残る理由
ルカが横穴へ踏み出すより先に、フィオナが脇を抜けた。
「待て」
「待たない」
返事は短かった。フィオナは地上へ続く格子を振り返り、飛行眼鏡を目元へ下ろした。それから分岐の手前で膝をつき、水面すれすれに顔を寄せる。指先で探るほどの風すらない。それでも、奥から流れてくる湿った空気の温度を確かめていた。
「左へ六十歩。その言葉だけで行く気だった?」
「打音が聞こえた」
「壁の中の管は音を運ぶ。聞こえた方角と、鳴らした場所が同じとは決まらない」
フィオナは暗がりを指した。
「こっちは水の匂いが新しい。取水室へ続いてる。隣は熱がこもってるから、たぶん古い炉の下。間違えたら戻る時間はない」
頭上で石が軋んだ。
「残り四十秒!」
鉄格子の向こうからボルクの声が飛ぶ。ローウェンが片腕を高く上げたまま、白い光で天井を支えていた。その額から汗が顎へ流れている。
「フィオナ、戻れ。ルカもだ」
「戻ります。下の人を連れて」
「命令を聞け!」
フィオナは振り返らなかった。水路の壁に頬を近づけ、呼吸を殺している。
ダリオが舌打ちした。
「話してる間に減ってくぞ」
彼は格子へ向かっていた足を止め、腰の工具袋を締め直した。膝が震え、留め金を一度で掛けられない。二度目で押し込むと、ルカの横を通り過ぎた。
「お前まで何してる」
「当直長は主炉の遮断輪へ行ったんだろ。あれが回ったなら、とっくに水の音が変わってる」
ダリオは壁を走る管へ短いレンチを当てた。金属の震えを手のひらで拾い、眉を寄せる。
「弁が途中で噛んでる。歯車か鎖も死んでるかもしれん。殴って直せる相手なら、お前に任せる。機械は俺の仕事だ」
「外へ出て先生に場所を伝えろ」
「場所が分かっても、扱える奴がいなきゃ同じだ」
言い終えると、ダリオはもうフィオナの隣で管を調べ始めた。
鉄格子の外から、低い唸りが響いた。
怪物の声だった。
遠い。だが、崩れた水路を掘り進む音が混じっている。石が割れるたび、足元の濁り水に細かな波が立った。
カシアンが格子へ片足を掛ける。外へ出るのだとルカは思った。
その手が、ボルクの差し出した腕を押し返した。
「先に避難者を」
「お前も避難者だ、馬鹿野郎」
「俺の杖が折れるまでは、まだ戦えます」
中央にひびの入った杖を掲げ、カシアンは格子から離れた。赤い石にはまだ弱い光が残っている。
「あれは俺の火を吸って速くなった。次に熱を使うなら、量を間違えられない」
「カシアン」
「俺の火で変わった。だから、ここで抜けるわけにはいかない」
声はいつも通り澄ましていた。杖を握る指だけが白い。
直後、崩落の向こうで何かが水へ落ちた。
重い足音が三つ続く。
格子の外にいた生徒が振り返った。担架を運ぶ足が止まりかける。
「見るな、進め!」
ボルクが怒鳴った。
カシアンは杖の先を排水管へ向けた。管は格子の脇で二つに分かれ、一方が避難路、もう一方が崩れた主水路へ延びている。
「フィオナ。右の管はどこへ抜ける」
「崩れた広間。今は行き止まり」
「十分です」
杖の石に小さな火が灯った。拳ほどにもならない炎が、細い管の中へ吸い込まれていく。
「そんな火で何をする」
「右の行き止まりへ熱を流す。あれを避難路から離す」
カシアンは目を閉じ、杖をわずかに傾けた。炎は途切れず、強くもならない。管の内側だけを温めながら、避難路から遠ざかっていく。
やがて、怪物の爪音が止まった。
一拍遅れて、右奥で石壁が砕ける。
バルグランは管を伝った熱を追ったのだ。
「今ので、どれだけ稼げる」
ルカが訊く。
「十秒か、運がよければ二十秒。次も同じ手が通る保証はありません」
カシアンは火を消した。杖のひびが先端へ一本伸びていた。
「残り三十秒! 負傷者を下げろ!」
外側で人が動いた。救出された作業員たちが担架ごと運ばれていく。第一班の生徒二人も肩を貸し、狭い足場を上がっていった。
セラはその流れに逆らって格子の前へ来た。
「受け取って」
医療鞄が隙間を抜けて飛んだ。ルカが胸で受け止める。肋の奥に痛みが走り、息が詰まった。
「何を――」
セラは返事をせず、格子へ頭から潜り込んだ。ボルクが胴を掴もうとしたが、彼女は石床を蹴って腕を抜ける。外套の裾が鉄に引っかかり、布が裂けた。
「セラ!」
ローウェンの叱声が水路を震わせた。
「外には先生がいて、治療を手伝える人もいます。下には生死も分からない人が一人。肋を痛めたのに走ろうとしてる人も一人」
セラはルカから鞄を奪い返し、肩に掛けた。
「私が行く場所は決まってます」
「勝手に決めるな。戻れ!」
「それ、ルカにも言ってください」
「もう言った!」
石の軋みが一段高くなった。支えの光に黒いひびが走る。
ローウェンが奥歯を噛んだ。格子のこちらには五人。外側には運びきれていない負傷者と生徒がいる。光を解けば、入口ごと落ちる。
「二十秒!」
「全員、格子から離れろ!」
その命令は、こちら側の五人へ向けたものでもあった。
ルカは一歩戻った。皆を押し出す時間はない。自分だけ残ると言ったのに、誰も聞かなかった。
「俺についてくる必要はない」
「まだ言ってる」
フィオナがようやく顔を上げた。
「あんたを追ってるんじゃない。私は道を作りに行くの」
「俺は施設を止める」
ダリオが続けた。
「私は患者を連れ帰る」
セラは鞄の金具を確かめる。
「俺は火の始末をする」
カシアンだけが格子の外を見ていた。
四人とも、ルカの許可を求めていない。
ローウェンの光が大きく揺れた。
「生きて戻れ! 戻ったら五人まとめて処分する!」
「はい!」
答えたのはルカだけだった。
ボルクが鉄格子から手を離す。ローウェンも同時に光を切った。
石と泥が一気に落ちた。轟音が狭い水路を押し潰し、白い光も外の声も消える。濁流が足首まで跳ね上がった。
しばらく、誰も動けなかった。
退路だった場所は、崩れた石で完全に塞がれている。
セラが崩落へ駆け寄り、石の隙間に耳を当てた。
「向こうで声がする。先生たちは動けてる」
「なら、掘り返すのは後だ」
ダリオが管をレンチで叩く。澄んだ音と鈍い音が交互に返った。
「水が来てない。遮断輪を回した途中で、どこかが詰まったままだ」
フィオナが進路の壁に掌を当てた。魔術を使う余力が乏しい彼女は、目を閉じて肌に触れる空気だけを待つ。
「急いで。奥の流れが弱くなってる。完全に止まったら、取水室まで道を選べなくなる」
闇の奥から、また打音が届いた。
弱い。最初より間が長い。
「フィオナ」
「右寄りに進む。二つ目の枝で左。空気が冷たい方を選んで」
「ダリオ」
「管を追う。遮断輪まで行けば、主炉と換気炉の位置も読める」
「セラ」
「歩けるうちは歩いて。呼吸が浅くなったらすぐ言う」
「カシアン」
「後ろを見ます。怪物が近づいたら、火を一つだけ置く」
誰に教えられたわけでもなく、五人の位置が決まった。
フィオナが先頭で道を選ぶ。ダリオは管と床を見る。セラが中央で全員の息を聞き、カシアンは最後尾で杖を構えた。
ルカはその間に立ち、腰へ結んだ鉤縄を握る。
崩落の向こうで、巨大な爪が石を砕いた。
バルグランも追ってくる。
「行こう」
五人は、打音のする地下へ走り出した。




