楽園実験(後編)・4b
景気が良くなると恋愛や結婚に対するハードルが下がる。これはおよそ百年前の高度経済成長期にも顕著に観察されたことであり、宇宙への進出が軌道に乗って好景気を迎えた現代においてもまた、はっきりと目に見える形で起きている現象だ。これは日本のみならず、アメリカ、ヨーロッパ、アフリカ、アジア、オセアニアなど、全世界で共通している。
そういった時代では、人はなかなか孤独でいることができない。集団内でカップルが次々と生まれ、その割合が一定数を超えると、多数派が少数派を呑み込み始める。カップルは仲間を求めるようになり、一人でいる者を見つけると、誰かとくっつけたくなる。そうして、連鎖的にカップルが生まれることになる。
焚火台のそばに、二人掛けの折りたたみ椅子が用意された。そこに黒川スバルと落合茂雄が無理やり座らされた。椅子は座る部分に布を張っているだけなので、二人の重みで中央が沈む。中央が沈めば、二人の身体は自然と中央に寄ることになり、ぴたりと密着する。
茂雄は半袖のワイシャツ、スバルは黒いTシャツを着ていて、二人とも腕が剥き出しだ。しかも、汗と体温の熱気がすごい。
「ごめんよ、なんだか巻き込んだみたいで」
茂雄は申し訳なさそうにささやいた。彼の泳ぎまくっている目は、眼鏡の黒いレンズのおかげでうまく隠されている。
スバルは顔をうつむかせ、前方斜め下四十五度の砂地をずっと見つめている。彼女の青い瞳は、横から見るとさらに透き通っている。茂雄の眼鏡のレンズは外から見ると真っ黒だが、実際の視界は極めてクリアだ。だから彼女の不思議な赤毛を間近に観察することができた。こんなに艶やかな赤毛は珍しい。キューティクルの輝きが目に突き刺さるようだ。スバルはその赤毛を短く刈りこんで、少年のようなスタイルにまとめている。そうすることで小さな頭と細い首が際立ち、守ってあげたくなるような可憐さが強調されている。
茂雄はこれほどまでにスバルと密着する機会があろうとは思いもよらなかったので、心の準備がまったくできていなかった。例に漏れず心臓は喉元までせり上がり、胃の中のものと一緒に内臓から何から全部出してしまいそうだった。
「あのさ」
スバルは控えめにつぶやいた。
「なんだい?」茂雄は努めてゆっくり答えたつもりだったが、普段よりも二・五倍の反応速度だった。
「その変なレンズ、元に戻してくれない?」
スバルは、茂雄のほうにちらちらと視線を向けた。表情が読めない黒いレンズが気になってしょうがないのだ。
「ごめん、戻すよ」
茂雄はフレームの側面に指先を当て、真っ黒にしていたレンズを透明に戻した。その瞬間に泳ぎまくっていた目をぴたりと静止させるために、彼は顔面に力を込めた。
「ちょっと、なんで変な顔するの?」スバルはぷっと吹き出した。
「ごめん、そんなつもりはないんだけど」
今度は茂雄が前方斜め下四十五度を見つめる番だった。好きな女の子とまともに視線を合わせられるほどの経験を、彼はまだ積めていなかった。
そんな情けない自分を、茂雄はがんばって奮い立たせた。こんなときに言葉が出てこないような男が一番モテないのだと彼は思った。女の子よりも先に立って、ぐいぐい引っ張っていけるような男でなければならない。
そんな二人の様子を、周りのみんなは見ているような見ていないような微妙な距離感で見守っていた。彼らは焚火台のほうだけを向き、ワイワイガヤガヤとおしゃべりしながらバーベキューを楽しみ、茂雄とスバルのことなんかまったく興味がありませんよ、という風を装った。しかし、その耳はしっかり二人のほうに集中している。
「ねえ、沙織、あの子たちにお肉持っていってあげたほうがいいかな」
晴香が小声で言った。
「そっとしておいてあげなさい。あんた、近くで話が聞きたいだけでしょ」
沙織はぴしゃりと言った。
茂雄はどうしたらいいかわからなくて、頭が爆発しそうだった。思い切って身体をスバルのほうに向けて、彼女の手を取り、思いをすべてぶちまけようかとも思った。しかし、そうすれば彼女がびっくりして逃げ出してしまうかもしれないという未来もはっきり見えてしまい、どうしても行動に踏み出せない。
一方のスバルは、ほんの少しイライラしていた。いや、かなりイライラしていた。早くこの煮え切らない状況から抜け出して、コンテナの中で氷水に浸かっている飲み物を飲みたくてたまらなかった。身体の中の水分が不足して、今にものぼせそうになっていた。しかも、ただでさえ暑いのに、こんなに男子と身体を密着させて、なぜこんなに暑苦しい思いをしなければならないのだろうかと腹が立っていた。
それに加え、さっきあんなにたらふくちゃんこ鍋を食べた後だというのに、彼女のお腹は空っぽだった。網の上で焼けている肉たちを、自分はまだひとかけらも口にできていないのだ。
そのとき、海のほうから一陣の熱風が吹きつけてきた。それが海辺のコテージと衝突し、つむじ風となって、焚火台を囲むみんなを巻き込んだ。風は香ばしい肉の香りをスバルのほうへと運んだ。彼女は思わず鼻をひくつかせた。
それを茂雄は見逃さなかった。彼はすかさず立ち上がると、一緒に立ち上がろうとするスバルを手で制した。
「俺が肉を取ってくるよ。ここで待っていて」
スバルは、強い勢いで突き出された彼の手に気圧されて、その場から動けなくなった。
スバルは言った。
「じゃあ、飲み物も持ってきてくれる?」
「わかった。どんなのがいい?」
「甘い炭酸」
「了解!」
茂雄は現場の宇宙消防士さながら駆け出していった。
スバルは、ようやく自由に呼吸できるようになってホッとした。彼とずっと身体を密着させていたので、気を使って息を吸ったり吐いたりすることさえ控えめにしていたのだ。
茂雄は皿に山盛りの牛肉を載せて戻ってきた。その肉はこのためにあらかじめ和馬たちが用意しておいてくれたものだった。アバラの骨がそのまま付いている牛肉がこれでもかと皿の上に積み重ねてある。
茂雄が椅子に座ると、座面の布は再び大きくたわみ、二人の身体はまたぴったりと密着した。
「これだと食べにくいよね」
茂雄は立ち上がると、自分の側にある肘掛けに腰かけた。足がぶらぶらして不安定だが、ここなら密着して暑苦しい思いをしなくて済むし、二人の間に空間ができるので、しっかり肘を張って骨付き肉にかぶりつくことができる。
「黒川さん、立ち上がらないでくれよ。俺がぶっ倒れちまうからね」
茂雄は懇願するように言った。この座り方はスバルの協力なくしては成り立たない。
「了解」スバルは笑顔で答えた。
さっきまで茂雄が座っていた席に、肉が山盛りの皿が置かれた。二人はそこからおのおの自分の肉を取った。
「これって、どうやって食べたらいいの?」とスバル。
「そのまま丸かじりでいいんだよ」と茂雄。
「うん」
とうなずくと、スバルは一口、控えめにかじった。「美味しい」
「そうかい、美味しいかい」
茂雄はとろけるような笑顔になって、自分も肉をかじった。緊張のせいで味なんかわかりゃしないし、ゴムを噛んでいるのと同じだが、きっと本当は美味しいのだろうと彼は思った。
「味は塩とコショウだけなの?」とスバル。
「他にもいろんなソースがあるけどね」
茂雄は、はっと気づいて、焚火台のほうに大声で呼びかけた。「へい! シェフ!」
スバルは慌てた。
「いいんだよ、これでも。塩とコショウでも十分美味しいから」
料理責任者の足立俊作がすかさずやって来た。彼の表情は半分好奇心、半分苛立ちが混ざって複雑だ。
「誰がシェフだって?」
「彼女に他のソースを持ってきてあげて欲しいんだ。いろんな味を試してみたくてね」
手すりに腰かけている茂雄は、かっこつけて言った。隣りのスバルは恐縮して顔を伏せている。
「そんなの、自分で取りに来い」
俊作は吐き捨てるように言うと、さっさと踵を返して行ってしまった。
そこに、沙織が血相を変えて駆け寄った。
「バカね、俊作、言われた通りにソースを持っていってあげたらいいの」
「嘘だよ、冗談冗談」
沙織の剣幕に、すっかりやり込められた俊作は、しおらしい様子でソースを持ってきた。小皿に分けられた様々なソースが、トレイの上に並んでいる。
「それではお客様、一つずつご案内させていただきます」
俊作はかしこまって言った。
「うむ」と茂雄は答えた。




