訓練ではない
隔壁の向こうで、救難信号が三度目を鳴らした。
短く三回、長く一回。音の間隔が前より広い。笛を吹く者の息が続かなくなっている。
「返事をする」
ルカは冷却溝へ膝をつき、鉤縄の柄で金属板を叩いた。同じ形を一度返す。
向こうの笛が止まった。
「聞こえるか! 学院の実習班だ。人数を教えてくれ!」
隔壁の下には、水を流すための隙間がある。そこへ顔を近づけると、しわがれた声が返ってきた。
「施設員、三人! 一人が梁に挟まれてる! こっちの扉は動かん!」
返事の終わりを、上からの衝撃が消した。
冷却路の壁が揺れ、左の溝から水が跳ねる。坂の上でバルグランが崩れた階段を踏んでいる。石が一つずつ転がり、二班の足元を通って青い扉まで落ちていった。
「全員、中央から動かないで」
セラは負傷者を搬送布ごと坂へ下ろした。瞳を見てから、首筋へ指を当てる。
「名前は言える?」
「言える。吐き気も、さっきよりは」
「眠くなってない?」
「怖くて無理だ」
「それなら返事を続けて」
左足首の固定は緩んでいない。腰を打った痛みも強くなっていない。セラは次にルカの止血帯をめくった。
「またにじんでる」
「動く」
「握る動きは禁止。転んで傷口をついたら、そこで止める」
ダリオは坂へ寝そべり、中央の石板と壁の継ぎ目を見ていた。測定針を溝へ差し込む。
「ここの下、空いてる。水路の天井が割れ始めた」
「どのくらい持つ?」
「時間じゃ読めない」
上で二度目の衝撃が鳴る。中央の石板が、指一本分ずれた。
「今のが、あと二回来たら落ちる」
カシアンが全員を数えた。
「こちらは八人。歩ける者七人、搬送一人。隔壁の先に施設員三人、そのうち一人が動けない。合計十一人」
「上の空気、まだ来てる」
フィオナは坂の左右へ順に手を伸ばした。上からは熱い風が押してくる。その奥に、細く冷たい流れが混じっていた。
「崩れた階段の右側。壁の中に外へ抜ける道がある。狭いけど、風は止まってない」
ダリオが立ち上がる。
「排水点検口だ。踊り場の壁に蓋がある。中は人一人分。入口を広げれば、搬送布も縦で通せる」
「広げるのに?」
「ボルトが生きてれば二分。潰れてたら分からん」
ルカは坂の上を見た。崩落した階段の右壁まで三十歩。バルグランはそのさらに向こうにいる。赤い光が石の隙間を横切るたび、熱気が降りてきた。
下には、閉じた青い扉。隔壁の向こうには三人。
全員で施設員を助けに行けば、負傷した生徒まで怪物へ近づける。全員で出口を開ければ、笛の向こうの三人が瓦礫の下へ残る。
「先に点検口を開ける」
ルカはダリオへ言った。
「負傷者が入れる幅まで作ってから分かれる。フィオナ、上の風を見て。セラ、動かせるか決めて」
「カシアンは?」
「上を警戒してくれ。炎は使わない。角が見えたら全員を伏せさせる」
カシアンは杖を腰へ戻した。
「了解した。次に姿を見せたら、私が退避を命じる」
役目を取り合う時間はなかった。
八人は負傷者を持ち上げ、坂を上る。両端の溝から水があふれ、中央の石板まで濡れ始めていた。ルカは搬送の右側を歩き、滑る石を足で脇へ出す。搬送布の揺れは肩で抑えた。
踊り場まで十歩のところで、カシアンが手を上げた。
「止まれ」
崩れた出口の奥に、二本の角が現れた。
バルグランは壁の穴から頭だけを入れ、坂の中央を見下ろしている。胸の穴から赤い光が漏れ、呼吸のたびに強くなる。
ルカたちは動かなかった。
負傷者の息だけが速い。セラが口元へ手を添え、声を出さずゆっくり吐かせる。
バルグランの目が、左の冷却溝へ動いた。
流れてきた水が、怪物の熱で温められている。湯気が上がった場所を追うように、頭が横へずれた。
フィオナが指を二本動かす。細い風が湯気を反対側の壁へ運んだ。
怪物の目も、そちらへ移る。
「今」
カシアンの合図で隊列が進んだ。
踊り場の右壁に、腰ほどの高さの鉄蓋がある。ダリオが短いレンチで上下のボルトを回した。上は動く。下は半分潰れ、空回りした。
「ルカ、蓋を引け。傷口に力をかけるな」
鉤縄を蓋の取っ手へ掛ける。ルカは腰へ巻こうとして、裂けた救助帯を見た。金具が一つ外れ、強く引けば革まで切れそうだった。
縄を肩へ回す。
「引くぞ」
ダリオが潰れたボルトへ鏨を当てた。ルカが後ろへ体重をかけるのと同時に、金槌を振る。
ボルトの頭が折れ、鉄蓋が外れた。
冷たい空気が顔へ当たる。
「外につながってる。曲がり角二つ、その先は上向き」
フィオナが風を送り、返ってきた流れを読む。
「煙なし。人もいない。途中が一か所狭い」
「負傷者は?」
セラが点検口へ腕を入れ、幅を測った。
「搬送布を胸と腿で絞れば通る。足側から。途中で止めないこと」
第一班の二人が顔を見合わせた。一人が搬送布の前を持つ。
「俺たちで運ぶ。こいつは俺たちの班員だ」
「セラ、二人と上へ行ってくれ」
ルカが言うと、セラの目が止血帯へ落ちた。
「あなたは隔壁へ行くつもりね」
「梁に挟まれた人がいる。ダリオがいないと外せない。中の空気はフィオナが必要だ」
「怪物が来た時は」
「カシアンに見てもらう」
カシアンが口を挟む。
「四人で行く。救出方法はルカ、構造はダリオ、空気はフィオナが決める。バルグランが接近したら、撤退は私が決める。炎は使わない」
セラは一度、隔壁の方を見た。
「挟まれた人の出血が多い可能性もある」
「分かってる」
「分かってない。私が行けない以上、最初に声をかけて。呼吸と大きな出血を見て、動かす前に必ず返事を聞く」
セラは自分の腰袋から止血布を二枚抜き、ルカの上着の内側へ押し込んだ。
「三人を連れて戻って。治療はここで引き受ける」
「任せる」
上の壁が三度目に揺れた。
バルグランの爪が崩れた階段をかき分ける。ダリオが床を見る。ずれていた石板がさらに沈み、冷却溝へひびが伸びた。
「残り一回だ!」
「分かれる!」
ルカは点検口へ負傷者の足側を入れた。第一班の一人が先に入り、奥から搬送布を引く。もう一人が肩側を押し、セラが固定した左脚を守る。
負傷者の身体が点検口の奥へ消えた。セラが最後に入り、振り返る。
「無理をしたら、戻ってきても治さないから」
「それは困る」
「なら守って」
鉄蓋は閉めず、冷たい空気の道を残した。
ルカ、フィオナ、ダリオ、カシアンは坂を下る。
隔壁の前へ着くと、向こうから声がした。
「まだいるか!」
「いる。今開ける!」
横棒は途中で曲がり、受け金へ食い込んでいた。ダリオが短いレンチを差して押す。
「ルカ、下を蹴れ。フィオナ、隙間の煤を飛ばせ」
ルカが扉の下端へ踵を当てる。フィオナの風が隙間を走り、固まった煤を奥へ押し出した。
「カシアン、引け!」
三人で横棒を動かす。曲がった部分が受け金から外れ、床へ落ちた。
隔壁が手の幅だけ開く。
ルカが下端へ肩を当て、カシアンと押す。扉は床をこすりながら動き、人が横向きに通れる幅まで開いた。
向こうは暗く、低い天井の上半分を煙が満たしていた。その奥から、施設員の咳が聞こえる。
背後で青い扉がへこんだ。
バルグランが冷却路の下側へ戻ってきた。
「先へ入る。三人を見つけるまで閉めるな」
ルカは鉤縄を持ち、隔壁の隙間へ身体を入れた。




