無限のエネルギー・3a
翼は見逃さなかった。黒川スバルの体内でもまた、ミューオン触媒核融合体が燃焼を加速していたことを。
「美穂さん、スバルのほうもすごいよ」
「なんだか格闘技の試合を観ているみたいだね」
翼と美穂は、息を呑んでこの戦いを見守った。
スバルの左手は汗でびっしょりだった。ずっと茂雄の大きな両手で包み込まれているのだから、逃げ場を失った体温がそこにこもって、全身がかっかと熱くなってくる。
「ちょっと、ミスター、そろそろ手を離してもらってもいい?」
すでに一度、手痛いパンチを食らっている茂雄は、さらに二の矢が自分に向かってきたことで、またも重大な決断を迫られた。
だが、ここで引き下がったのでは、もう二度とスバルとこのような機会を得ることはできないという予感が、茂雄の背中を強く押していた。おそらく、本当に二度とこんなチャンスは巡ってこないのだ。
「黒川さん、ごめん、もう少しだけ我慢しておくれ」
「暑いんだよう」
スバルは、空いているほうの右手で、茂雄の手を引き剥がしにかかった。茂雄は身体をくねらせて、それに抵抗した。その真剣なまなざしは、スバルの目にしっかりと注がれたままだ。彼女の短い赤毛の先から、汗のしぶきが飛び散った。
「ミスター、がんばれ」
そんな小声の応援が、焚火台を囲む仲間たちのほうから聞こえてきた。もはや誰一人として飲んだり食べたりしている者はいなかった。網の上では肉や野菜が焼け焦げ、脂ぎった黒煙が彼らの周りで渦を巻いている。さっきまで見て見ぬふりを通していたのに、いつしか全員が観客のように真正面を向いて、二人に注目していた。
「ちょっと、あんたたち、私の人権は無視なの?」スバルが助けを求めている。
女子たちのリーダーである海野沙織が、代表して一歩前に出た。彼女の手には、カチカチに干からびた骨付き牛肉が、さっきから同じ形のままで握られている。
「スバル、今こそ男と女の真剣勝負のときだよ。ミスターが一生を懸けてあんたに挑んでくれているんだから、あんたもそれに全力で応えなさい」
「私は何も求めていないんだけど」
「こんな風に好きでいてくれる相手が、また現れるとは限らないでしょ」
「でも、今のミスターは怖いよ」
スバルの一言一言が、茂雄の胸にグサグサと突き刺さった。さすがに怖いとまで言われてしまうと、自分が重大な罪を犯してしまっているような気がしてくる。スバルのことが好きなのに、彼女を一番苦しめているのが自分であるという事実は何よりも耐え難いことだ。
茂雄は、とうとう握っていた手を緩めた。
その瞬間、スバルはすっかり汗でふやけた左手を力いっぱい引っ込めた。そして、二度と捕まえられてなるものかと、両手ともを背中の後ろに隠してしまった。
「ああっ」
と、情けない声を出したのは、茂雄だけでなく、それを見守っていた仲間たちの全員だった。
スバルはすっかり腹を立てて、顔を真っ赤にしている。みんなから寄ってたかっておもちゃにされたのが許せないのだ。茂雄が自分に対して抱いている気持ちを、ちゃんと消化してあらためて考える余裕など、今の彼女にはなかった。
「もう、やだ、二度と話しかけないで」
スバルは、勢いよく椅子から立ち上がった。彼女は二人用の折りたたみ椅子の端に座っていたので、その反対側でひじ掛けに腰かけていた茂雄は支えを失い、盛大にひっくり返った。さらに、椅子の上に載っていた山盛りの肉も宙を舞って、倒れている茂雄の全身に降り注いだ。
スバルは全力で駆けだした。彼女は黒いTシャツに赤いジャージのズボンを穿いていた。途中で立ち止まった彼女は、靴をその場に脱ぎ捨て、Tシャツもジャージも脱いで、前もって着ていた赤いビキニ姿になった。
「おい、ミスター、倒れている場合じゃないぞ」
和馬と俊作が助け起こしてくれたときには、スバルはすでに海に飛び込んで、遠くへ泳ぎ去っていた。
傷心の茂雄は、その場で座り込んだまま動けない。
「ああ……、ダメだ……、俺はダメだ」
「ダメだとかなんとか言っている場合じゃないだろ」
和馬が、茂雄の背中をどんと叩いた。「お前と黒川さんはこれからも同じ署の仲間として、ずっと一緒に勤務しなきゃいけないんだぞ。ここで変なこじれ方をしたら、チーム全体にも影響するんだ。ちゃんと責任もって最後まで処理しろ」
「ひでえ、それがリーダーの言うことかよ」
茂雄は泣きそうな声を出した。「いいよ、もう、俺は他の署に転属させてもらうから」
その言葉に激高したのは、さっきも「シェフ」と呼ばれて激高した俊作だ。
「ふざけるな、そんなことは俺が許さねえ」
俊作は一見すると不良のような明るい髪色で鋭い顔立ちだから、そんなセリフが実に様になった。彼は後ろを振り返り、ピューッと勢いよく指笛を鳴らした。すぐさまパイロットの檜山拓也と、ジュウザこと宇宙船技師の桐野十三もそこに駆けつけた。
茂雄以外の四人は目配せし合って、着ているものを脱ぎ、海パン姿になった。訓練で鍛えているだけあって、みんなの身体は引き締まっている。
俊作は仲間たちに向かって言った。
「今からミスターを担いで、みんなで黒川さんを追いかけるぞ」
「もう、勘弁してくれよう……」
「情けない声を出すな、ぶん殴るぞ」
そう言って和馬は先頭に立ち、俊作と隣同士に並んで肩を組んだ。「さあ、拓也は俺の右後ろに来て、左手を俺の肩に乗せるんだ。ジュウザはその左に来て、俊作の肩に右手を載せる……、そうそう、そういうこと」
こうして、四人は組み合って、騎馬戦の土台となった。
「さあ、ミスター、乗れ!」
気合を込めて和馬が声を掛けても、茂雄はまだクネクネしながらその場に立ち尽くしている。
業を煮やした和馬は、恋人に助けを求めた。
「沙織ちゃん!」
「はい、ただいま!」
すぐさま沙織が駆け寄ってきた。もちろん、女子のチームメイト五人が勢ぞろいだ。
「私たちも協力するよ、和馬くん」
沙織はむやみに張り切っている。
「そこでくだを巻いているミスターを、ここに担ぎ上げてくれる?」
和馬はそう言って、自分の背後に顎をしゃくった。力強い男たちの腕が、茂雄をその上に抱えようとがっしり組み合って待ち構えている。
沙織は大きくうなずいた。
「お安い御用だよ、ダーリン」
たちまち茂雄は女子たちに抱えられて騎馬戦の騎手となった。
「良い身分だな、ミスター」優男の拓也がからかった。
「もういいよ、俺なんて……、俺なんて……」
「しっかりつかまっていないと、落っこちて首の骨を折るぞ!」
和馬のその声が合図となって、四人は走り出した。
その勢いで放り出されそうになった茂雄は、たまらず目の前の和馬の首にしがみついた。鍛え抜かれた宇宙消防士の僧帽筋は太くて、力強く躍動している。
「たくましいんだな、和馬。俺、惚れちゃいそう……」
「いい加減にしないと、眼鏡を割るぞ」
四頭立ての騎馬は、砂浜の人混みをかき分けていった。元気な若者たちが駆けていく様子を、島の住人たちはショーを楽しむようににこやかに眺めている。
女子たちはその後ろを全力で追いかけた。走りながら、着ているものを器用に脱いでいった。その脱ぎ捨てられた服を、最後尾で追いかけていた翼が一つ残らず拾っていった。沙織のブラウスとスカート、美穂のワンピース、晴香のアロハシャツ、そして、しずくのジーンズが道しるべのように点々と落ちている。
それら追手から必死で逃げているスバルは、遠い沖のほうまであっという間に泳ぎ着いていた。
「絶対、捕まるもんか」
海に浮かんだスバルが振り返ってみると、砂浜のほうからわーわーぎゃーぎゃーと叫んでいる仲間たちの声が聞こえる。あんな連中とこれから先も一緒に働いていかなければならないと思うと、正直言ってうんざりだった。
自分にだって男を選ぶ権利はある。スバルが一番主張したいのは、そのことだ。
具体的にどんな男が好きだとか、そういうことは今のところはっきりとはわからないけれど、少なくともいきなり手を握られて「病めるときも健やかなるときも」と迫られるいわれはない。
スバルは、ネビュラを通して茂雄に声のメッセージを送った。腹立ちまぎれに本音をぶちまけずにはいられなかった。
「こら、ミスター、私をちゃんと一人の人間として見ろ。私はお店に並んでいる商品じゃないんだ。あんたが私を欲しいからって、私があんたの持ち物にならなきゃならない筋合いはない。勝手なことで私を振り回すな。私があんたのことを好きになるような、素敵な男らしいところを見せてみろ」
スバルは茂雄に向けてだけ、それを言ったつもりだったが、あいにく使用したのはオープンチャンネルだったので、仲間たち全員にそれを聞かれてしまった。
「おい、ミスター、言われているぞ」
和馬は振り返って茂雄の顔を見た。すでに騎馬は海に繰り出し、スバルめがけて距離を詰めているところだ。
騎手としてまたがっている茂雄は、すっかり意気消沈して顔面は蒼白だった。しかし、彼の三十七兆個の細胞の中では、そのすべてで機械細胞が躍動していた。ミューオン触媒核融合体から生み出される無限のエネルギーが、彼を魂の奥底から揺り動かしたのだ。
いつしか、茂雄はしゃっきりと背筋を伸ばしていた。
「その調子だぞ、ミスター」
寡黙なジュウザも思わず応援してしまうほどの気合が、茂雄の全身から放たれた。
茂雄は、ネビュラのオープンチャンネルで語りかけた。
「生意気な女だ。そこで待っていろ。二度と離れたくないと思うくらいに、お前を俺の虜にしてやるぞ」
「虜になんかなるか、バーカ」
「あそこだ! 追え!」茂雄は叫んだ。
遠くであっかんべーして逃げ出したスバルを、五人の騎馬は猛スピードで追いかけた。




