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無限のエネルギー・2b

 これほど重要な瞬間は、人生でそう多く迎えるものではない。人は長く生きていると、ときに大きな分岐点にぶち当たる。そこで自分が選んだ道は、その後の人生に大きな影響を及ぼす。その瞬間のことを思い出すたびに安堵と喜びをあらためて噛みしめるか、あるいは後悔の念で身もだえるか、どちらか一方が待ち受けているとするならば、その違いはあまりにも大きい。


 茂雄がぶち当たったこの重要な瞬間も、彼のその後の人生を大きく左右する可能性があるはずだ。

 彼は自分に与えられたわずか数秒の間に、自分の未来の可能性に思いを馳せてみた。それは大部分が、このアプローチに失敗した場合のその後のフォローに関することだ。もしも、自分の人生から「黒川スバルと共に生きる未来」が失われたとして、はたしてそれに自分が耐えられるのか、それに代わる幸福な人生を歩むことができるのか、もしも最悪の想定としてスバルを超える女性に出会えなかった場合に一人で生きる人生が待っているとするならそのとき自分は何するべきか、などといったことを、最高で秒速五十メートルに達する神経伝達速度でもって、彼は必死になって考えた。


 それはわずか数秒のことではあったが、茂雄にとっては永遠に終わりの来ない輪廻転生を繰り返しているような時間だった。

 そのとき、彼の中で大きな変化が起きたのだ。おそらく、落合茂雄のこの体験が、今現在の楽園実験が行われているクロノ・シティにおいてその瞬間を迎えたもっとも早いケースだっただろう。


 ジャーナリスト志望の桃井翼は、このチャンスを見逃さなかった。

 落合茂雄の全身の細胞に入り込んでいる、機械細胞(マシン・セル)のミューオン触媒核融合体が、ほんのわずかにその熱量を上昇させた。翼はここにいる宇宙消防士十一名の身体の状態を同時に観察していたので、その微妙な変化に気づくことができたのだった。その観察には、救命医の桜井美穂の協力が不可欠だった。美穂もまた、ほぼ同時にこのことに気づいたのだった。


 美穂は、邪魔な長いピンクの髪をヘアー・タイ・バンドでアップにまとめ、骨付きの牛肉に一心不乱にかぶりついているところだった。そのとき茂雄の身体の状態がわずかに変わったのを見て取った彼女は、持っていた肉をひとまず皿の上に置いた。


「翼ちゃん、気づいた?」

「美穂さんも気がついたんですね」

 美穂と翼は、ネビュラを通して秘かに言葉を交わした。


 外から見た茂雄の様子に、ほとんど目立つところはない。彼が全身をこわばらせて椅子のひじ掛けに絶妙なバランスで座り、汗をびっしょりとかきながら、胸から飛び出しそうなほど心臓を高鳴らせ、うわ言のように口から妙な呻き声を発していることは、この際どうでもよい。特に皮膚から光が発せられているとか、彼の体温が著しく上昇しているとか、そういった目立つ変化も特にない。


 しかし、彼の脳の処理速度が、目に見えて加速していることがはっきりとわかった。その脳の活動を光に置き換えるとするならば、それはまさにビッグバンのごとき光の洪水だった。彼はその洪水の中で、何百何千という自分の未来の可能性をシミュレーションしていた。


 その間、わずか三十秒ほど。この世に存在するもっとも処理速度の速いコンピューターですら、これだけの計算を行うのに数百年はかかるであろうと思われる処理を、茂雄の脳はやってのけたのだった。

 一方、そんな落合茂雄と真正面から向き合っている黒川スバルは、自分の手を握りしめているこの男の内部で何かが起きていることを、直接肌から感じ取っていた。


 ネビュラは手と手を接触させることで、他人に情報を伝えることができる。茂雄の中で駆け巡っていた思考の奔流の一部が、彼の手の皮膚を通して、スバルの手にダイレクトに流れ込んだ。


 そのときの茂雄の顔は、不思議な神々しさを湛えていた。まさしく仏像のようなアルカイック・スマイルだ。まるで繰り返された戦いの中で完全なる悟りを開いた戦士のように、すべてを受け入れる覚悟を決めた者の微笑みだった。


 茂雄は深く響く声で、こう言った。

「黒川さん。僕は君に誓う」

 それをスバルはさえぎった。

「ちょっと待って、いったん喉を潤すから」


 彼女が軽く手を上げて助けを求めると、トレーの上に炭酸飲料のグラスを載せた浅倉晴香が、召使のように腰をかがめて走り寄った。

「ありがとう」

 スバルが飲み物を受け取ると、晴香は焚火台のほうへと小走りに去っていった。みんなの小声の「グッジョブ」が、かすかに聞こえてきた。


 あらためて、茂雄は言った。

「いいかい? 黒川さん」

「オーケー」

 喉を潤したスバルの準備は万端だ。


「僕は誓う。ここにいる君を、病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも……」

「ちょっと待って」

 スバルはさえぎった。「私たちに結婚式はまだ早いよ。もうちょっと段階を経て、少しずつやっていきましょ」

「……はい」

 ビッグバン級の情報処理が一瞬にして敗北した瞬間だった。

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