火を作るな
ルカの指先が赤い輪へ触れた。
熱が爪の下へ入り込む。
バルグランの胸の奥では、三つの炉から集められた熱が太い軸を回していた。近すぎて輪の全体は見えない。目の前を赤い金属が通り過ぎるたび、頬を殴るような熱風が来る。
止めるなら中心だ。
ルカは動く腕を引いた。拳を作ろうとして、開いた掌が滑る。鉤縄を肘へ巻きつけ、胸の外殻へ膝を押し込んだ。
足元で鎖が裂ける。
「十秒もたない!」
ダリオの声が蒸気の向こうから飛んだ。
十秒あれば、一度は試せる。
ルカは拳を炉心へ向けた。
何百回も繰り返した言葉が口から出る。
「灯火よ。指す先に――」
胸から腕へ。腕から掌へ。そこから炎を生み、狙った場所へ渡す。
教室の黒い芯を前に、何度も思い描いた流れだった。
「生まれよ!」
何も起きなかった。
拳は赤い軸へ届く前に止まり、指の間を熱風だけが抜ける。
バルグランが吠えた。
胸の外殻が閉じ始める。ルカは腕を引いたが、鈍くなった脚が滑った。肩から外殻の隙間へ挟まれ、呼吸が潰れる。
「ルカ、降りろ!」
降りる場所など見えなかった。下は蒸気で白く、胸部から炉床まで人の背丈の倍はある。鉤縄へ体重を預ければ戻れるかもしれない。握れる手は血で滑り、もう片方は感覚がない。
一本目の拘束鎖が切れた。
バルグランの前脚が跳ね上がり、巨大な身体が半分起きる。胸へしがみついていたルカも振り回された。背中が縦穴の縁へぶつかる。肺に残っていた空気が抜けた。
下でセラの防護光が広がった。
振り下ろされた爪を受け、薄い光が砕ける。衝撃でセラと施設班長が床を滑った。
「セラ!」
フィオナが班長の作業着を掴み、吸気室の壁際へ引く。彼女自身も立てず、片膝のまま身体を使っていた。
バルグランの尾が蒸気を払う。
ダリオは逃げなかった。補助爪へ金槌を押し込み、残る二本の鎖を緩ませまいと鉄棒へ両足を掛けている。
「カシアン! 火は!」
「杖が死んだ!」
カシアンは割れた赤い石を握っていた。光はない。
「なら何か投げろ!」
「もう投げた!」
怪物の目の脇には、折れた杖が刺さっている。
二本目の鎖が床から浮いた。
時間がない。
バルグランが自由になった前脚を壁際へ伸ばす。爪の先にはセラと施設班長がいた。
ダリオが補助爪を蹴り上げた。
腹へ巻いた鎖が半回転だけ緩む。バルグランの胴が前へ滑り、伸ばした爪が二人の手前へ落ちた。
「何してるの!」
「ずらした!」
ダリオは手輪を逆へ回し、すぐ補助爪を戻す。緩んだ鎖が再び腹へ食い込んだ。怪物の頭が床へ引かれる。
フィオナも吸気板の片方を閉じた。熱気の流れが横へ曲がり、バルグランの顔を壁側へ向ける。
「三秒! たぶん!」
「曖昧だな」
「風がもうないの!」
怪物は前脚を引き戻し、鎖を床へ叩きつけた。鉄の輪が跳ね、ダリオの頬を切る。それでも手輪から離れない。
ルカのいる胸部も大きく傾いた。
閉じかけた外殻へ膝を差し込み、押し返す。傷ついた脚では支えきれず、骨の縁が制服越しに食い込んだ。外殻が閉じれば腕ごと断たれる。
ルカは再び炉心へ顔を向けた。
赤い輪はさらに速く回っている。カシアンが与えた最後の炎を吸い込み、輪の縁が赤から白へ変わりかけていた。胸の穴へ入る空気が、ルカの髪と服を奥へ引く。
詠唱の最初の音が喉まで上がった。
さっきと同じ言葉。同じ構え。同じ順番。
全部やって、火は出なかった。
赤い輪が目の前を通り過ぎる。すぐに正面へ戻ってくる。
バルグランの身体がまた持ち上がった。胸の隙間が狭まり、外殻がルカの背と肩を押す。
その熱の中で、腕の内側を別の熱が走った。
炉心から受けている熱より深い場所。胸の奥から、肘、傷ついた掌、握った指へ続いている。
監獄炉へ着いた時、封印箱とは別に壁の中で脈打っていた熱。
煙の中で、目に見える前から分かった火の位置。
赤夜の後、何度思い出そうとしても見つからなかった、炎に焼かれた痛み。
三つの感覚が、傷ついた掌で重なった。
もう一度、「灯火よ」と言いかける。
腕の熱が引いた。
ルカは口を閉じた。
熱が肘まで戻ってくる。
「ルカ!」
フィオナの声が届く。
「聞こえてるなら返事して!」
返そうとして息を吸う。肋が痛み、半分で止まった。
けれど、その短い呼吸なら何度も使ってきた。
煙の下を進む時。
重い梁を持ち上げる時。
相手の杖より先に懐へ入る時。
吸って、止めて、踏む。
炎を出す時だけ、ルカはその呼吸を捨てていた。真っすぐ立ち、杖を構え、教わった術式へ身体を合わせようとしていた。
今、杖はない。
立つための足も、振りかぶるための肩も残っていない。
拳だけは届く。
ルカは鉤縄を歯で引き、腰を胸の外殻へ寄せた。動かない腕を隙間から抜き、胴へ巻きつける。傷の浅い方の脚を外殻の継ぎ目へ押し込んだ。
背中を丸める。
肘を引ける幅は、拳一つ分しかない。
充分だった。
制止訓練でカシアンの懐へ入った時も、訓練棒は大きく振らなかった。足を置き、腰を回し、肩を当てた。相手が進む力まで使った。
目の前の赤い輪も、自分からこちらへ回ってくる。
もう言葉を探さなかった。
火を作るな。
呼吸を戻せ。
下で金槌が一度鳴り、緩みかけた拘束鎖が張った。
短く吸う。
止める。
外殻を蹴った。
腰が回る。肩から肘へ、肘から拳へ、動きが一つにつながる。
赤い輪が正面へ来た。
ルカは拳を打った。
胸の奥にあった熱が、腰、肩、肘の動きに重なった。
血に濡れた拳が軸へ食い込んだ瞬間、白赤の炎が噴き出した。
拳から出た時は拳幅だった。それが赤い輪の内側で人の胴ほどに膨れ、中心へ突き刺さる。外殻の内側を照らし、ルカの前髪と制服を激しくはためかせた。握った拳は軸から外れない。
バルグランが吸い込んでいた空気が、炎をさらに奥へ引いた。
拳の衝撃で赤い輪が止まる。
白赤の炎は中心軸を貫き、その奥で渦を巻いた。
音が消えた。
回転も、咆哮も、鎖の軋みも途切れる。
次の瞬間、轟音とともにバルグランの胸が内側から白赤く染まった。
太い軸に亀裂が走る。炎は割れ目へ入り、胸から腹へ通じる三本の熱管を一気に走り抜けた。
首の付け根、脇腹、尾の根元。黒い外殻の隙間が順番に発光する。
腹の丸い穴から炎柱が三本噴き上がった。
白赤の火が縦穴の蒸気を突き破り、天井近くまで届く。吸気室が昼間のように明るくなり、仲間たちの影が石壁いっぱいに伸びた。
フィオナが施設班長へ覆いかぶさる。セラは防護光を二人の前へ広げ、ダリオは熱に顔を背けても手輪を離さない。カシアンだけが目を細め、炎の始まった場所を見続けていた。
炎柱がねじれ、三つの炉へ吸い戻される。
一つ目の炉が止まる。
二つ目は逆回転し、内壁へぶつかって砕けた。
三つ目の炉は白赤い光を抱えたまま膨らんだ。
「冷却水を切れ!」
カシアンが叫んだ。
フィオナがレバーへ飛びつく。上がらない。ダリオは金槌を補助爪へ残したまま、床を蹴って滑り込んだ。
「下を持て!」
二人で軸を押し戻す。
水が止まった。
直後、三つ目の炉が破裂した。
逃げ場を失っていた蒸気が縦穴へ噴き上がる。バルグランの外殻が内側から持ち上がり、ルカの身体も投げ出された。
鉤縄が張る。
腰へ直接巻いた縄が腹へ食い込み、落下を止めた。
その下で、バルグランが立とうとする。
前脚が一度、炉床を掻いた。
尾が持ち上がる。
セラたちのいる壁際へ向く。
ルカは縄にぶら下がったまま、もう一度拳を握ろうとした。
炎は出なかった。
指も曲がらない。
尾が落ちる。
床まで腕一本のところで止まった。
腹の光が消えている。
前脚から力が抜け、巨大な爪が石を滑る。バルグランの頭が炉床へ落ちた。割れた角が床板を突き抜き、そのまま動かなくなる。
残った二本の拘束鎖が、倒れた胴へ食い込んだ。
「止まった……?」
フィオナの声がした。
カシアンは答えない。折れた杖の代わりに床の金属片を拾い、胸の穴へ投げた。
赤い光は戻らなかった。
「止まった」
今度の声は低かった。
ルカはその言葉を聞いて、縄を握っていた力を抜いた。
最初から、ほとんど握れていなかったのだと後から気づく。
鉤が割れた外殻から外れた。
身体が落ちる。
「風、届いて!」
背中へ弱い風が当たり、落ちる向きが少し変わった。炉床ではなく、倒れたバルグランの肩へぶつかる。それでも衝撃は消えず、視界が黒く欠けた。
誰かが腰の縄を引いた。
セラの声が近い。
「呼吸あり。ルカ、目を開けて」
開けているつもりだった。
見えたのは、煤だらけのフィオナの頬と、光を失った炉心だけだった。
自分の拳から出た炎が何だったのか、ルカには分からない。
確かめる前に、音も光も遠ざかった。




