているのだが、それでもとても追いつかないほどの渇きだ。
床に寝転んでいる和馬は、他のみんなと目配せをし合ってから、こう言った。
「おい、ミスター、黒川さんがこっちに来るまでの間に、俺たちは下に行って飲み物でも取ってこようかと思うんだが」
茂雄は見張り台から身を乗り出したまま、振り返りもせず答えた。
「いいとも。そうするといい。もう、俺一人でも大丈夫だから、後は自由にしてくれて構わんよ」
それを聞いた和馬たち四人は顔を見合わせた。俊作は肩をすくめ、拓也はやれやれと首を横に振り、ジュウザは口をへの字にしている。
和馬は言った。
「そうか、じゃあ、後はお前ひとりでやれ」
「協力ありがとう。この恩は必ず返すよ」
茂雄は一瞬だけ振り返ると、右手の親指を立てて感謝を表した。「君たちのおかげでここまで来れた。ありがとう。本当にありがとう」
和馬たちはやれやれと立ち上がった。
すると、そのとき男たちのネビュラに暁しずくからの声が届いた。
彼女の声は、まるでいたずら坊主たちを叱りつける母親のようだった。
「あんたたち、そっちにスバルが向かってるけど、ちゃんと責任取れるんだろうね?」
茂雄はすかさず答えた。
「当然、取れるに決まってるじゃないか」
「私からもちょっと提案させてもらっていいかい?」しずくは言った。
「なんの提案だい?」と訊いたのは和馬だ。
すると、しずくはほんの少しためらうような間を空けた後で、こんなことを言った。
「スバルがそっちに行って、ミスターを殺す前に、私がミスターを捕まえることができたら、ミスターは私のものになるっていうのはどう?」
「は?」
と、茂雄は訊き返した。言われた意味がわからない。
しずくははっきりと言葉を区切って言った。
「私とスバルで競争して、勝ったほうが、ミスターをもらえるってこと」
茂雄はやっと言われたことの意味がわかった。




