正しい魔法の限界
傾いた踊り場を、負傷者を載せた防熱布が滑り始めた。
「壁へ寄せろ!」
ルカが布の先を押さえ、若い施設員が後ろから持ち上げる。床の割れ目へ脚が落ちる寸前で止まった。
頭上の排水点検口は半分埋まり、手を伸ばしても届かない高さへずれている。外へ続く穴から冷たい空気だけが落ちてきた。
坂の下でバルグランが踏み込む。
一歩目で水が跳ねた。
二歩目で、踊り場の端が崩れた。
「右奥だ。割れた壁の裏に空間がある」
ダリオが沈んだ床を短いレンチで叩く。壁から落ちた厚い石板が斜めに残り、その下に人三人が伏せられる隙間を作っていた。
「上の梁は持つ?」
「今の衝撃なら一回。二回目は知らん」
「十分だ。施設員を入れる」
年配の施設員と額を負傷した一人が、防熱布を石板の陰へ引いた。交換空気筒の面がずれ、挟まれていた男が咳き込む。フィオナが管を短く持ち直した。
「空気はあと少し。苦しくなった時だけ深く吸って」
「俺たちは?」
若い施設員が聞く。
「この人の面と止血布を見てくれ。血が結び目を越えたら呼ぶ。外へ出る時は三人一緒だ」
返事を待つ間にも、バルグランの頭が坂を上がってくる。
ルカ、フィオナ、ダリオ、カシアンは石板の前に並んだ。守れる幅は六歩。後ろへ下がれば施設員を踏む。
「右の前脚を止める」
カシアンが杖を水平にした。
「吸わせるなよ」
「分かっている。殻の継ぎ目だけを焼く」
バルグランが前脚を上げる。爪と踊り場の距離が五歩まで縮んだ。
カシアンの杖先から《灼糸》が伸びる。糸ほどまで細くした炎だった。
炎は爪の付け根を横切り、二枚の外殻が重なる線を正確になぞった。黒い殻の縁が赤くなる。バルグランの脚が途中で止まり、重い身体が傾いた。
「効いた!」
フィオナが叫ぶ。
胸の穴が開いた。
細い炎が継ぎ目から剥がれ、胸へ吸い込まれる。赤くなった殻はすぐ黒へ戻った。
前脚が落ちる。
「右へ!」
フィオナ、ダリオ、カシアンが石板の端へ飛ぶ。
ルカは反対へ踏み込んだ。
爪の落ちる先には、施設員を守る石板がある。全員で避ければ、次の一撃で隠れ場所ごと割られる。
崩れた点検口から、鉄の横棒が転がってきた。ルカは靴先で跳ね上げ、落ちてくる前脚の内側へ潜る。頭上を外殻が通り、熱で髪が浮いた。
カシアンが焼いた継ぎ目はまだ赤い。
ルカは身体を一回転させ、踵で横棒の端を蹴った。
鉄棒が継ぎ目へ突き刺さる。
バルグランの爪が狙いを外れ、石板の手前へ落ちた。踊り場が跳ね、ルカの身体も床から浮く。
「抜けろ!」
ダリオの声が飛ぶ。
外殻が閉じ、横棒を二つ折りにした。
ルカは前脚の下を転がって抜ける。遅れて振られた尾が正面から迫った。壁を二歩駆け上がり、尾の上を越える。着地で腿が沈んだが、膝は折れなかった。
爪は一瞬前まで立っていた床を砕き、亀裂が施設員の隠れる隙間へ走った。
ダリオが割れ目へ鏨を差し込む。魔法は使わず、金槌で奥まで打ち込んだ。開きかけた石がそこで止まる。
「こっちは長く持たん。次は左へ逸らせ」
「右脚の傷を狙う」
カシアンが位置を変える。
バルグランがルカを追って向きを変える。傷の入った右脚の内側が、二歩分だけ露出した。
「今だ!」
炎が低く走る。最初の一条が継ぎ目へ入り、二条目がその奥を狙った。狙いは同じ場所から動かない。ルカが横棒で作った傷へ、炎だけが細く重なる。
黒い外殻が裂け、赤い光が一瞬見えた。
バルグランの脚が沈む。
カシアンは踏み込み、杖をさらに前へ出した。炎を太くせず、傷の奥へ押し込む。
胸の穴が唸った。
「切れ!」
ルカの声で、カシアンが術を止める。残った炎が胸へ引き剥がされ、傷口は外殻の下で閉じた。
バルグランは沈んだ脚を強く踏み直す。床が割れ、身体が元の高さへ戻った。
精度は足りていた。炎の太さも、燃やす範囲も、授業で見た時より小さい。黒い殻を一枚割っても、その奥へ届く前に胸の吸い込みが炎を奪う。
ルカはバルグランの動きを追った。
吸い込んだ直後、胸の穴は閉じる。赤い輪が速く回り、前脚へ熱が移る。三度、床を削る音が続くと輪が遅くなった。
胸の外殻が持ち上がる。
隙間から空気が吸われた。
「今、開いた」
「どこが?」
「胸の殻。吸う直前だ」
バルグランが顔を上げる。胸の穴はもう閉じていた。
「一度で決めつけるな」
ダリオが鏨から離れずに言った。
「分かってる」
ルカは床に落ちていた石片を拾った。さっき鉄蓋が潰れた場所に近く、まだ温かい。坂の左側へ投げる。
石片が水へ落ちた。
バルグランの顔がそちらへ向く。腹の輪が二つ回り、尾が壁を打った。胸の穴は動かない。
熱が弱すぎる。
「カシアン、左壁へ一秒だけ」
「目的は」
「吸うまでの間隔を見る。壁に当てたら消して」
「怪物を強くするぞ」
「分かってる。だから一秒だ」
カシアンは杖を振らない。
「間隔を見て、それから何をする」
ルカは胸の穴を指した。
「開いた中を殴る」
フィオナがルカの横顔を見る。
「近づくってこと?」
「炎は手前で全部吸われる。俺なら吸われない」
「爪には普通に当たるけど」
「正面からは行かない。鉤縄で肩の外を回る」
腰の救助帯には荷重を掛けられない。縄を身体へ直接回せば、飛び移った後に外す時間が要る。戻る余裕まで考えると、一度しか試せない。
「殴って何が変わる」
ダリオが問う。
「胸の輪が一つ止まれば前脚が鈍る。外へ出る時間を作れる」
「止まる保証は?」
「ない。殻の上から打つよりは届く」
バルグランが口を開いた。熱気が踊り場へ流れ込み、石板の陰から苦しそうな咳が返る。
フィオナが風を床へ押しつけた。熱気は足元で二つに割れ、施設員の隠れる隙間を避ける。
「長くは無理!」
カシアンの杖先に炎が灯った。
「一秒だ。数えろ」
炎が左壁を走る。
「一!」
消えた炎の跡だけが赤く残る。
バルグランは左を向いた。すぐには吸わない。胸の輪が二度回り、前脚が一歩進む。肩の輪が遅れ、外殻の下で止まった。
三歩目。
胸の外殻が指二本分持ち上がった。
空気が鳴る。
赤熱した壁の熱が細い線になり、胸へ吸い込まれた。
「三歩ごとだ」
「違う」
カシアンが杖を構え直す。
「胸の輪が二回、肩が一回止まった後だ。歩数は奴が動かなければ数えられない」
ルカは怪物の胸を見たまま頷いた。
「じゃあ、その回転を合図にする」
ダリオがルカの鉤縄を受け取り、傾いた天井梁へ鉤を掛ける。二度引き、梁の根元をレンチで叩いた。
「一回分なら持つ。帰りまでは知らん」
「帰りは床へ落ちる」
「それで脚を折ったら、セラに俺が怒られる」
「俺も一緒に怒られる」
フィオナが縄のたるみを風で持ち上げ、バルグランの角に触れない高さへ送る。
「横から一度だけ押せる。二度目は期待しないで」
「十分だ」
ルカは縄を肩と胸へ回した。掌の傷へ力が集まらない位置で結び、足を前後に開く。腿は痛む。踏み切りを迷えば、そのまま爪の前へ落ちる。
カシアンだけがまだ答えていなかった。
「炎をどこへ置く?」
ルカは怪物の肩を指す。
「最初は右肩。吸い込みが始まったら胸の縁へ移してくれ。俺が入る隙を少し広げたい」
「君の身体まで焼く距離だ」
「俺が合図を遅らせたら撃つな」
「失敗すれば、次の機会はない」
「分かってる」
カシアンはしばらく黙り、杖先の火を消した。
そして杖をルカの指す位置へ合わせる。
「合図はお前が出せ。俺の炎は、お前が見つけた隙へ通す」
坂の下で、胸の赤い輪が一度回った。




