届かなかった拳
胸の赤い輪が二度目を回った。
「肩が止まる!」
ルカの声に、カシアンが杖を振る。
細い炎がバルグランの右肩へ走った。黒い外殻の継ぎ目を一周し、奥へ入らず表面だけを赤くする。
怪物の頭が炎を追う。
「まだ!」
ルカは傾いた踊り場を駆け下りた。胸と肩へ巻いた鉤縄が背中で張る。腿の痛みは三歩目で強くなったが、歩幅を狭めず踏み切った。
バルグランの爪が下から跳ね上がる。
ルカは身体を横に倒した。爪の先が上着を裂き、脇腹のすぐ外を通る。鉤縄へ全体重が掛かり、進む向きが斜め上へ変わった。
巨体の肩が迫る。
「フィオナ!」
「一回きり!」
風が横からぶつかった。
ルカの身体が角の外側へ押し出される。靴底が肩の外殻へ触れ、二歩だけ駆けた。黒い板が熱で軋み、足元の継ぎ目から赤い光が漏れる。
バルグランが頭を振った。
角が背後から追ってくる。
ルカは縄を引きつけ、肩の上から飛ぶ。角の先が靴裏を削った。身体が一回転し、怪物の胸が正面へ来る。
「今だ!」
カシアンの炎が右肩から胸へ移った。
《灼糸》が外殻の縁へ沿い、二本目も同じ線へ重なる。炎は広がらない。ルカの足元から一歩も離れていない場所を通りながら、上着さえ焦がさなかった。
胸の外殻が持ち上がる。
指二本分。
まだ狭い。
「開け!」
カシアンが杖を押し込む。
二条の炎が外殻の縁を左右へ分かれた。赤くなった継ぎ目が軋み、隙間が拳一つ分まで広がる。
吸い込みが始まった。
炎が胸の奥へ引かれる。空気も、煤も、ルカの上着も同じ方向へ引っ張られた。
ルカは縄を身体から外した。
戻る道がなくなる。
両足を外殻へつき、開いた隙間へ飛び込んだ。
熱が顔を打つ。
胸の内部に、赤い輪が回っていた。人の胴ほどある。厚い軸が輪の中央を貫き、吸い込んだ炎を前脚へ送っている。
輪まで一歩。
ルカは外殻の縁へ足を掛けた。右腕を引く。掌の包帯がきつくなり、傷が開いた感触が戻った。
それでも拳を止めない。
肩を入れ、腰を回す。
赤い輪の中心へ打ち込む。
「腹が動いた!」
ダリオの声が、背後から届いた。
ルカの視界に、横から黒いものが入る。
尾だった。
胸の輪は吸気に入っている。肩の輪も止まっていた。腹の奥にある二つだけが、別の速さで回っている。
尾が外殻ごとルカを打った。
拳は赤い輪の手前を通り過ぎた。
身体が胸から剥がされる。
次に見えたのは石壁だった。
受け身を取る時間はない。左肩から壁へ叩きつけられ、続いて脇腹が当たる。骨の内側で短い音がした。
息が出た。
吸い直せない。
ルカは壁を滑り落ちた。床が近づく。頭だけは打たないよう顎を引いたが、腕が身体についてこなかった。
「ルカ!」
フィオナが腕を振る。床の水が左右へ散ったが、風は落下するルカまで届かない。ルカは背中から傾いた床へ落ち、二度転がった。脇腹に痛みが走り、呼吸が途中で止まる。
床へついた衝撃で、掌の包帯にも血がにじんだ。
鉤縄も落ちてきた。
天井梁が根元から折れている。ダリオが身体を投げ出し、床を滑る縄を踏んだ。鉤はルカの足元で止まった。
「縄はある! 動けるか!」
ルカは返事の代わりに膝を立てた。
左腕を上げようとすると、肩から先へ鋭い痛みが走る。肘までは動く。胸の前へ寄せれば、どうにか支えられた。
息を深く吸う。
脇腹が内側から刺されたように痛んだ。浅くなら吸える。
「動ける」
「その答え、今は信用できない!」
フィオナが駆け寄ろうとする。
「来るな! 施設員を見てて!」
ルカの声は途中で掠れた。
カシアンが炎を消す。
胸へ吸われかけていた二条も切れ、黒い外殻が閉じた。バルグランの胸に残った傷は、拳一つ分の手前で塞がっていく。
ルカは三人を見た。フィオナは壁へ片手をつき、肩で息をしている。ダリオの膝は鉤縄を踏んだまま震え、カシアンの杖には中央まで亀裂が走っていた。
「届かなかった」
ルカが言う。
「見れば分かる。立て」
カシアンが前へ出た。杖を短く持ち替え、バルグランの爪を横から受ける。炎ではなく杖身で軌道をずらしたが、衝撃で靴が床を滑る。
続く爪が下から返る。
カシアンは杖の石突きを床へ当て、それを軸に身体を半回転させた。爪が制服の裾を裂く。着地と同時に杖先を怪物の目へ突き出し、顔を一瞬だけ止めた。
杖の中央には亀裂が入っている。もう一度まともに受ければ折れる。それでもカシアンは下がらず、ルカと施設員の間に立った。
「次の反省は、ここを出てからだ」
怪物の右前脚が上がる。
カシアンが避けるより先に、ルカは足元の鉤を蹴った。
鉤が床を滑り、爪の間へ入る。
「ダリオ、引け!」
ダリオが縄へ体重を掛ける。怪物の爪が鉤を踏み、わずかに内側へ曲がった。
カシアンはその隙間を抜ける。
直後、爪が鉤を弾いた。縄が床を走り、ルカの腿へ巻きつく。
「回収!」
ルカは靴で縄を押さえ、身体の後ろへ送った。ダリオが石板の陰まで引き込む。
バルグランが吠えた。
閉じた胸の奥で、複数の赤い輪が同時に速くなる。さっき吸われた炎が、肩から前脚、腹から尾へ順に流れた。
「来るぞ!」
ダリオが鏨と金槌を工具鞄へ投げ入れる。
バルグランは爪を振らなかった。
巨体ごと坂を駆け上がる。
「石板の下から出せ!」
年配の施設員と若い施設員が防熱布を引く。額を負傷した一人が交換空気筒を胸へ抱え、狭い隙間を這い出した。
ルカも布の先へ向かう。
「触るな」
ダリオが肩を押し返した。
「その腕で持てば、途中で落とす」
「じゃあ前を空ける」
ルカは走った。
左側へ体重を移すたび肩が揺れ、脇腹の痛みで息が切れる。六歩先、沈んだ排水点検口の横に、細い保守階段の手すりが残っていた。
「あそこへ!」
階段は三段目から上が崩れている。下には冷却水を逃がす横穴があった。人を寝かせて入れる幅はある。
フィオナが横穴へ風を送る。
「奥へ抜けてる。十歩先で右に曲がる!」
「負傷者から入れる!」
四人が防熱布を階段前へ運ぶ。
その背後で、バルグランが踊り場へ突っ込んだ。
前脚が傾いた床へ沈む。怪物は止まらず、頭を振り上げた。二本の角が天井を支える太い梁へ当たる。
梁が折れた。
冷却路全体が下へ落ちる。
「横穴へ飛べ!」
ルカは若い施設員の背を押した。防熱布が横穴へ滑り込み、年配の施設員が後ろから続く。フィオナとダリオも身体を低くして入った。
カシアンが最後までバルグランへ杖を向けている。
「カシアン!」
「先に行け!」
怪物の頭上から石梁が落ちた。バルグランは肩で受け、砕きながら進む。
ルカはカシアンの襟をつかみ、横穴へ引き倒した。二人のすぐ後ろへ天井材が落ちる。
暗闇の中を冷却水が押し寄せた。
ルカは脇腹を押さえ、片膝をつく。吸う息は短い。左腕は肩より高く上がらなかった。
背後では、崩れた石の向こうから爪が突き出している。
前には十歩先で曲がる細い横穴。
地上へ続いていた冷却路は、もう残っていなかった。




