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無限のエネルギー・1a

 人が生きていくうえで、瞬間的にもっとも多くのエネルギーを必要とするのは、恋する異性と会話しなければならなくなったときだろう。


 そのとき圧し掛かってくる沈黙の重圧は、光すらも脱出不可能になるブラックホールの重力に等しい。脳の機能はほぼ停止し、まとまった考えや気の利いたジョークどころか、常識的な日常会話さえも不可能になる。


 しかし、よからぬことを考える脳の部分はフル回転し、あらゆる最悪な未来を提示してくる。自分が発した一言に対して相手が返してくる、絶望的なほどに辛辣で関係修復不可能なリアクションが何十何百と想定されて、その処理だけで演算機能はパンクし、ほとんどフリーズしたのと同然になる。


 よって、沈黙するのがもっとも無難な選択のように思えるのだが、それがもっとも誤った選択であることもまた然りだ。


 ここに男の正念場を迎えた、第十八小隊ブラボー・チームで通信士を務める落合(おちあい)茂雄しげお(通称ミスター)は、全身から脂汗を流し、震えがくるような緊張の中でひたすら脳を回転させていた。


 目の前には、牛のアバラ肉に夢中でかじりついている憧れの女子、黒川スバルがいる。その透き通る青い瞳を斜め下四十五度にひたすら固定している彼女は、さっきから一度もこちらを見ようとはしてくれない。


 彼女と茂雄とは、半年前にガラパゴス消防学校のインターン研修のチーム分けのときに出会った。初めのうち、茂雄にとって彼女の印象はさほど強いものではなかった。むしろスバルは他の個性的な女子たちに埋もれがちですらあった。


 その鮮やかな赤毛と青い瞳、少年のように朗らかな容姿は魅力的ではあるが、それをあえて押し隠すように、彼女の言動は控えめだった。パイロットとしての腕前も一見すると平凡だった。


 宇宙消防士のパイロットといえば、かの有名な佐藤(さとう)愛梨紗ありさという伝説的な存在がいて、誰もがあの無鉄砲で力強い操縦に憧れていた。そんな中にあって、スバルの操縦スタイルはその対極にあった。彼女はひたすら安全で乗り心地の良い操縦を心掛けていた。スバルが操縦する船に乗る者は誰も、とてつもない重力加速度で座席に押しつけられたり、シートベルトで身体を切断されそうになったりすることはなかった。


 それは彼女の優しさや臆病さから来るものではあるのだろうが、そういったスタイルの大部分を支えているのは、彼女の芯の強さなのだ。茂雄は、あるとき、それに気がついた。愛梨紗のような乱暴な操縦がかっこいいとみなされ、新人たちがそれをこぞって真似たとしても、スバルだけはけっして流されなかった。


 茂雄は、何度か合同演習で同じ船に乗るたびに、黒川スバルというパイロットが持つ揺るぎなき精神の強さを感じた。それは端からは目立たないし、むしろ慎重すぎて大胆さに欠け、宇宙消防士としての素養が不足しているかのように誤解されかねない危うさすらあった。


 ある日のテストで、スバルはそのスタイルを守り続けたことによって、チームを唯一の合格へと導いた。茂雄はそのとき、たまたまスバルと同じチームになっていたことで、その瞬間を一緒に迎えることができた。


 そのテストは、地球の低軌道を飛ぶ訓練衛星で行われた。宇宙消防士の訓練生たちは、地上からアバターを遠隔操作することによって、ほぼ実際の現場と同じ条件でテストを受けることになった。


 低軌道には大小さまざまな人工衛星が飛び交っている。ひとたびどこかで衝突事故が起これば、放射状にスペースデブリが拡散し、あらゆる方向に破壊が広がる。そして、それは連鎖的に多くの事故を誘発する。


 そういった想定で、ある破壊された人工衛星に乗っている要救助者たちを救い出すミッションに、スバルと茂雄は参加することになった。訓練生は総勢十名いて、構成するメンバーはその半分が今の隊の顔ぶれと同じだが、残りの半分は消防学校を途中で脱落していった者たちだ。


 制御を失い、錐もみ状態で地球の大気圏へと落下していく人工衛星に、二隻の消防宇宙船が接近した。一隻を操縦するのは、今はもう名も顔も忘れてしまった訓練生のパイロットだ。そして、もう一隻のパイロットがスバルだった。茂雄は、スバルが操縦するほうの船に乗っていた。前者を訓練船A号、後者を訓練船B号と呼んだ。


 スバルが慎重に接近を試みている間に、もう一隻の訓練船A号は大胆にも猛スピードでの横づけを行なった。そのやり方は講義の資料映像で佐藤愛梨紗がしばしばやってのけ、喝采を浴びていた方法だ。訓練船A号はアームを伸ばし、錐もみ状態の衛星とドッキングすると、そのエンジンの噴射によって回転を即座に相殺した。


 スバルが操縦する訓練船B号が衛星に到着したときには、すでに要救助者はA号のメンバーたちによって一人残らず回収されていた。

 そこでミッションは終了した。B号に残された仕事は、制御を失った人工衛星を捕まえ、最寄りの消防衛星まで運ぶことだけだった。もっとも花形となる救助活動は、訓練船A号が先を越して何もかもやってしまっていた。


 しかし、A号のパイロットは大きなミスを犯していた。


 B号を操縦するスバルが慎重な接近を試みていたのは、要救助者たちの容態を確認し、適切な方法でドッキングするためだった。B号の船内では、パイロットのスバル、通信士の茂雄と共に、そのときのリーダーや、救命医や、宇宙船技師もそれぞれの意見を持ち寄って、間違いのない役割分担で事に臨む予定だった。ちなみにこのときの救命医が、さっきシェフと呼ばれて激高した足立俊作だ。


 俊作はゆっくりと近づく船の中から、衛星に取り残されている三人の要救助者たちの怪我の程度を遠隔で調べていた。


 このときのB号のリーダーは、ライバルのA号に先を越されるのを恐れて、スバルに早くアームを伸ばして衛星とドッキングするようにと迫った。それをスバルは拒絶した。これは競争ではないのだと、スバルは主張したのだった。要救助者の命を救うことが自分たちの仕事であって、けっして華々しい活躍を世間に披露することが目的ではないのだ、と。


 リーダーはその意見に折れて、少々頭を冷やしたようだった。それからは焦りを感じつつも、冷静な判断で訓練に臨むことに切り替えたようだった。


 救命医の俊作は、要救助者の一人が気がかりな症状を呈していることに気づいた。それは事故の衝撃による頸椎の骨折だった。乱暴な接近が致命傷になることに気づいた俊作は、そのことを船の全員に伝えた。


 そのときの宇宙船技師は、今はもう名も顔も忘れてしまったが、実に誠実に安全な救助方法をひねり出してくれた。衛星の制御系はすでに機能を停止していたが、酸素を生成するプラントはまだ無傷で生きていた。そのプラントの圧力を抜くバルブは、外に向かって開いている。そのバルブを開いたり閉じたりすることによって、衛星の錐もみを少しずつ軽減することは計算上可能だということがわかった。

 しかし、そのためには衛星にいる要救助者の協力が必要だ。


 通信士の茂雄は、衛星への通信を試みた。彼は自分のネビュラを衛星の乗組員と同期させてバルブの開け閉めをスムーズにさせるアルゴリズムをとっさに考案しさえした。


 パイロットのスバルは、それを粘り強く待っていた。彼女の操縦は極めて正確で、衛星の回転に合わせて船の角度をぴったりと固定していた。そのまま横付けして乗り込むことさえできそうなほどに安定していた。


 そのとき、訓練船A号が強引なドッキングを試みた。人工衛星の錐もみは止まったが、その勢いで大きく軌道がずれた。B号が見ている前で、衛星はどんどん大気圏へと落下していった。A号の訓練生たちは衛星へと大急ぎで乗り込み、大急ぎで要救助者たちを担ぎ出してしまった。


 乱暴な救助によって、頸椎を損傷していた要救助者は致命的なダメージを受けた。二〇七〇年代の医学をもってすれば、傷ついた脊髄は適切な治療を受けさえすればほとんどが修復できる。しかし、心臓や呼吸を司る神経が現場で切断されてしまったら、それをその場で補うことは消防宇宙船の設備をもってしても難しい。わずか二、三分で、酸素が供給されなくなった脳は死に始めるからだ。


 A号の訓練生たちがそのミスに気づいたのは、要救助者の心肺が完全に停止してから二分が経過した後だった。それから治療の準備をしても、もう遅いのだ。


 試験官たちはすべてを見通していた。常に冷静に自分の仕事に取り組んでいたスバルの努力が、ここで初めて人の目に触れることになる。


「ねえ、ミスター、どうしたの?」

 スバルの怪訝そうな声で、茂雄ははっと我に返った。

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