監獄の鎖
打音が止まった。
「扉、正面!」
フィオナが水路の突き当たりへ駆ける。丸い鉄扉は下半分が歪み、人の靴が隙間から見えていた。
ルカは上枠へ鉤を掛けた。ダリオが短いレンチを下へ差し、二人で持ち上げる。胸へ力を入れた瞬間、肋の奥が刺されたように痛んだ。
「三秒だけ耐えろ!」
開いた隙間から、セラとフィオナが男を引き出した。
施設班長は咳き込みながら、扉の奥を指す。
「主輪は回した……補助軸に鎖が噛んだ。外せば、拘束も水も動く」
「意識はある。出血も少ない」
セラは額へ布を押し当て、男を壁際へ座らせた。
「ここから動かないで。フィオナ、十秒だけ押さえて」
扉の奥は円い吸気室だった。中央軸から四本の鉄棒が壁の手輪へ伸び、頭上の縦穴へ拘束鎖が通っている。
セラが布を結び終える前に、縦穴から石が落ちてきた。
バルグランが追いついた。
格子を突き破って前脚が降る。ルカはダリオの襟を掴み、中央軸の裏へ引いた。爪が工具袋をかすめ、床板を四枚まとめて砕く。
「直せるか!」
ダリオは散った工具へ目も向けず、中央軸の覆い板を蹴った。
「直す。そいつを五十秒近づけるな!」
「長い!」
「じゃあ四十!」
覆い板へ金槌が落ちる。
ルカは鉤縄を前脚へ投げた。鉤が外殻の継ぎ目を捉える。腰を落として横へ引くと、次の爪が中央軸から指二本ぶん外れた。
だが、縄を握る右掌からすぐに血がにじむ。
バルグランが腕ごと振り上げた。ルカの身体が浮き、縦穴の石壁へ引き寄せられる。
「離して!」
フィオナの声が届く前に、ルカは縄を緩めた。鉤が外れ、床へ背中から落ちる。肋が鳴った。息が戻らない。
そこへ二本目の前脚が来る。
カシアンの杖から、針ほどの火が飛んだ。
怪物の右目を横切り、縦穴の反対側へ刺さる。バルグランは爪の向きを変え、火が消えた壁をえぐった。
「起きろ。次は外せない」
カシアンはルカを見ず、ひびの伸びた杖を構えている。
ルカは呼吸を一度諦め、足だけで立った。
「フィオナ、換気炉!」
「もう開けてる!」
壁際で二枚の吸気板が開く。フィオナが片方を押し、片方へ踵を掛けていた。狭い燃料皿にカシアンが火を入れる。煤と熱気が縦穴の中央へ吸い上げられた。
バルグランの頭が炎を追う。
その下でダリオが覆い板を外した。斜めに浮いた歯車へ、鎖の一節が食い込んでいる。
「ルカ、軸を押さえろ!」
ルカは中央軸へ背をつけた。吊った腕は使えない。腰と右肘で鉄棒を受ける。
ダリオが工具袋から潰れた鉄楔を抜いた。火山鉄道の貨物台を止め、駅で捨てずに持ってきた一本だ。
「こいつを歯の下へ入れる。三回叩いたら回せ!」
一打。
怪物の頭が換気炉からルカへ戻る。
二打。
太い首が縦穴を押し広げた。天井の亀裂が吸気室の端まで走る。
三打。
「回せ!」
ルカが腰をひねる。動かなかった軸が半回転し、ダリオの鏨が鎖の一節を弾き出した。
壁の四つの手輪が一斉に逆回転した。
ひとつだけ空回りする。バルグランが巻き上げ機ごと引き抜いた鎖だった。
「下がれ!」
ダリオが赤い取っ手を引く。補助爪が歯車へ落ち、ひとつ目の手輪が止まった。
旧収容炉から拘束鎖が跳ね上がる。
一本目はバルグランの前脚へ巻きついた。巨体が傾く。
二本目は空を切った。怪物は鎖を見て身体をひねり、肩で弾いた。鎖の先が吸気室へ落ち、石床を裂きながらフィオナへ走る。
「伏せろ!」
ルカは縄の鉤を鎖へ絡め、横へ飛んだ。軌道がずれ、鎖はフィオナの靴先をかすめて壁へ刺さる。
そのまま床を転がったルカへ、尾が迫った。
片膝を立て、尾の下へ潜る。外殻の突起が髪を削った。立ち上がる前に踵を返し、怪物の腹へ走る。
「ルカ、右!」
セラの声。
爪が横から来る。ルカは床へ落ちた鎖を踏み、身体を上へ逃がした。爪の甲へ一歩だけ乗り、頭を越えて反対側へ着地する。
脚に力が入るうちは、避けられる。
「二本目を拾え!」
ダリオが手輪を回す。壁へ刺さった鎖が引き戻され、バルグランの腹の下を走った。
ルカは鉤縄を鎖の先へ掛ける。怪物が前へ出た瞬間、その勢いを使って引いた。鎖が腹を一周し、反対側の留め具へ入る。
「今!」
赤い取っ手が落ちた。
二本目が張り、バルグランの胴を炉床へ引いた。
怪物は鎖ごと前へ進んだ。手輪の歯が一枚ずつ欠け、補助爪が跳ねる。
ダリオが金槌を爪へ叩きつけた。
「一枚でも戻ったら全部抜ける! カシアン、まだか!」
「吸わせる」
カシアンが杖を燃料皿へ向けた。細い炎が換気炉に引かれ、縦穴を昇る。
バルグランの胸が開いた。
赤い輪が二度回ったところで炎が消える。間を置き、もう一息。今度は腹の穴が二つ、順に明るくなった。
「強くなるぞ!」
「それでいい。動く瞬間をそろえる」
カシアンは怪物の胸と腹だけを見ていた。尾が上がる直前に火を切り、遅い炉へもう一度送る。
別々に動いていた三つの赤い輪が、同じ速さへ近づいていく。
バルグランが踏み込んだ。
前脚、腹、尾が同時に動く。一本目と二本目の鎖へ、巨体の力がまとめて掛かった。
炉床が沈む。
「三本目!」
ルカは床へ落ちた最後の鎖へ走った。尾が戻るより先に鉤を掛け、鉄柱の周りへ回り込む。鎖の先が怪物の後脚へ向いた。
あと二歩。
バルグランの動きが予想より速い。
爪先が右脛を裂いた。
足が前へ出たまま、身体だけが床へ落ちる。痛みより先に靴の中が熱くなった。
「止まって! 動脈なら――」
「まだ動く!」
ルカは這って鎖を押した。鉤が後脚の継ぎ目へ入る。
ダリオが三つ目の手輪を回した。鎖が後脚を引き、尾の軌道が床すれすれまで下がる。
「固定!」
赤い取っ手が落ちた。
三本の鎖が張る。
バルグランは吠え、全部の炉を回して身体を起こそうとした。狙いどおり力が一度に出る。拘束鎖は軋んだが、動き始める時機も一つになった。
「フィオナ、水!」
フィオナが冷却レバーへ体重を掛ける。錆びた軸は途中で止まった。
「ダリオ、これ嫌い!」
「俺もだ!」
金槌が飛び、レバーの根元へ当たる。フィオナがもう一度踏み込むと、軸が最後まで倒れた。
炉床の右側から冷却水が噴き上がった。
熱した前脚と腹へ水が当たり、白い蒸気が爆発する。視界が消えた。
尾だけが蒸気を割って飛んでくる。
ルカは負傷した脚を引きずってかわした。半歩足りない。
尾が肩を捉え、壁へ押しつけた。
骨がずれたような音がした。
固定していた腕から感覚が消える。指を動かそうとしても、何も返ってこない。
尾が離れ、ルカは壁沿いに落ちた。
「ルカ!」
セラが駆け出す。怪物の頭が声へ向いた。
「来るな! 班長を守れ!」
セラは止まった。代わりに短い防護光を投げ、ルカの前へ薄い壁を作る。次の爪が光を砕いた。
その一秒で、フィオナが床を這う風を送った。蒸気に細い道が開く。
胸の赤い輪が見えた。
「カシアン!」
「これで最後だ」
炎が換気炉へ入る。短く、消える。もう一度。杖のひびが赤い石まで達する。
胸の炉だけが限界まで速くなる。前脚と腹は冷却水に固められ、三本の鎖に引かれている。逃げ場を失った熱が胸へ集まった。
バルグランの外殻が大きく開く。
人の胴ほどある赤い輪。その中心を太い軸が貫いていた。
杖の石が割れた。
「行け!」
ルカは鉤縄を投げた。
鉤が胸の縁へ入る。動く腕で引いたが、開いた掌が滑った。負傷した脚も床を蹴れない。
背後で一本目の鎖が裂け始める。
ルカは縄を歯で噛んだ。
首を引き、肘を先へ掛ける。身体がわずかに進む。膝を外殻へ当て、また噛み直す。
バルグランが暴れた。鎖の揺れが縄へ伝わり、歯が軋む。
ダリオは補助爪を金槌で押さえ、カシアンは折れた杖を怪物の目へ投げた。フィオナが蒸気の穴を胸までつなぐ。セラの防護光が、落ちてくる石を一つだけ弾いた。
ルカはもう一度、縄を引いた。
膝が胸の外殻へ乗る。
赤い輪が目の前で回っていた。吸い込まれた熱が中心の軸へ集まり、白く変わりかけている。
一本目の鎖が半分まで裂けた。
ルカは縄を口から離した。
動く腕を、炉心へ伸ばした。




